前回記事の続きでがす。(・∀・)
朝日山から下りてきて、善通寺方面へ5km程トコトコトコ
着きました。
奥の小さい丘。
そうなんです。 古墳ですよ。 ここは宮が尾古墳。
それでは、みなさん 一緒にお勉強していきましょうね。(゚∀゚)アヒャ
なんと!! 善通寺市だけで400基以上の古墳があったなんて!! w(゚o゚)w オオー!
【古墳時代】
フムフムと説明書きを読み・・
宮が尾古墳に近づきますよ。
格子戸の奥は・・
アルミの脚立やら電線が少々残念・・
宮が尾古墳の奥には、横穴式石室の原寸大の復元模型がありました。
宮が尾古墳の道路側には・・
宮が尾古墳と同時期に造られた2号墳。
ちゅうことで・・・
michiruくん、ひとつお利口さんになりましたよ~~v( ̄∇ ̄)v
まだ・・
続く・・・
ざんす
朝日山から下りてきて、善通寺方面へ5km程トコトコトコ
着きました。
奥の小さい丘。
そうなんです。 古墳ですよ。 ここは宮が尾古墳。
それでは、みなさん 一緒にお勉強していきましょうね。(゚∀゚)アヒャ
【宮が尾古墳と2号墳】
宮が尾古墳は入口が崩れて埋まっていました。 また羨道部も一部壊れかけていたので、一度石を外して修理したとき、 古墳の盛り土の中から絵が描かれた石が2つ見つかりました。 古墳づくりの最中に壊れてすてた石の一部で、絵は石室の奥壁のものと同じ小さな家、そして靭(ゆき)、矢などの道具でした。
2号墳の石室でも絵画のある石が見つかりましたが、 それは、宮が尾古墳の盛り土の中から見つかった壊れた石の一部でした。 壊れた石の破片が両方の古墳に使われていたのです。 このことから両方の古墳が同時に造られたことがわかりました。
古墳時代の終わり頃になると、豪族以外にも力を持った人たちが増えてきます。この人たちも古墳を造るようになり、 たくさんの古墳が山裾などにならべて造られました。 これを群集墳と呼んでいます。
ふつう、人が亡くなってから墓を造りますが、群集墳の場合は埋葬する人がいなくても、同時に何基もの古墳を造ることがあったようです。 宮が尾古墳の盛り土の中と2号墳の石室内から見つかった絵の描かれた石は、 古墳を計画的に配置したことを初めて証明した貴重な資料です。
【保存整備事業】宮が尾古墳は長い間地中に埋まっていましたが、昭和41年、山林であったこの場所を開墾している時に偶然発見されました。
横穴式石室は地下に残されていたので、ときどき雨水が溜まっていました。そこで貴重な壁画を守るため、 保存整備工事を実施することにしました。
平成4年度に地下に埋もれた墳丘の様子を調べ、平成5年度には土地を公有化しました。 そして、 平成6年度に墳丘全体を発掘しましたが、そのとき、宮が尾古墳の横に並んでもう1基の古墳 (宮が尾2号墳) があることがわかりました。
宮が尾古墳と2号墳の保存整備工事は平成7年度から平成8年度にかけて実施し、整備の際の発掘調査では数多くの副葬品が見つかり、いずれも7世紀の初 め頃に造られたことがわかりました。
平成9年3月
文化庁
香川県教育委員会
善通寺市教育委員会
【宮が尾古頃の線刻画】
宮が尾古墳の横穴式石室内部には線刻の壁画が残っています。 墓室突きあたりの巨石には、人物群・大勢の人が乗った船・馬に乗った人物・船団などが、 まるで物語絵巻のように描かれています。 西側の壁には刀を持った人物の姿も見えます。
【装飾古墳】
古墳には 「装飾古墳」といって、 石室の壁面が絵画や記号で飾られた珍しいものがあります。 装飾古墳は九州地方に多く知られていて、顔料で色をつけた同心円や三角形などの抽象図形のほかに、盾や靭、 船のような器物、人物や馬、鳥などの動物が描かれたものがあります。 また、細い線だけで表現した線刻画も知られています。
いずれも魔除けや鎮魂 (死者の魂を慰めること)が目的と考えられていますが、 文字による記録がない時代の絵画は、古墳に立てられた形象埴輪などと共に、当時の人々の生活の様子や考え方を知る貴重な資料です。
【有岡古墳群 Arioka Kofun Group】
善通寺市内には400基以上の古墳があります。 昭和57年に発掘調査した王墓山古墳では、石屋形をもった横穴式石室から、豪華な副葬品がたくさん出土し、その中には大和政権や九州の先進地域との親しい関係を示す貴重な資料もありました。 この発見によって王墓山古墳と周辺の代表的な5基の古墳(野田院古墳・宮が尾古墳・丸山古墳・鶴が峰4号墳・磨臼山古墳)が、有岡古墳群として国の史跡に指定され、永久に保存されることになりました。
6基の古墳は、この地域を治めた豪族の墓と考えられ、 香川県 (讃岐)の古代史を知る上で重要な遺跡です。
発生期:3世紀末頃・・野田院古墳>竪穴式石室
前期:4世紀代・・鶴が峰4号墳> 竪穴式石室
中期:5世紀代・・磨臼山古墳、丸山古墳>竪穴式石室
後期:6世紀代・・王墓山古墳>横穴式石室
終末期:7世紀初頭・・宮が尾古墳・2号墳>横穴式石室
【古墳時代】
善通寺市は瀬戸内海の南岸にあり、温暖な環境で生活しやすい場所であったことから、古くから大勢の人が住み、 独自の文化を育んできました。 少なくとも旧石器時代の終わり頃 (2~3万年前)には人々の生活が始まり、弥生時代には大きな集落が誕生していたことが明らかになっています。
弥生時代の終わり頃 (3世紀末) になると集落はさらに発展し、政治的に人々をまとめる豪族が登場します。 人々は豪族が亡くなると大きな墓を造って葬るようになりました。
やがて各地の村々は大和の大王家を中心に統合され、前方後円墳という大王墓にならった墓を造るようになります。 大きな墓は仏教が伝わり火葬が始まる7世紀初め頃まで造られました。 この大きな墓を古墳と呼び、 古墳が造られた時代が古墳時代です。
古墳の盛り土や石室を調べると、驚くほどすぐれた土木技術があったことがわかります。 また、死者に供えられた副葬品からは当時の生活状況や工芸技術がわかります。
宮が尾古墳に近づきますよ。
格子戸の奥は・・
アルミの脚立やら電線が少々残念・・
宮が尾古墳の奥には、横穴式石室の原寸大の復元模型がありました。
宮が尾古墳の道路側には・・
宮が尾古墳と同時期に造られた2号墳。
ちゅうことで・・・
michiruくん、ひとつお利口さんになりましたよ~~v( ̄∇ ̄)v
まだ・・
続く・・・
ざんす