前回、前々回記事では、盛土山古墳出土の蜻蛉玉について調べていくと、あまりの面白さ(興味深さ)から、すっかり時間を要してしまいました。(^^;
ここからは、サックリ?と進んでいきます。 タブン・・
盛土山古墳以外のこの周辺の史跡等の説明もありました。
弥生時代には奥白方中落遺跡などでは弥生時代中期~後期の住居跡が、西白方瓦谷遺跡でも後期の住居跡などが確認され集落が広がっていたことがうかがえます。
また古墳時代には多くの古墳が造られます。 古墳時代前期には御産盥山古墳や黒藤山にある黒藤山4号墳など山の稜線に前方後円墳が造られ、中期になると盛土山古墳が平地部に作られ、後期になると山の丘陵部に小規模な円墳 (向井原古墳や北の前古墳群など)が多く作られるようになります。 古墳時代後期からは白方の山塊にのみ古墳が構築されるわけではなく、弘田川を挟んで対岸にある多度津山にも造られるようになります。 さらに古墳時代終末期になると巨石墳(宿地古墳) と呼ばれるものも造られます。
古代以降は道隆寺が建立され、その玄関口として堀江津が開かれますが、古代における集落域の中心はまだまだ町域の西側にあり、町域の中心から東側にかけては、基本的には生産域として展開し、一部小規模な集落が展開していくようです。 古代における条里地割が早い段階から敷かれたのもこの奥白方地区で、それはこの地にいたとされる空海の母親の氏族である阿刀氏が賀富羅津一帯を治めていたためではないかと考えられます。
中世段階には、香川氏の城である天霧城が構築され、北側に隣接する奥白方南原遺跡では、中世集落が存在していたのではないかと考えられます。 それに合わせて香川氏が多度津山を居城としたため、 多度津町における中心部が移動していったと考えられます。 中心地が移って近世、特に江戸時代中期以降は多度津藩内の村落の西白方村 東白方村 奥白方村として推移していきますが、その中で多度津藩陣屋が成立して以降の江戸時代後期や幕末になると西国三十三観音霊場や林求馬邸なども造られます。
(前々回の記事を参照してください)






ということで・・・
いつかあらためて、ここに書かれた史跡・旧跡を訪れてみようっと。v( ̄∇ ̄)v









































