ここのところセローで山の中ばかりうろちょろしていますが、たまにはダブ子ちゃんにも乗らないとネ
この日はあいにくの曇り空。
いつもとは違ったルートで、うどん県東部のほうから山越ですだち県へレッツラ・ゴ~~
のどかな風景ざんす(・∀・)
峠にはダム(宮川内ダム)がありやしたよ。
上流側のダム湖。 色とりどりのアジサイがきれいっす。
ジョンジョロリンと放尿ちがった放流
すだち県にはいり・・・
ひさしぶりにおとずれたのは・・・
美馬市脇町南町伝統的建造物群保存地区(うだつの町並み)も、藍の集散地として、藍商人たちに よって築き上げられました。町並みには、本瓦葺の屋根に、漆喰壁、2階部分には「うだつ」をあげ た豪華な建物が軒を連ねています。ここには、今でも、藍で栄えた風景が残っています。
脇町 うどつの町並み!
こんなお屋敷が軒を連ねています。
川向うに見えるは・・・
オデオン座!! 寅さんファンなら、知っているよね(*゚▽゚*)
わかんない人は↓ を見てね。
このあとうどん県に戻り・・・
そうだ!!
”満濃池のゆる抜き”が、ローカル・ニュースで流れていたので立ち寄りました。
は~~い、お勉強タイム!! (゚∀゚)アヒャヒャ
読んでて寝た人!! バケツに水を入れて廊下で立ってなさい (*;゚;ж;゚;*)ブッ
ここでも放尿!!
ゆる抜きっす( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
満濃池からのお水でたくさんのお米が育つんでしょうね (⌒∇⌒)
この日はあいにくの曇り空。
いつもとは違ったルートで、うどん県東部のほうから山越ですだち県へレッツラ・ゴ~~
のどかな風景ざんす(・∀・)
峠にはダム(宮川内ダム)がありやしたよ。
上流側のダム湖。 色とりどりのアジサイがきれいっす。
ジョンジョロリンと
すだち県にはいり・・・
ひさしぶりにおとずれたのは・・・
藍のふるさと 阿波
~日本中を染め上げた至高の青を訪ねて~
美馬市脇町南町伝統的建造物群保存地区(うだつの町並み)
吉野川流域には、まるでお城のような屋敷があちこちで見ることができます。これらは、江戸時代 から明治時代にかけて活躍した藍商人の屋敷です。徳島の藍は、とても品質がよかったことから全国 的に大人気となり、藍商人は大いに繁栄しました。
美馬市脇町南町伝統的建造物群保存地区(うだつの町並み)も、藍の集散地として、藍商人たちに よって築き上げられました。町並みには、本瓦葺の屋根に、漆喰壁、2階部分には「うだつ」をあげ た豪華な建物が軒を連ねています。ここには、今でも、藍で栄えた風景が残っています。
脇町 うどつの町並み!
こんなお屋敷が軒を連ねています。
うだつ
うだつ「卯建」は、二階の壁面から突き出した 漆喰い塗りの袖壁で、火よけ壁とも呼ばれ防火の 役目をしていました。
江戸時代、裕福な商家はこの「うだつ」をあげ た立派な家を競って造りました。
ことわざ辞典にいつまでもぐずぐずして一向に 出世できないことを「うだつがあがらぬ」と記し ており、この語源になったのではないかと思われ ます。
「うだつ」って、こういう事なんですよ~~~(゚∀゚)アヒャ
こういうのも懐かしいっす。↓
こんなタバコ屋さんは、近所にありましたよ。
でもこの手の電話機は、あたいの小さいころにはすでになかったです(* ̄∇ ̄*)エヘヘ
もう少し散策しまひょ。
「うだつ」って、こういう事なんですよ~~~(゚∀゚)アヒャ
こういうのも懐かしいっす。↓
こんなタバコ屋さんは、近所にありましたよ。
でもこの手の電話機は、あたいの小さいころにはすでになかったです(* ̄∇ ̄*)エヘヘ
もう少し散策しまひょ。
オデオン座!! 寅さんファンなら、知っているよね(*゚▽゚*)
わかんない人は↓ を見てね。
このあとうどん県に戻り・・・
そうだ!!
”満濃池のゆる抜き”が、ローカル・ニュースで流れていたので立ち寄りました。
は~~い、お勉強タイム!! (゚∀゚)アヒャヒャ
満濃池略史 満濃町
昔この地方は「晴天五日を経れば水湿の潤い無く霖雨二日に及べば洪水の難有り」と記されているように水利に乏しいところであった。農民は灌漑用溜池を渇望・歎願しつづけそれが実現されたのが満濃池である。阿讃の四季を映す水鏡は風光明媚、貯水量、伝説など名実ともに日本一と称されている。
この池の創築は大宝年中(七〇一~七〇四)に国守、道守朝臣が築いたとされている。
その池名の由来は大同四年(八〇九)頃まで当地を神野郷(かんのごう)と呼んでいたのを眞野郷(まのごう)と改めたので「眞野」 あるいは「十千(といち)」の池とも呼ばれたといわれている。
満濃池は嵩上げ(堤上げ)、樋替え、復旧の歴史である。有名な工事は弘仁九年(八一八)の洪水、翌年の大旱魃により農民の困窮は極限に達した。国守の奏上により弘仁十一年(八二O)路真人浜継が下国し復旧に着手した。しかし九十九谷の雨水との戦いは工事の成功が危ぶまれた。そこで浜継は国守、清原夏野と計り、池は大きく民は少なく修築の困難を再奏上し空海の差遣を懇請した。
嵯峨天皇の弘仁十二年(八二二)五月二十七日勅許により名僧弘法大師(空海 四十八歳)が築池別当とし て、沙弥、童子を従えて、豪族矢原正久邸に止錫した。(このとき唐から持ち帰った花梨を植樹したと伝えられている。)空海は池畔の護摩壇上で秘法を修し加護を祈りつつ弓状堤防などの指図と説法をされた。 人びと空海の徳を慕い嬉々として集まり僅か三か月でみごと難工事を仕上げた。
三十余年を経て、仁寿元年(八五一)の秋、堤防が決潰し、国守、弘宗王により数千の夫役を発し、堤高を八丈(二三、Om)とした。その後何回かの修覆をしながら元暦元年(一一八四)の修築を期に戦国時代となり以後四五〇余年修覆する人もなく、池の中に池内村ができていた。
寛永二年(一六二五)に藩主生駒正俊が家臣西島八兵衛之元に復旧を命じ、豪族矢原正直と計り昔日の面影を見るようになった。
満濃池の池名は江戸中期より遣われるようになる。
以来樋替工事二十回(御用普請八、国普請八、自普請四) 安政元年(一八五四)の大地震に堤防が決壊し、明治二年(一八六九)高松藩執政松崎渋右衛門の発議により揺替えごとの労役軽減や底樋の恒久化のため、豪農長谷川佐太郎などの協力により寒川郡富田村 庄屋軒原庄蔵に命じ石穴三十間五尺三寸 (五六、 二m)を穿鑿した。(国の登録有形文化財)翌年六月 堤長四十五間半(八八、七m)、堤高十三間(二三、六m) の完成を見た。堅樋、櫓は大正三年(一九一四)に配水塔に改築された。
その後の嵩上げは明治三十八年にO、八七m、昭和二年に一、五m、第三次は県営満濃用水改良事業として昭和十五年より 開始したが戦争のため休止の憂目を見た。水没する五毛地区三十三戸の立退きなどの協力により昭和三十四年(一九五九)三月に六、Om、大望の竣工となり現況は次のとおりとなった。
堤高 三二、三四m_ 貯水量 一、五四〇万m
有効水深 二二、一四m 灌漑面積 約四、六○○ヘクタール
満水面周囲 約二Okm 総工費 五四三、三二七千円
水面積 一三八、五ヘクタール
平成十三年一月十六日
読んでて寝た人!! バケツに水を入れて廊下で立ってなさい (*;゚;ж;゚;*)ブッ
ここでも
満濃池からのお水でたくさんのお米が育つんでしょうね (⌒∇⌒)