Michiruブログ

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Vストで行く赤穂・たつの・姫路ツーリングVOL6「姫路おでん」

前回記事の続きです。

「赤とんぼ」の郷愁に包まれた”たつの”を後にし、今夜の宿泊地の姫路に向かいました。

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とうちゃこ~~~~~v( ̄∇ ̄)v

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本日の走行距離186kmな~~り。(・∀・)


今回宿泊地に姫路を選んだ理由。

二つあって、その一つが「姫路おでん」

今年のお正月に放映された「あさこ・梨乃の5万円旅」で、はじめて知った「姫路おでん」なるもの。

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姫路が郷里の同級生に尋ねてみると、なんでも姫路では生姜醤油でおでんを食べるんだとか・・。

彼は、それが普通だと思っていたそうな。(・∀・)

彼に教えてもらったお店に行ってみました。

「かどや」さん。

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THE 昭和の食堂~~

ちょっとヘビーな感じで、一見さんにはハードルが高そう・・(^^;

おじゃましまんねやわ

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おでんのところに行き・・

「豆腐、こんにゃく、すじ肉ちょう~~だい」(* ̄∇ ̄*)エヘヘ

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お店のおばさんがお皿によそおってくれました。

生姜醤油の御汁もたっぷり。

生中と姫路おでんで・・ カンパ~~イv( ̄∇ ̄)v

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どんなお味

うおおおおおおおお~~~~~

めちゃうまいやん

想像を超える美味しさ.。゚+.(・∀・)゚+.゚

あっという間に・・・

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完食っす

これはリピ決定ですね。


ホテルに帰ってきました。

このビジホ、ウエルカムドリンクや、無料のカレー、朝食サービスがありました。

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アルコールは、日本酒、ウイスキー、焼酎。

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日本酒は姫路の地酒。

かなり美味しかったですよ。

コンビニで買っておいたポテチをあてにして、ウイスキーの水割りもいただきました。

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しめは・・

カレーで。(゚∀゚)アヒャ

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めちゃコスパのいいホテルでした。(・∀・)



Vストで行く赤穂・たつの・姫路ツーリングVOL5「男はつらいよロケ地とうすくち龍野醤油資料館」

前回記事の続きです。

今回訪れた”たつの”の町。

偶然ですが、先般NHK「鶴瓶の家族に乾杯」で、鶴瓶さんと劇団ひとりさんがたつの市を訪れた回を放映していました。(前編が5/25放映済み、後編は6/1日放映予定です。)

番組内では、寅さんファンの劇団ひとりさんと鶴瓶さんが、「男はつらいよ 第17作 夕焼け小焼け」のロケ地となった旅館を訪れます。

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台本タイトルに「柴又の伊達男」と書かれていることに驚く劇団ひとりさん。

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劇団ひとりさん:「夕焼け小焼け」じゃあないんですね!?

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そうなんです。

最初、タイトルは「柴又の伊達男」とつけられていたのが、二転三転して「夕焼け小焼け」になったらしいです。

番組ではこれ以上タイトルについて触れられませんでしたが、三木露風の育った町ということから「夕焼け小焼け」になったのは間違いないと思います。

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さて・・・

三木露風生家を訪ねたあと、バイクで400m移動。

やってきたのは・・
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「うすくち龍野醤油資料館」。

駐車場の対面(といめん)には交番が

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たつの警察署大手交番が正式名称のようですが、「あかとんぼこうばん」の看板のほうが目立ってます。(゚∀゚)アヒャ

いざ入館

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入館料は、”御縁の重なる重縁”ということで、10円でした。.。゚+.(・∀・)゚+.゚


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資料館のいわれ
醤油の起源は古代までさかのぼることができますが、産業として現在の主産地、龍野・野田・銚子・小豆島などに成立したのは16世紀のことです。

天正年間(1580年頃) 円尾孫右衛門長村、 横山五郎兵衛宗信、片岡治兵衛らによってはじめられた龍野醤油は、うすくちを特色として栄えてきました。

4世紀にわたる歳月の間に、京・大阪の文化に育まれ洗練されつつ、日本人の食生活に深くしみこんだこの調味料は、いまや和食だけでなく、洋食、中華にも味わいを加えています。

山と川に抱かれたこの美しい人里に、代々醤油をつくり継いできた先人の工夫や愛情は、古い道具や文書にひっそりと息づいています。

菊一醬油造合資会社の本社として建てられ、浅井醤油合名会社との合併後、 龍野醤油(株) となり、のち ヒガシマル醤油(株) と改称した後も本社であったこの建物に、同社のみならず、ひろく龍野醤油協同組合各社の保管になる資料を中心に展示して、醤油のふるさとを偲ぶよすがといたしました。


龍野と醤油
中国山地の水を集めて南下する揖保川が、次第に流れをゆるめるあたり、風土記の昔に日下部の里とよばれたこの龍野の一帯は、古くから文化の開けたところです。

播磨平野の豊かな小麦、山間部に産した質のよい大豆、そして手近な赤穂の塩は、清らかな水とおだやかな気候に恵まれて、龍野醤油を生みました。

龍野藩主 脇坂候の保護もあって江戸時代から醤油の銘醸地として名を誇り今に至っております。


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薄口醤油はここ”たつの”が発祥の地だったんですね。w(゚o゚)w オオー!

まずはライブラリーでビデオ鑑賞。(・∀・)

資料館等のビデオ見るのが大好きなあたい (゚∀゚)アヒャ

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三木 露風

樽を緊め、樽を轉(ころ)がし
唄うたふ
ふるさとの醤油倉の
白壁の一つづき

日は晴れて
河原蓬(よもぎ)の花がさく
のどかな晝(注1)に人は出て
麻の袋をかはかせる

青垣の山を続(めぐ)らし
瀧つ瀨の玉より白い
ふるさとの
はりまのくによ

昔より今に
醤油つくる
人は人につぎ
唄は唄へとついで

詩集「蘆間の幻影」樽の唄より  大正九年刊

(注1)晝は、昼の旧字

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1592~1596文禄年間
宮中から菊屋の屋号賜る

龍野町下町 (本町)で醸造業を始めた片岡治兵衛は京都に出向き、室町時代に京都侍所の所司 (長官)をした赤松家の縁故を頼り、知り合いの公家を宮中に訪ねて懇談しました。 治兵衛は、公家に懇請して宮中の許しを得て「菊屋」 の号と菊花の紋を賜りました。 龍野へ帰って父の藤大夫と相談、それまでの家紋 「梅ばち扇」を16弁の菊花に変えました。 これが菊一醤油造合資会社の前身です。 16弁の菊花は、会社のマーク、樽や瓶のレッテルにも使われました。 うすくち龍野醤油資料館の階段についている菊花は、 菊屋の時代の紋です。


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1869 明治2年
藩物産蔵で浅井醤油創業

明治維新で財政が困窮した龍野藩は、富永村 (龍野町富永) にある直営の醤油製造所 「物産蔵」 を払い下げることにしました。 北龍野村新町 (龍野町新町)、 因幡屋の浅井彌兵衛 (初代) は、藩への冥加金上納や御用金の賦課(藩主の借用) に応じたり、藩の指示で商人の紛争を調停し、この功績で苗字帯刀が許され、藩主から浅井姓を賜るなど藩内きっての有力商人でした。 彌兵衛は、明治維新後の新しい時代は自由経済が到来すると信じ、新規事業として醸造業を選び応札、2万両で落札しました。 浅井醤油の誕生で、これがヒガシマル醤油 へと発展していきます。 物産蔵は藩の川東蔵として東ノ丸と呼ばれていたことと、東から丸い太陽が昇るように社運隆盛を願って、商標をヒガシマルとしました。

それでは館内を見てまわります。

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しっかり薄口醤油のお勉強をさせていただきました。

ヒガシマル醤油さん、ありがとう~~

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さて、この日は高松を出発して、赤穂浪士を訪ねて赤穂大石神社参拝、赤穂城そして赤穂御崎周辺を散策。たつの市に移動して龍野城、三木露風生家、うすくち龍野醤油資料館を見学してきました。

ここから本日の宿泊地に向かいます。


-続く-

Vストで行く赤穂・たつの・姫路ツーリングVOL4「龍野城・三木露風生家」

前回記事の続きです。

赤穂からたつの市に入りました。

時間がおしていたので、お昼ごはんを食べていません。

コンビニ発見

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写真を撮り忘れていたのでgoogleストリートビューから・・(^^:

何十年ぶりにアメリカンドッグをいただきましたよ。(・∀・)

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ウッーウッーウマウマ(゚∀゚)

ゴリラナビで目的地近くまで行くものの、迷子になってしまいました。

近所の人に道を尋ねて無事到着。

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龍野歴史文化資料館。

休館日でした・・・

こちらに隣接する龍野城に歩いて向かいます。

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【龍野城】
龍野城の歴史は中世赤松氏の城主に始まり、羽柴秀吉子飼いの武将たち、関ヶ原合戦後には、池田氏、本多氏、 小笠原氏、 岡部氏、京極氏と歴戦の大名が入城し、寛文12年(1672年)に脇坂家が城主となり、この城を治めました。

山上から現在の場所に城が移動したのは江戸時代の初め頃と言われています。 以来、龍野城は西播磨の中心に位置し、城下町は発展してきました。

昭和50年(1975年)以降に整備された現在の龍野城ですが、 御殿の玄関は、藩祖脇坂安治が建立した京都妙心寺隣華院の玄関を参考にしたと言われています。

眼前に広がる甍の屋根。 白壁とレンガ造りの煙突。 美しき龍野城下町の礎を築いたのが歴代の龍野城主であり、 今もこの町の象徴として多くの人が訪れるお城です。
令和元年(2019年) に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された町並みと共に、お楽しみいただければ幸いです。

<以下ウイキペディアより補足>
龍野城(たつのじょう)は、兵庫県たつの市龍野町上霞城(播磨国揖保郡(のち揖西郡))龍野にあった日本の城。別名霞城。

-概要-
明応8年(1499年)に塩屋城の龍野赤松氏・赤松村秀が龍野に鶏籠山城を築いた。以後は政秀、広貞、広秀と続いたが、天正5年(1577年)に開城して赤松氏から豊臣秀吉の手に渡り、播磨平定後、姫路城を本拠として整備した秀吉は新たに蜂須賀正勝を置いた。

江戸時代の万治元年(1658年)に京極高和の丸亀移転の際に破却されたが、寛文12年(1672年)に脇坂安政によって龍野城が再建された。この際山頂の郭は放棄され、山麓居館部のみの陣屋形式の城郭になった。明治から大正時代には旧制中学校や兵庫県立龍野高等女学校が置かれた。昭和50年代に櫓や御殿などが再建されていき、現在の本丸御殿は1979年(昭和54年)に再建されたものである。


龍野歴史文化資料館駐車場から歩いてきたので、城門をくぐらず いきなり御殿に出てきました。

中をのぞいてみましょ。


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<寝 牛>
上屋敷の庭園には池があり、 脇に神社が祭られていた。 この牛は破片となって池の部分から出土し、周辺からは、龍野藩士が奉納した手水鉢も出土している。 (資料館前に展示)

牛は天神の乗り物と考えられている。 これを「撫で牛」と言い、撫でることに よって学問が向上すると考えられていた。


建物の外には庭園がひろがっていました。

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【龍煌々志】
本丸御殿の襖絵 「龍煌々志」は、たつの市出身の龍画家出口龍憲氏より 昭和五十九年に寄贈されたものです。
貴氏は昭和五十九年フランスニースフェスティバル美術展の金賞受賞をかわきりに数々の国際的な美術展で入賞されてい ます。

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御殿をあとにして、大手門を見に石段を下りていきます。
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ここからすぐ近くに・・

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三木露風生家

三木露風って、たしか「赤とんぼ」の作詞した人だよね。

”たつの”の人だったんだ。

せっかくなので、こちらものぞいてみましょ(・∀・)

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【三木露風生家】
明治22年6月23日、節次郎とかたの長男として出生した三木露風(本名 操)が6歳まですごした住宅です。
両親の離婚により母と弟と別れた幼少期の露風にとって、母との思い出が残る場所であったと思われます。
この建物は、武家屋敷の流れを組み込んだ建物であり、建設当時は東側の土地も連たんして利用され、特に座敷の天井は当時からそのまま残されていることが事前の調査で分かりました。 今ある姿を活かし保存修理することで、素朴で趣きのある生家を訪れた方が、 歴史と露風の息吹を感じていただければとの思いが込められています。


おじゃましま~~す。v( ̄∇ ̄)v

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誕生
明治二十二年(一八八九) 六月二十三日
兵庫県揖西郡龍野町八番屋敷 (現たつの市龍野町上霞城百番地)

父三木節次郎 (二十四歳) 母かた (十八歳)の長男 操(みさお)と命名。

生家は、龍野城大手門の坂を降りた所で、上霞城町の名のとおり幕藩時代は政治の中枢の場所であった。
父節次郎は九十四銀行に勤めていた。祖父 制は(すさむ)は旧藩の寺社奉行であったが、初代龍野町長、九十四銀行頭取でもあった。 漢学の造詣深く、大槻磐渓・梁川星巌等と交わった。

母は、私が幼年の頃に長い歌を歌って聞かせて呉れた。其れが子守唄であった。私は、母が其の長い詩を度び度び歌って呉れた事を覚えている。其を聞くと、何とも言へず、懐かしい気がした。
(三木露風詩集)

町立龍野幼稚園へ入園届を出した。母は露風を一人で役場にやったが、それを届けてきた。母は優しい人であるが、教育については、私をそのようにして鍛えたのであった。弟 勉 生まれる。
(明治二十五年露風四歳の時)


幼稚園へ
明治二十六年(一八九三) 四月 町立龍野幼稚園へ入園 五歲

いくさごっこ 日清戦争の頃なので新宮さんの石段で遊んだ。 脇坂が大将で子どもたちを牛耳った。 (石橋利之氏談)


母かたとの悲しい別れ
明治二十八年二月

お引越しとかいうことで荷物を片付けているのをあとにして幼稚園に出掛けたが、もどってくると表は板で斜に釘づけられ、母はおらず、祖母のとしが迎えに来ていて、祖父制の家に連れていかれた。

露風の母と離別の悲しみは、感じやすい少年露風の心に、癒えることのない傷痕を残すことになったようである。

ある事情が起き、祖父は母に家を去り自由にしてくれと云った。

母は、明25・5・22日に生まれた弟勉と共に鳥取の堀家へ去った。

「夕空に希望の星を仰ぐとや 星は愁いに またたくものを」
龍野高等小学校時代作  「神戸又新日報」 一等入選


この説明書きを見ると、母かたは封建的な家制度の中で家を追われたように感じます。

「赤とんぼ」の「夕焼け小焼けの赤とんぼ おわれて見たのはいつの日か」という歌詞から、露風が母親に背負われた思い出、母への思慕を感じるのは私だけでしょうか。


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小学校へ
龍野尋常小学校入学(明治二十八年六月) 七歳

七歳 祖父から漢学を教えられ始め、夙(つと)に起きて習字もした。

八歳  漢籍『大学』の学習を終わった。
  『梁川星巌詩集』を独りで読んだ。「神童」と呼ばれる。

九歳 兵庫県播磨国揖保郡内の各小学校連合の作文展覧会が開催せられ、其時、作文が各学年を通じての最優等の審査を受けて、展覧会場にその文が張られて、多くの人々の賞賛を受けた。

十歳  尋常四年生となった。 国語力の特に進んだのを教師より認められる。 山川の自然に親しむこと益々多くなっていた。

弟 正夫 生まれる。母は斉藤シズ。
明三十一.十一·二十二
正夫は浅生山家に養子縁組。

龍野高等小学校入学(龍野城趾にあった) (明治三十二年四月)
十一歲
祖母 俊 死去(六十五歳)
枕元でその死を大変悲しむ。


文学のめざめ
読書欲が旺盛になり、父所蔵の和漢の書を倉庫より出して日夜耽読し、その書籍全部を読んでしまった。

十三歳  新任教師 松本南楼の感化を受けて句作する。この頃の作に「赤とんぼとま っているよ竿の先」がある。後年、露風の童謡「赤とんぼ」の第四節にこの句が歌い込まれている。従兄弟・弟・ 士族屋敷に住む少年達の間で、謄写版刷りの回覧雑誌『少園』を作り、これを主宰した。

十四歳  『少園』の会名を「白紫会」と名づけ、小冊子「秋の花」を印刷する。(白は揖保の清流、紫は鶏籠山の美しさ)  「書写山」は、龍野中学退学直前の明治三十七年九月下旬か十月に作詩して、「文庫」に投稿。 掲載誌「文庫」は 明治三十七年十一月十五日号。

束髪にいばらを刺しけり夏姿  露風

そのころ、言文一致運動が少年の間にも普及し、露風も盛んに言文一致の文章を作って、少 年の投稿雑誌「少国民」を初め、「中学文壇」 「秀才文壇」にも作品を寄せると共に、「姫路新 聞」や「鷺城新聞」の文芸欄でも活躍するよう になった。
三十六年には「言文一致」(「少国民」改題) 「中学世界」「秀才文壇」等の誌上に詩歌・散文・文芸時評を発表し、注目された。


三木露風さん。天才少年だったんですね。

あたいが13才とか14才の頃といえば・・・

漫画を読むばっかりでした。 (゚∀゚)アヒャ

ちなみに上記説明に出てくる”言文一致運動”とは 

「書き言葉を、実際に話している言葉に近づけよう」という明治時代の国語改革運動。

明治の初め頃まで、日本の文章は「書き言葉」と「話し言葉」が大きく違っていました。

たとえば昔の文章は、「○○に候(そうろう)」、「○○なり」のような、武士や漢文調の硬い文体が普通でした。

しかし実際の会話では、「○○です」、「○○だった」と話します。

つまり、<話す日本語>と<書く日本語>が別世界だったのです。

そこで明治の文学者たちが、「もっと普通の人が読める文章にしよう」、「話し言葉に近い日本語で小説や詩を書こう」と始めたのが言文一致運動です。

と、いうことでした。(・∀・)


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中学校へ
兵庫県立龍野中学校へ首席で入学。
明治三十六年四月 十五歳

詩歌中心の「緋桜会」なる文学会をひろく同好の士を集めて(中学生を多く含む) 作りました。 

一方、俳句だけの「柿栗会」を設け露風は両者を主宰した。指導した少年文学会の者は、露風より年長の者が多かった。 露風は彼等に雅号をつけた。 思想感情、言動等大人の如くであった。

「文庫」に発表した「書写山」は、大変な好評を博し、河井酔茗も注目した。

私に詩思を与へ、私の少年時代にして尚且つ思索に耽らしめたのは、何であらうかと私は考へて見ると、故郷の山川である。

中国播磨は、山の甚だ雄大なのは無い。 従つて豪宕なる景趣を求めることは能きない。が気候が全国中最も温暖で、寒暑のよろしきを得、殊に私の生まれた町の龍野は、山紫水明で四季の風物が諸和してゐる。少し高い所に登れば、間近くに、瀬戸内海の紫色の景色を瞰望することが能きる。景色は只一部のみにては全しと言ふことは出来ぬ。山の景、海の景、河の景、平野の景、更に又加へれば町の景をも見のがすことが出来ぬ。 之等を綜合して而かも天候やはらぐ地ならば、容易に人を倦ましめない。それ故、近年私の故郷の鶏籠山は兵庫県に於ける国立公園の候補地とせられ、其の為に町からも請願書を差し出したと聞く。鶏籠山は曩(さき)に書いたやうに風致林として伐木を許されない好風の山である。私の誕生の家は、此の山の南麓なのである。私は山桜をながめて育つたのであった。



更に言ふ-私に詩思を与へ、私の少年時代にして尚且つ思索に耽らしめたのは、故郷の山川である。   (『我が歩める道』)


丁度、橋上の中程へかかつた時であつた。一人の上級生らしいのが腕組みして近づき、よろけかかるやうなかつこうで露風にぶつかつた。 その時、肘で グイグイッと突いたのだらう。それを避けて進まうとすると、今度は反対側から出てきたのが同じやうにぶつかった。われわれは急に危険を感じ出したので、三、四度び小突き廻される露風と共に白刃の中をくぐりぬける気持ちで逃げ出し、やつと橋を渡り終へたのである。平常運動などに出ないで小生意気 に詩人を気取ったりしてゐるので、上級生の蛮カラ 組から露風は睨まれてゐて、機あらば制裁を加へよ うと話し合つてゐたのが、この橋上の暴発となった ものだろう。
中学生の群れから遠ざかつてホッとしたが、「怪しからん奴だ。ぼくはこれから舎監のところへ行つて談判します。 あんな学校にゐるものか。 退学しますよ。」と、露風は興奮に呼吸をはずませながら、肩をそびやかしていきまいた。
(水守亀之助『続わが文壇紀行』)


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永井荷風の賛辞
露風は「廃園」が発行されるとすぐに、敬愛する詩人永井荷風に贈ったようで、荷風から九月九日付の温かい賛辞に充ちた励ましの書をもらっている。この書簡を露風は再版「廃園」(明43・10・5.博報堂)の巻末に収録している。 次のようである。

露風樣

御手紙拝見致候。其夜直ちに御寄贈の詩集は一通り読過致し多大の感動を覚え候。 詩に於ける音楽的熱情の溢れ満ちたるは何よりもうれしく覚え申候。前半の「廃園」中に収められたる詩は最近の御作だけに他に比して殊にすぐれたりと信じ候。然し中頃の詩には企てずして折々非常なる名吟あるを見申候。 例へば「内心」 「木の葉と旅人」「接吻の後に」の如きは却って全詩集中の最上の傑作と存じ候。 読みゆく中に感ずるは、兄の詩が最近に至りて非常に感情の複雑になりたる証拠として、その内容の音楽が、初めは単なるメロデーなりしを、此の頃に至りては正しく幾多のアル モニーを含めるものと相成候。 用語の中には時として稍々(やや)古典の文法以外に出でたるものも相見え候が、詩の全篇より云へば、語格正しく、 作意の明瞭に了解せらるゝは、現代の新詩中他に類なきものとせられ候。 即ち「線」が非常に鮮明にして且細微なる事に有之候。此の特徴は直ちに小生をしてラテン的南方的の芸術を思はせ申候。

貴兄の詩は誰よりも最もよくヴェルレーヌの面影を伝へたりと ふも過賞にあらずと信じ候。 世の愚味なる批評家は或は兄の詩を以て雄大の意気なしなぞ評するやも知れず、然しかる批評は詩の分類の何たるかを知らざるより来るものに御座候。 昔より抒情詩(ポエヂー、リーリツク)には叙事詩に見る如き思想形式の大なるもの出でざるのは無之候。 近代には叙事詩の大なるもの出でざるは 或は天才の欠乏ならんも知れずと雖も(いえども)是れ東西を通じて一般の傾向なれば致方なく候。 抒情詩が又、大方は、恋、過去の追想 、運命に対する悲哀と恐怖等題材の単調になり易きも是れ亦、此一種の詩形の至す処にして、由来感情なき日本人には歓迎せられざるも道理に候。

詩集「廃園」はたしかに新しき時代の最も力ある感激の声に有之候。 小生はくれぐれ兄が世の俗悪無学の批評に耳を傾けざらん事を希望して止まず候。

兄の詩はこの詩集に於て進歩の域階段に到達したるものと思れ候。情緒のみならずして、官覚実感は次第に最近の詩を動かす一勢力と相成、フランスにてノアイユ、ドラリユー其の他幾多の女詩人の詩は遂に一方の勢力と認めらるるに至り候。 「死あるが故に生の堪えがたき甘さを思ひ、」 「樹木は樹木たりといふ無限の快感のために死す」と云ふやうな旬は彼等女詩人の口より聞かるる、 苦悩の声に候。ノアイユ夫人は、われ死する後世の若人はわが詩を読み、われを恋すべし、かかるためにわれは詩を書く・・・・・・・と云ひ、又或女詩人は、林檎の実を噛みて其の味の中に遠き故郷の野を思はん......と叫ぶ。されど一方にはレニエーの如き恰も禅僧の如き沈思の詩人此れ有り、夜の水に花の沈むを眺め、 泉水に映る世の物象を凝視致し居候。

又一方にはロラン、タイヤードの如く神女無限の空想界を喜び オフエリヤが恋を夢みて水に沈みし瞬間の思に耽り、秋と冬来らざる永遠の楽土をのみ追はんとする人も有之候。 兄の詩才の此の後何れに転ぜんとするか、はた、同じ道にするも如何に其の深さ増し行くやは、小生のみならず、明治詩壇の決して注意を怠ら ざるべきところと信じ候。 妄評多罪。

九月九日
永井荷風


う・・・・(TДT)

明治文学独特の文語体と漢語表記で、あたいのポンコツ脳みそでは難しくて理解できましぇん・・(´;ω;`)

ちゅうことで・・

あたいでもわかる文体にしてみました。 間違ってるかもしれないけど・・(^^;

「露風様

お手紙ありがとうございました。その夜すぐに、贈っていただいた詩集『廃園』を一通り読み、大きな感動を受けました。

何よりうれしかったのは、あなたの詩に音楽のような情熱が満ちあふれていることです。特に前半の「廃園」に収められた最近の作品群は、他の作品以上に優れていると思いました。

しかし一方で、中頃に収められた詩の中にも、意図せず生まれたような素晴らしい名作があります。たとえば「内心」「木の葉と旅人」「接吻の後に」などは、むしろ詩集全体の中でも最高傑作ではないかと思います。

読み進めながら感じたのは、最近のあなたの詩は感情が非常に複雑で豊かになってきているということです。以前は旋律(メロディー)のように単純だった詩の音楽性が、今では和音(ハーモニー)のように重なり合う深みを持つようになっています。

言葉づかいの中には、ときどき古典文法から外れている部分も見受けられます。しかし全体として見ると、言葉の格調は正しく、作者の意図もはっきり伝わります。これは現代詩の中では他にあまり見られない長所です。

つまり、あなたの詩は「線」が非常に鮮明で、しかも繊細なのです。この特徴は、私にラテン的・南方的な芸術を連想させます。

あなたの詩は、誰よりもヴェルレーヌの面影をよく伝えていると言っても、決して褒めすぎではありません。

世間の愚かな批評家たちは、「露風の詩には雄大さがない」などと言うかもしれません。しかしそれは、詩の種類というものを理解していない批評です。

昔から抒情詩(感情を歌う詩)は、叙事詩のような大きな思想や壮大な構成を持つものではありませんでした。

また近代に大きな叙事詩が現れないのも、あるいは天才の不足かもしれませんが、これは東西共通の時代傾向なので仕方ありません。

抒情詩が「恋」「過去への追憶」「運命への悲しみや恐れ」といった似た題材を扱いがちなのも、この詩の形式そのものの性質です。そして感情表現に乏しい日本人に歓迎されにくいのも、ある意味当然でしょう。

『廃園』は確かに、新しい時代の最も力強い感動の声です。

私は、あなたが世間の低俗で無学な批評に耳を貸さないことを、心から願っています。

あなたの詩は、この詩集によって新たな段階へ進んだと思います。

しかも最近では、単なる情緒だけではなく、感覚的・肉体的な実感が詩を動かす大きな力になってきています。

フランスでは、ノアイユ夫人やドラリューなど、多くの女性詩人が大きな存在として認められるようになっています。

「死があるからこそ、生の耐えがたい甘さを感じる」
「樹木は、樹木であるという無限の歓びのために死ぬ」

といった表現は、彼女たち女性詩人の苦悩の声なのです。

ノアイユ夫人は、
「私が死んだあと、未来の若者たちは私の詩を読み、私を愛するだろう。そのために私は詩を書く」
と言っています。

また別の女性詩人は、
「林檎をかじった味の中に、遠い故郷の野原を思い出したい」
と叫んでいます。

しかしその一方で、レニエのように、まるで禅僧のように静かに思索する詩人もいます。夜の水に花が沈む様子を眺め、泉に映る世界を見つめ続けるのです。

また一方には、ロランやタイヤードのように、幻想世界を愛し、オフィーリアが恋に破れて水に沈む瞬間の夢想に浸り、秋も冬も来ない永遠の楽園だけを追い求める詩人もいます。

これからあなたの詩才がどちらへ向かうのか、あるいは同じ道をさらにどこまで深めていくのか。それは私だけでなく、明治詩壇全体が注目し続けるべきことだと思います。

勝手な批評を書き連ね、失礼しました。

九月九日
永井荷風 」

現代語訳が間違っていたらごめんなさい。m(_ _)m 



s2026-04-21DSC_2994_三木露風_廃園の発行と六合舎


「廃園」の発行と六合舎
三木露風の出世作となった詩集『廃園』は、明治四十二年九月五日光華書房から発行された。その年の六月から、露風は実業家根津嘉一郎の別邸「六合舎(りくごうしゃ)」(東京府北豊島郡目白高田村雑司ヶ谷) 構内の一戸に住んでいた。 親友内海信之(明17・8・30~昭43・6・14) 宛六月三日付のはがきに

森へまゐり申候、静寂を愛し詩を愛し当分うるさい事を避けたく存候、・・・・

とあり、六月九日付封書の中で

僕は森に来て熱心に詩を書いてゐます、世評などには一切係はらず自分一人でやらうと思ってゐます。
森は美しいですよ。青葉の光落日の色、軽い風のあゆみ、たそがれには晩鐘がひびいて何となくミレの絵を思ひ起こさせます。...

と述べている。そのころ、露風竹馬の友石橋利之(明2・8・22~昭和57・ 5・29)は、司法試験受験のため上京していて、露風を訪ねた時の思い出を次のように語った。(昭43・4・11)

根津屋敷(六合舎)は、ひろびろとして森のようで、荒廃した庭園の中の一軒家に露風はひとりで住んで詩作に耽っていた。ぽつりぽつりと露風は話すが、話題は結局詩論に持っていった。


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三木露風。 赤とんぼの作詞をした人程度の知識しかなかったあたい。

たまたま通りかかったので、立ち寄った三木露風の生家ですが、これらの説明書きに端を発し、少しばかり三木露風さんの人となりを知ることができました。

露風の人生は、
・幼少期の母との別離
・文学青年としての名声

・象徴詩人としての成功
・「赤とんぼ」に代表される童謡

・キリスト教信仰への傾倒

と、大きく変化していったようです。

特に晩年は、「郷愁」「母への思慕」「魂の救い」といったテーマが色濃くなり、その精神性が作品にも強く表れていると評価されているようです。


さらに・・・

こちらの三木露風生家の隅っこに貼られていたパンプレットを見てビックリ

w(゚o゚)w オオー!

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Σ('◇'*)エェッ!?

”たつの”って、寅さんのロケ地だったの

あっ、第17作「男はつらいよ寅次郎夕焼け小焼け」の舞台が、ココだったんだ。

マドンナが太地喜和子さん。宇野重吉さん、寺尾聡さんの親子で出演された回です。


完全にリサーチ不足でした。

寅さんファンのあたいとしては不覚でした。

あらためて寅さんを訪ねる旅で、ここ龍野を再訪しないといけません。(^_-)-☆


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揖保川のゆったりした流れを眺めながら、たつのの町を散策。

三木露風が「赤とんぼ」を詠んだ心情に、少し触れられた気がしました。


Vストで行く赤穂・たつの・姫路ツーリングVOL3「赤穂御崎周辺」

大石神社、赤穂城をあとにして、ここから南に2.5kmほど海側にすすみました。

着いたあ~。v( ̄∇ ̄)v

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【延喜式内社(えんぎしきないしゃ)  伊和都比売(いわつひめ)神社由緒】
当社は今を去る一千余年前、延喜式神名帳にその名を記載する古社で『伊和都比売大神』をおまつりしています。当時から、朝廷をはじめ国司の格別の尊崇を受けたお社です。

伊和都比売大神は、もともと伊勢外宮の豊受比売(とようけひめ)といわれ(*注1)、また播磨一宮の伊和大神、即ち大穴牟遅神(おおなむちのかみ)の比売神ともいわれ(*注2)、古くから『御崎明神』と称された赤穂御民族の祖神様です。

もとは大園と呼ぶ前方海上の八丁岩の上に、おまつりしてあったものを江戸時代に赤穂藩 浅野家初代藩主、浅野長直が現境内地に社殿の建立着手、孫である三代藩主浅野内匠頭長矩の治世、天和三年(一六八三)に完成し、御遷座されました。現拝殿は昭和五年 (一九三〇)に現在の場所に再建され、その際に御本殿は再建ではなく天和三年当時のままの姿で拝殿北側に建材変わらず移築され、御祭神は今も昔も変わらぬ空間で私達をお守り してくださっています。

神社周辺『御崎』は、「播磨なる御崎の石だたみ海の底まで行くぞ見る」と詠われているように、 奇岩の上に老松が舞う、岩礁の地です。

かつては、日本海軍、海戦の勇将『東郷平八郎』元師をはじめ、歴代連合艦隊司令長官の崇敬厚く、しばしば艦隊を率いて帝国海軍の勇士が参拝しました。現在でも船員漁師など、航海安全と大漁祈願は後をたたず遠近問わず参拝者が訪れ信仰が盛んです。

なお特に珍しいのは古くから若い男女による姫神信仰が盛んで、縁結び、或いは恋人を得にご利益のある『姫守』をうける方が多く、赤穂御崎の景色と共に人気が有ります。


(*注1)
「もともと伊勢外宮の豊受比売といわれ・・」>どういうことかわからなかったので調べました。
ここでいう「豊受比売(とようけひめ)」は、一般には豊受大神を指します。
豊受大神とは、伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)に祀られる神で、食物・穀物・産業・生活の恵みを司る女神です。
外宮の正式祭神は「豊受大神」で、女性神格として「豊受比売」「豊宇気毘売神」などとも呼ばれます。
つまり由緒書きは、伊和都比売大神 = 豊受大神と同一視される女神という伝承を紹介しているようです。
ただし、これは全国共通の確定神話というより、・地方神社での習合 ・神徳を高めるための神格統合 ・中世神道の解釈による面があります。
神社ではよく、「この神は実は○○神である」、「△△神の別名である」という伝承が発達します。


(*注2)
「大穴牟遅神(おおなむちのかみ)の比売神ともいわれ」も調べました。

①大穴牟遅神とは、「大国主神(おおくにぬしのかみ)」の別名。 大穴牟遅神 = 大国主神。
国造り神話で有名な神で、・国土経営 ・縁結び ・医療 ・農業 ・海上交通など多面的神格を持っています。

播磨国では、播磨一宮の伊和神社の祭神としても有名です。

②「比売神」とは?
「比売(ひめ)」は古語で、女性神/妃神/女神を意味します。

したがって、「大穴牟遅神の比売神」とは、大穴牟遅神に対する女性神・配偶神・対になる女神という意味。

つまり由緒では、「伊和都比売神は、大穴牟遅神(大国主神)の姫神である」と説明しています。

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まずは参拝しましょ。(・∀・)


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【伊和都比売神社 手水鉢】
本手水鉢は、江戸城 松の廊下での赤穂藩主浅野内匠頭長矩の刃傷事件があった元禄十四年氏子の皆様から当神社に寄進されたものである

当時の時節を考えるに、藩民が藩の平穏と安泰を祈念-神のご加護を乞うたものと思われる。


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ペコ・ペコ⇒パン・パン👏👏⇒ペコリ 


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駐車場から海側(赤穂御崎)が望めます。

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駐車場東側に坂道が繋がっています。

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降りていってみます。

てく・てく。

振り返るとこんな感じの坂。

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「きらきら坂」と名付けられていました。

海岸側の遊歩道に続きます。

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【大石名残の松】
血涙を呑んで赤穂開城を終えた 大石内蔵助は元禄十四(一七〇〇年六月半ば 妻子をこの港より海路遠く 大坂表に送り出し 自らは六月二十五日 其の後を追って山科に向かった
其の時 御崎の巌頭に立つ老松を見返りつ名残を惜しんだと伝えられる
人びとはこれを「名残の松」と云い伝えているが 今は枯れ 幹に儚く昔の語り種を残す


よく観光地にありがちな後世の”後付け”のお話でないことを願っています。(^^;


遊歩道を神社方向に進むと・・


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グーグルマップには「恋人の聖地 赤穂御崎」とありました。

全国各地にある恋人(達)の聖地。 ”言った者勝ち”やね~~~。(^^;

あたいの生まれ故郷の小さい頃の遊び場も、今や恋人達の聖地「エンジェルロード」って有名になってるし・・。

エンジェルロードも町興しでつけられた名前で、恋人の聖地ってのも勝手な作り話。

なんだかなあ・・・。


遊歩道には、カニさんも歩いてましたよ。

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神社の駐車場に戻ってきました。

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時間がおしていたので、”赤穂”から”たつの”に向かいます。

途中、兵庫県相生市にある「道の駅 あいおい白龍城」に立ち寄りました。

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外観から期待していたのですが・・

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物産売り場とかも小規模で魅かれるものもなく・・

相生湾をながめながら缶コーヒーで一休憩。

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ここから東進し、たつの市を目指します。


-続く-

Vストで行く赤穂・たつの・姫路ツーリングVOL2「赤穂城跡」

忠臣蔵 四十七士を祀る大石神社のあとは、隣接する赤穂城跡に歩いていってみました。

まずは二の丸門跡周辺。

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【二の丸門跡】
赤穂城は、正保2年(1645) に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648) より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661) に完成した甲州流軍学の海岸平城である。

ここ二の丸門跡は二の丸の入口として、虎口はやや南よりの西方白虎に開かれた切妻式櫓門が構えられていた。 二の丸門虎口の縄張りの一部は、浅野長直に仕えた軍学者山鹿素行が、承応2年 (1653) に変更したと言われる。

文久2年(1862) には、この付近で赤穂藩国家老森主税が、藩改革を唱える藩士たちに暗殺された。 この事件は、文久事件と呼ばれ、明治4年(1871)の日本最後の集団仇討ち 『高野の復讐 <和歌山県高野町 > 』 の発端となった。 また、二の丸門をはさんだ、東方の東北隅櫓台から西方の北隅櫓台にかけての石垣土塁 は、明治25年(1892) 千種川の洪水による災害復旧と流路変更のため、 築石として使用され取り除かれた。

平成10年3月
赤穂市教育委員会


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【二之丸門跡】
ここは赤穂城二之丸門のあった場所である。
浅野長直に仕えて赤穂に滞在していた軍学者 山鹿素行が、築城工事中の承応二年(一六五三)、この門周辺の縄張りの一部を変更したことで知 られている。

赤穂城二之丸の面積は一万七二五九坪であった。 二之丸門は櫓門で、桁行四間半、梁行二間、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪という規模であった。

また、文久二年(一八六二)十二月九日に、赤穂藩主森家の国家老森主税(ちから)が、藩政に対して意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。いわゆる「文久事件」である。この事件は、明治四年(一八七一)二月に和歌山県 高野山で起こった「高野の仇討ち」の導火線ともなった。

ここに置かれている半畳ほどの二つの大きな石は、小石を持って叩くと、「かんかん」という音をたてることから、誰言うとなく「かんかん石」 と呼ばれている。

赤穂義士会


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【山鹿素行先生銅像】
兵学者・儒学者として高名な山鹿素行(一六二二 ~一六八五)は、承応元年(一六五二)から万治三年(一六六〇)の間、赤穂藩主浅野長直に千石で召し抱えられ、承応二年には赤穂城築城に参画して二の丸虎口の縄張りを一部変更し、家中に兵法を指南した。

その後、寛文五年(一六六五)に「聖教要録」の著述が幕府の忌諱に触れ、翌年から延宝三年(一六七五)まで赤穂に配流され、二の丸内の家老 大石頼母助(たのものすけ)邸の一隅に謫居(たっきょ)した。

配流(はいる)中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全(しじょくとうたいぜん)」 「中朝事実」「武家事紀」「謫居童問」など、素行の学問を代表する大著を完成している。

大正一四年(一九二五)、謫居跡に建立された素行先生の銅像は、平成一〇年に赤穂城跡公園整備のため現位置に移転した。

赤穂義士会


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【大石頼母助屋敷門(おおいしたのものすけやしきもん)】

大石頼母助良重(おおいしたのものすけよししげ)は大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)の大叔父にあたり、 藩主浅野長直に家老として重用され、二之丸に屋敷を構えたほか長直の長女を妻とした。 山鹿素行が赤穂に配流された際、この屋敷の一角で8年余りを過ごしたという。

平成 10~13 年にかけて実施された二之丸庭園の発掘調査により、頼母助屋敷の門跡のほか土塀基礎石列、建物礎石、上水道遺構などが見つかった。

遺構に基づき、門の規模及び構造が検証され、薬医門形式の屋敷門として平成21年3月に整備された。


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【よみがえる旧赤穂城庭園 二ノ丸庭園】

二之丸庭園は、 赤穂城二之丸北西部に存在した大規模な廻遊式庭園で、東は大石頼母助屋敷から始まり、西は西仕切りにまで及ぶ、ひょうたん形の雄大なものでした。

山鹿素行の『年譜』の中に、この庭園に関連する記載がみられ、 頼母助屋敷の一角で適居生活を送った素行がこの池泉(ちせん)で遊興したことが記されています。 それによれば、この庭園には 「茶亭」 「浮玉堂」 「龍船」などがしつらえてあったこと、 「海棠」 「牡丹」 などの植物で彩られていたことなどがうかがえます。

発掘調査の結果を受け、 二之丸庭園は本丸庭園とと もに「旧赤穂城庭園」として国の名勝に指定され、平成14年度から整備を開始、復元整備を実施していると ころです。 世紀を経てよみがえる大名庭園にご期待ください。



広い庭園を散策したかったところですが、先を急ぎます。(^^;

二ノ丸門周辺からいよいよ本丸跡に。

s2026-04-21DSC_2907z 本丸跡


s2026-04-21DSC_2914赤穂城本丸跡全景



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【国史跡赤穂城跡本丸門 (復元)】
本丸門は築城時 (17世紀中頃) の建造と推定され、明治10年代後半の取壊しまでの約230 年間存続していました。

現在の本丸門は、平成4年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として、全国で初めて採択され、 国・ 兵庫県の補助を受けて総事業費約 6.7億円をかけて平成8年3月に完成したものです。

この平成の復元は、 明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする文献類、 発掘調査の成果を総合的に検討して 赤穂産の花崗岩による桝形石垣、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、 往時の姿によみがえらせています。

<树形石垣>
虎口左前 (門桝式) 形式   使用石量 1,873t
面積 334.32㎡  高さ 4.60m
やぐらちん いづくり
<一の門>
木造脇戸付櫓門(やぐらもん) 入母屋造(いりもやづくり)  本瓦葺
上階・下階構造 棟高 10.98m
使用材 (欅・檜・杉・松)  材積 75.03㎡   瓦数 9,820枚 
  上階 桁行 13.36m  梁間 4.77m  軒高 7.70m
  下階  桁行 8.83m  梁間 4.14m  軒高 4.78m

<二の門>
木造小戸付高麗門  切妻造(きりつまづくり) 本瓦葺
桁行 3.89m  梁間 2.49m  軒高 4.62m  棟高 6.13m
使用材 (桧・杉)   材積 10.97㎡   瓦数 2,270枚


<土堀>
桁行 1.80m   梁間 2.41m   長さ 92.67m

<中道>
幅 9.73m 長さ 18.82m

平成8年11月
赤穂市教育委員会


本丸門をくぐります。


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【赤穂城跡の概説】
赤穂城は、正保二(一六四五)年に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元(一六四八)年より一三年にわたる歳月を費やし、寛文元(一六六一)年に完成したものです。

城郭の縄張りは近藤正純の指導のもと甲州流軍学によるもので、一部、二之丸枡形虎口付近は山鹿素行が設計変更したと伝えられています。本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭(ていかく)
式になっており、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城とさ れています。城郭の規模は、一〇の隅櫓、一二の諸門があり、曲輪(くるわ)の延長は二、八四七mに及んでいます。塁石、防壁、門、本丸御殿などが整えられ、居城としての威容が示されましたが、天守台のみ築かれて天守は構築さ

三代続いた浅野家ですが、刃傷(にんじょう)事件により断絶し、その後は永井家、次いで森家の居城となりました。明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となりました。しかし城郭復興の気運が高まり、大正元(一九一二)年には三之丸に赤穂大石神社が建立、 大正一四 (一九二五)年には二之丸に山鹿素行銅像が建立されるな どしました。

昭和三(一九二八)年には本丸内に赤穂中学校(後の赤穂高等学校) が竣工されましたが、昭和一五(一九四○)年には城跡が風致地区に指定され、昭和二七年には都市公園の計画決定、さらに昭和四六 (一九七一)年には国史跡に指定され、赤穂城整備が推進されるこ とになりました。また平成一四(二〇〇二)年には、旧赤穂城庭園(本丸庭園・二之丸庭園)が国名勝に指定され、現在も計画的に整備が 図られています。


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【本丸庭園施設案内図】
赤穂城は、正保2年(1645) に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、 近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648) より13 年に亘る歳月を費やし、寛文元年 (1661) に完成した甲州流軍学の海岸平城である。

本丸は、中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、 刎橋(はねばし)門、厩口(うまやぐち)門の3門をもつ。 天守台には天守閣は当初から築かれず、4箇所の櫓台のうち東北隅櫓台のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢桝形として配されていた。

平成10年3月 赤穂市教育委員会


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(説明文)
本丸の面積は約 15,114㎡ あり、その2/3は領主屋敷、番所、倉庫等の建物と天主台、池泉などに占められ、残る1/3はくつろぎ (池泉を発掘調査) と呼ばれる空地になっていた。

当時の藩邸(御殿)は、右手(西)から大部屋を主とする表御殿、中奥、 小部屋を主とする奥御殿に区分されていた。 表御殿は大書院と小書院を組み合わせた形式で、広間は使者の間と組合わさって控室となり、そのほか勘定所や上台所が加わり、藩庁として使われていた。中奥は、藩主の居間と寝室からなり、台所が付属していた。 奥御殿は藩主の寝間と5室の部屋 (局)と台所が設けられ、うち2室は風呂と便所を備えていた。

復元された御殿は、浅野家断絶後入封してきた永井家の史料である赤穂御城御殿絵図 (東京大学史料編纂所蔵) をもとに、 赤穂城本丸内水筋図 (赤穂高等学校蔵)、 赤穂城引渡一件文書の播磨国赤穂城内本丸建屋改帳 (花岳寺蔵) 、発掘調査の成果などを考察して、建物跡を床高だけ高くし、コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、板間、座敷間、土間、敷居、廊下、柱、縁などを表現した。 また坪庭跡には木陰をつくるため、 中高木を植栽した。

平成8年11月   赤穂市教育委員会


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【赤穂城本丸】
赤穂城は、藩主御殿のある本丸と、その周囲を取り囲む二之丸、そして北側に曲輪が取り付く三之丸のの三つの曲輪によって構成されています。 二之丸には二之丸庭園をはじめ馬場や米蔵などがあり、三之丸には城の守りを兼ねて家臣が住んでいました。

藩主の住んでいた本丸には、本丸御殿南側に大池泉(ちせん)が広がり、御殿の内部から鑑賞することができました。このほか御殿内部の坪庭や、本丸北西部に「くつろぎ」と呼ばれた池泉もあり、藩主の生活を潤しました。

なおこれらの池泉のみならず生活のための水は、すべて約7km上流から取水された旧赤穂上水道によって賄われました。

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【赤穂城本丸天守台からの風景】
赤穂城の築かれた寛文元(一六六一)年は、江戸開府からすでに 六〇年以上経過しており、このころの城郭は防備の拠点ではなく経済の拠点としての役割を担っていました。赤穂城に天守が築かれず天守台のみとなっているのも、こうしたことが理由の一つとされて います。しかし、浅野長直が築いたこの天守台からは、大変素晴らしい眺望を得ることができます。

当時の赤穂は製塩業が活発化しはじめたころで、近隣地域から製 塩技術者を移住させて、東浜塩田の開発を本格化させていました。 広大な西浜塩田の開発は森時代を待たなければなりませんが、眼前に広がる穏やかな瀬戸内海とともに、東浜塩田が着々と干拓されていくさまを、藩主は眺めることができたのでしょう。


では天守台に行ってみます。 

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天守台から本丸門(北北東)を望む風景。
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天守台から西方向。
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天守台から北北東方面。
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のどかですね~~~。(・∀・)

時間があれば、もう少しのんびりしたいところですが・・。

大石神社駐車場にとめているVストちゃんの方に戻りましょ

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s2026-04-21DSC_2907z - 片岡源五右衛門宅跡

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大石神社駐車場の北北東側。

【片岡源五右衛門高房】
用心 三百五十石
表門隊 行年三十七歲

父は尾張徳川家家臣の熊井重次郎で、八歳の時に浅野家家臣片岡六左衛門の養子となった。主君浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)と同年齢で、幼い頃から側近くに仕えた。俸禄(ほうろく)はは初め百石であったが、幾度かの加増の後、三百五十石にまでなっている。

内匠頭は、田村邸での切腹の時、源五右衛門と磯貝十郎左衛門に「このことはかねてから知らせておくべきであったが、今日やむをえない事情があったので知らせなかった。不審に思うことであろう」との言葉を遺した。 切腹後、源五右衛門は礒貝らと田村邸に遺骸を引き取り、泉岳寺へ葬送している。

赤穂開城後は、大石内蔵助らのグループや堀部安兵衛ら江戸の急進派とも距離を置き、一途に亡君の仇討ちだけを考えていた。大石らが討入りに向けて動き出してようやく同志に加わった。

討入りは表門隊に属し、冨森助右衛門(とりのもりすけえもん)、武林唯七(たけばやししただしち)とともに朱柄の槍を携えて屋敷内に踏み込んだ。細川家にお預けの後、二宮新右衛門の介錯で切腹した。

赤穂義士会


大石神社。赤穂城跡を参拝、散策して、次の目的地に向かいます。

-続くー










































































































































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