Michiruブログ

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2023年06月

2023年春・紀伊半島ツーリング VOL2

2023年5月25日(木)。 紀伊半島ツーリング初日。

朝一の気温14℃。  おnewのハーフメッシュジャケットを着込んで出発

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平日ということもあってか、フェリーの中は人もまばら。

和歌山港に到着後は、国道42号線を南下します。

Vストちゃんをとめ、有田川をバッグに記念撮影っすv( ̄∇ ̄)v

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ちょうどその時、信号待ちで対向車線にとまっていた難波ナンバーのトレーラーのお兄ちゃんが、こちらにむかって大きく手をふってくれたあとグッドサイン!

きっとトレーラーのお兄ちゃんもバイク乗りなんだろうなあ。 ありがとう! うれしかったよ~~


国道42号線から海沿いの和歌山県道23/24号線に。

景色が変わります。

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最初の目的地に近づいてきましたよ~♪
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とうちゃこ~~( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
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白い石灰岩に囲まれた白浜海洋公園。

いつかセルフダイビング(スキューバダイビング)で訪れようと思っていたポイントでしたが、もうダイビングはやめちゃってバイクできてしまいました。(・∀・)

ダイブマスターの資格まで持っていましたが、PA*Iの毎年の上納金が高いんだもん・・(゚∀゚)アヒャ

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他では見れない地形と景色を堪能!

パークセンターの方へ移動してみまひょ。

この先(↓)は、キャンプ(コテージ)利用者のみだって。
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パークセンター前にベンチがありましたが・・
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工事関係者らしき人達のお食事場所になっていました・・(^^;


44年前の紀伊半島・奈良ツーリングでは、ここ白浜海洋公園には訪れておらず、ここから20km程南に位置する日の岬にあった「日の岬ユースホステル」にお泊りしていました。
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日の岬YHでは、東京から来られていたIさんと仲良くなりました。('▽'*)ニパッ♪

くしくも、Iさんもあたいと同じホンダ ホークⅡ乗りでした。

翌朝、YHから日の岬までご一緒しましたよ。

Iさんとは、この後数年間 お年賀のやりとりしていました。

今、何してるんだろうなあ~~~? お元気かなあ~~?


白浜海洋公園をあとにし、R42を南下。

この日は風が強かったです。 軽量のセロ子ちゃんで来てたら、フラフラしてたでしょうね(^^;

太平洋を望む海沿いの景色は、高知の安芸、室戸あたりによく似ています。


梅で有名なみなべ町にやってきました。


国道沿いにある「紀州梅干館」。

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桃太郎さんならぬ梅太郎さん、こんにちは~~~(・∀・)
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工場見学ができますよ。
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売店っす!
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試食もできます。
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お土産に買って帰ろうかなあ~~。

型くずれ品で最低千円・・・(; ̄Д ̄)

ボンビーなあたいには、ちと無理っす。

梅太郎さん、さようなら~~~~


そして・・

白浜町にやってきました~~(*゚∀゚)っ

最初はここ。

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【千畳敷】
千畳敷は、太平洋に突き出た広大な岩畳で、今から約1800万年前から1500万年前にできた地層が、 長い間、波の浸食を受 けてできたものです。 三段壁とともに白浜 を代表する雄大な景勝地です。


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 ( *゚ェ゚)ン? 
なぜペンギンちゃん???

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【地層の成り立ち】 
千畳の「千」は、「広い」 ということを意味し、実際は、畳千枚分よりもっと広く、瀬戸崎から湯ノ崎にかけての2ヘクタールにもおよぶ台地状の地形を千畳敷と呼びます。 今から約1800万年から1500万年前に、浅い海の底に砂や礫がたまってできた地層が、その後隆起し、さらに波浪によって浸食を受けてできた地形です。


44年前にも訪れていますよ~~(・∀・)

昔は、ここに来るには有料道路だったんですね~。
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千畳敷から約4Km北の円月島。  当時は細かく行ってますね~~(^^;
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千畳敷っす!
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看板は変わっていますが、地形は昔も今も同じですね。(・∀・)


そして三段壁に。
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 ( *゚ェ゚)ン?
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赤丸のあたりを、ズームアップ 
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w(゚o゚)w オオー! 階段(手すり)がついていますよ!! (つд⊂)ゴシゴシ

どうやって取り付けたんだろう???  考えてたら夜も寝られませんよ。(゚∀゚)アヒャ

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【地層の成り立ち】 
三段壁は、千畳敷と同じく、かつての浅い海の底が隆起した海岸段丘で、高さが50m、長さが2kmにも達する海に直立する崖(海食崖) と波によって削られた洞窟(海食洞)が見どころです。 三段壁はマグマの活動の熱水の影響で、縦方向の割れ目が多いため、崖が出来やすくなり、千畳敷とは異なる見た目になりました。

【マグマ活動による鉛山鉱山(かなやまこうざん)】
今から約1500万年前、紀伊半島で激しいマグマの活動があり、そのマグマ活動の熱水作用により鉱床が形成されました。 三段壁の近くには鉛山鉱山があり、昭和の中頃まで鉛や亜鉛や銅などを産出していました。

【「三段壁」という名の由来は?】
三段壁(さんだんべき)は、むかし、漁師たちが魚群を見守る場所として「見壇(みだん)」 と呼ばれていたのが、いつの間にか 「三段(みだん)」となり、やがて 「三段壁(さんだんべき)」 と呼ばれるようなったと言われています。


それでは44年前(1979年)の三段壁とあたい。(゚∀゚)アヒャ

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19才のヤングボーイだすよ~~~(* ̄∇ ̄*)エヘヘ


旅は・・・

続く・・・( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \


2023年春・紀伊半島ツーリング プロローグ(VOL1)

あたいの初めてのロング(宿泊)ツーリング。

それは、1979年11月の「紀伊半島ツーリング」!  4泊5日で、京都~紀伊半島・奈良をまわってきました。

44年前かあ・・(^^;  

たしか当時、「オートバイ」誌に
賀曽利隆さんのハスラー50での日本一周記が掲載されていて、旅に憧れをもったんですよね~~。


1979年11月21日。 京都の下宿先を、お日様が出る前のam5時に出発し、ひたすら南下。

なんせ寒かったのを覚えています。

貧乏学生だったあたいは、ライディグウエアなんて洒落たジャケットも、専用のグローブなんて持っていなくって(そもそも当時はライディング用のウェアとかなかったかも・・)、グローブなんかはスーパーとかで売ってた安物のスキー用のグローブ。

とにかく手がかじかんで、信号待ちの度にエンジンで手を温めていましたが、それも限界・・。

奈良辺りで、たまたま早朝に開いていた「職人の店」っぽい所で軍手を買って、スキー用グローブの上から軍手をはいて、寒さをしのいだのも いい思い出です。(・∀・)

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am5時 京都上賀茂を出発し、7時過ぎに奈良)御所市そして和歌山市内に。

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10時 和歌山城。1時間程見学しています。 ・・、全く覚えてません。(゚∀゚)アヒャ

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11:20 奥新和歌浦の雑賀岬灯台。 へ~~、こんなところにも行ってたんだあ。

今回アルバムを引っ張り出して、ココに行った事を知りましたよ。(^^;

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12:40 「紀三井寺... 道を尋ねるため和歌浦のPolice Boxに入ると「急ぐの?」と呼び止められとても 親切だった。  「きょうはネズミとりしてるから気をつけて」 と教えてくれた。
紀三井寺で写真をうつしていると 途中でフィルムがなくなり、階段の下にある単車の所まで取りにいく。 200段以上ある階段を2往復はしんどかった。」

旅ならではの思い出!  2018年の秋ツーリングでも事故処理をおえたおまわりさんが近寄ってきてくれて、旅談義に花が咲いたのを覚えています。('▽'*)ニパッ♪

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14:25 道成寺(日高町)。 有田あたりから雨に降られてカッパを着ての走行になったみたいです。

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煙樹ヶ浜とこの日(1日目)の宿泊場所「日の岬ユースホステル」に向かう途中の風景。

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う~~~ん。 こんなにあっちこっち行ってたんだ。 この記事を書くためにアルバムを引っ張り出したんやけど・・。

全然覚えていませんでしたよ (゚∀゚)アヒャ


このアルバムを見てから今回の旅に行けばよかったなあと、少々後悔してまんねやわ。('A`|||)

ちゅうことで・・・

はじめて紀伊半島を走ってから45年後の2023年5月25日。

今回の旅の相棒は、Vストちゃん

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AM6時前に高松のお家をしゅっぱ~~つ 

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徳島港。 徳島港→和歌山港までのフェリー料金 ¥5800な~~り。 

けっこうお高いのね・・・(p_q*)シクシク

おおお、フェリーがやってきましたよ。
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パカッ
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徳島港AM8時出航。
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そして・・

AM10:10 和歌山港に着きましたよ~~~~ v( ̄∇ ̄)v
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あらたな旅のはじまりでやんす。 ヾ(´ω`=´ω`)ノ


ノアのオイル交換

myノア子ちゃん。

平成21年(2009年)生まれ。 今年で14才の乙女だすよ。(゚∀゚)アヒャ

新車から13年超過すると自動車税&重量税が高くなるという国の大バカ政策の対象になっているので、来年の車検あたりまでには買い替えを考えていたのですが・・・。

自分の年齢を考えると、次に乗る車が”終(つい)の車”になりそう。(´Д⊂)

それなら、もう何年か後のほうが セーフティ装置が今より進歩してそうだし・・。

ちゅうことで、もうあと何年かノア子ちゃんを乗り続けまんねやわ・・(・∀・)

それにしても、エコカー促進か何かわからんけど、車1台作るほうが地球環境によろしくないっちゅうの!! (*`Д')


さて、そんなノア子ちゃん。

以前から気になっていましたが、「車検のコバック」で入れている安物オイルが”かたい”気がします。

前回オイル交換が、2022/10/05 走行距離83,086km。 (オイル交換/エレメント交換。)

前回オイル交換から8ケ月経過で2千数百km程度の走行ですが、
走行フィーリングが悪くなってきた感じがします。

所詮安物オイルなんでしょうね。(^^;

「来年の車検まで持てばいいや」と思っていましたが、もう少しノア子ちゃんをいたわってあげまひょ


ノア子ちゃん、登場!!

キコキコ・・(ジャッキアップ)
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ウマをかけ、前後ストッパー+タイヤ/ホイールを車体下に配置。
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オイル放尿 じょんじょろりん
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ドレンワッシャーは、14mmっす。  Vストちゃんと共用っす。(・∀・)
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使用オイルは、クエーカーステートのアルティメット デュラビリティ 5W-30。 
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全合成油のなかでは買いやすい価格でやんした。(* ̄∇ ̄*)エヘヘ

(全合成油表記なので、グループⅣのPAO、グループⅤのエステル系他のフルシンセティック(化学合成油)の下のランクの
グループⅢのVHVI(鉱物油ベースの水素化精製基油)なんだと思います。)


まあ、アメリカの老舗やし、今はPENNZOILと合併し、シェルグループなんで、変なものは作らんかなあと期待・・(・∀・)


オイル交換後、ちょこっとだけ走りました・・。

うん、いいじゃん!! ('▽'*)ニパッ♪


<備忘録>
2023/06/15 走行距離85,363km。  オイル交換。(クエーカステートアルティメットデュラビリティ5W30)
約3.9L。  ドレンボルト締付トルク:35Nm
(修正後)37Nm。
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PS:オイルを入れすぎて、オイルレベルゲージの穴から注射器+ホースを使って抜き出したのは秘密だすよ(゚∀゚)アヒャ



ヤドンといっしょ!香川めぐり旅 VOL2「丸亀城」

暑い! お外はピーカン 28℃でこの暑さ!

梅雨が明けたら、どうなるんだろ??? (^^;


さて、前回記事の続きです。

5月下旬ごろのお話なので、バイク・ツーには快適な気温っす。(・∀・)

「道の駅 津田の松原」と「道の駅 滝宮(たきのみやヤドン公園)でヤドン・スタンプラリーのスタンプをゲットしたあとに向かったのは・・

こちらも観光スタンプの対象施設になっている丸亀城
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資料館横の駐車場にクロスカブ子ちゃんをとめテクテク・・。
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↓は番所・長屋(跡)にある「玄関先御門」。
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正面側にむかってテクテク・・。

正面側に着き、いったん城外に出て・・

内濠と大手二の門。
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二の門に入ると・・
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ん??? 
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「幸運のハート石」・・なんなんだか???

この手のハート型の石。

5月上旬に訪れた津山城でも同じ手口?で「愛の奇石」ってあったし・・。

発想が貧弱っていうか、お城には不釣り合いって思うのは、あたいだけ??


↓大手一の門。

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大手一の門をくぐると・・
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【丸亀城の歴史】

丸亀城は、生駒氏が慶長2年(1597) から5年をかけて西讃岐の支配のため築城したが、 一国一城令により廃城となった。 その後、生駒氏の転封により讃岐は東西に二分され、 西讃の拠点として山崎氏がその城跡に、寛永20年 (1643)より築城を開始した。

現在のほとんどの石垣は、山崎氏によって造られたと考えられる。 山崎氏絶家後は京極氏が入封し、明治維新を迎える。
標高66mの自然の岩山である亀山を利用し、 それを取り囲むように四方に3段の石垣を巡らせ、山下部から三の丸、二の丸、 本丸へと登って行く縄張りとしている。 山上部にはかつては現存する天守を含め12の櫓とそれらを繋ぐ渡櫓があり、山下部には藩主の住む居館や大手門、 庭園などがあった。 また、 外堀の内側には武家屋敷を置き、大手口や搦手口には家老屋敷を配置して守りを固めていた。
天守は全国で最小ながら現存する木造天守12城のひとつであり、 大手門や御殿門も現存している点は貴重である。 また、緩やかな勾配から次第に急になり最後は反り返る 「扇の勾配」といわれる高さ20mを越える見事な高石垣が見所である。


*<生駒氏の転封>
なぜ生駒氏は、転封(てんぽう)になったのか? 転封、国替のことですね。

↑の説明書きでは、1行 「転封(てんぽう)になった」だけしか書かれていませんが・・。

たしか生駒騒動の事ですよね。 ググりましたよ。(・∀・)

【生駒騒動】
生駒騒動(いこまそうどう)は、江戸時代初期に讃岐高松藩生駒家で起こったお家騒動。重臣が争い、生駒家は改易となった。

<大名生駒家>
大名としての生駒家は織田信長、豊臣秀吉に仕えた生駒親正にはじまる。四国平定後、親正は讃岐国17万1800石を与えられ、三中老に任じられて豊臣政権に参与した。関ヶ原の戦いでは親正は西軍に与したが、嫡男一正が東軍に参じて戦ったため本領安堵され、親正は一正に家督を譲り隠居、一正の跡は子の正俊が襲封した。正俊は伊勢津藩主藤堂高虎の娘を正室とした。高虎は豊臣系の外様大名だったが、秀吉の死後は徳川家康への忠勤に励み江戸幕府の信頼が厚かった。

<騒動の経過>
発端
元和7年(1621年)、正俊が36歳で死去すると、11歳の小法師が跡を継いだが、小法師が若年であったため外祖父の高虎が後見することになり、高虎は西嶋八兵衛など藤堂家の家臣を讃岐へ派遣して藩政にあたらせた。

寛永2年(1625年)、小法師は元服して高俊を名乗り、翌年には従五位下・壱岐守に叙任し、さらに幕府の老中首席土井利勝の娘と婚約した(寛永10年(1633年)に輿入れ)。高虎は生駒家一門の家老生駒将監・帯刀父子の力を抑えるため、生駒家では外様の家臣である前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えさせた。

寛永7年(1630年)、高虎が死去して藤堂家は息子の高次が継ぎ、生駒家の後見も引き継ぐことになった。前野と石崎は高次の意向を背景に権勢を振るい、寛永10年(1633年)に将監が死ぬと藩政を牛耳るようになった。 藩主の高俊は無責任で暗愚、怠惰な人物であり、藩政を両人に任せきりにして、自身はもっぱら男色を極度に愛好し、美少年を集めては舞わせる遊びに打ち興じていた。世人はこれを「生駒おどり」と呼んだ。正室が父の利勝に高俊の行跡を訴え、利勝は立腹して厳しく諌めさせたが、高俊の乱行は一向に収まらなかった。増長した前野と石崎はしばしば専横な行いをするようになり、これに不満を持つ一門譜代の家臣たちと対立して家中は乱れた。

騒動勃発
寛永12年(1635年)、生駒家は幕府より江戸城修築の手伝い普請を命じられ、江戸の材木商の木屋から借金をして行った。前野と石崎はこの返済のために高松城南方の石清尾山の松林を木屋に伐採させた。この山は、親正が高松城を築いたときに要害として伐採を禁じた土地であり、家中の者たちは憤慨した。彼らは家老生駒帯刀を説き立て、前野と石崎の非違を親類へ訴えることになった。

寛永14年(1637年)7月、帯刀は江戸へ出て藤堂家の藩邸へ行き、訴状を差し出した。訴状を受け取った高次は容易ならぬことと思い、利勝と生駒家縁戚の脇坂安元と相談し、帯刀を尋問した。高次は穏便に済ますよう帯刀を説諭して国許へ帰らせ、次いで前野と石崎を藩邸に召して尋問の上で厳しく訓戒し、以後は慎むよう誓わせた。

しかし家中の不和は収まらず、かえって激しく対立するようになった。寛永15年(1638年)10月、帯刀は再び高次に前野と石崎を厳しく裁くよう訴え出た。国許にあった高次は帯刀を津藩に呼び、家中の不和が続くようではお家滅亡になると諭して帰した。寛永16年(1639年)4月、参勤交代で江戸に出た高次は、安元および利勝(前年に幕府大老に就任)と相談、このままでは訴訟が絶えず遂には生駒家はお取り潰しになると考え、事を収めるため喧嘩両成敗として、双方の主だった者5人に切腹を申し付けることになった。5月、藩主高俊が参勤交代で江戸に来て、前野と石崎も従っていた。高次は前野、石崎および国許から帯刀を藤堂家の藩邸に呼んで説得し、彼らは御家のために切腹することを承知した。高次は帯刀を藤堂家の領地の伊賀へ行かせた。

8月、高次は使者に兵をつけて讃岐に遣わし、江戸での決定を家中の者たちに伝えた。これに帯刀派の家臣たちが不満を抱き騒ぎ始めた。12月、彼らは江戸にいる藩主高俊に、帯刀ら忠義の者の命を助けるよう訴えた。それまでの事情を全く知らされていなかった高俊は驚き、親類方が相談もなくことを決めたことに怒った。寛永17年(1640年)1月、高俊は藤堂家の藩邸に赴き、高次に抗議した。高次は説諭するが高俊は納得せず、怒った高次はならば勝手にせよと匙を投げ、生駒家の家政から手を引くことにした。藤堂家の兵も讃岐から立ち去った。

帯刀は帰国し、帯刀派は歓喜したが、江戸で切腹するつもりで控えていた前野と石崎は衝撃を受け、切腹をやめ、事の始末を幕府に訴えることにした。4月、前野・石崎派は老中稲葉正勝に訴状を提出した。同時に国許に使者を送り、同志の者たちに家族を引き連れて立ち退くよう指図した。讃岐では、前野・石崎派の侍8人、家族や家来を含めると2300人が鉄砲や刀槍で武装して国許を立退く大騒ぎになった。江戸でも一味の者たちが藩邸を立退いた。

結末
幕府は両派の者たちを江戸城に召して審議することにした。この間に一方の首領の前野助左衛門が病死した。7月、前野・石崎派と帯刀派は対決し、帯刀は前野・石崎の専横を申し立て、さらに彼らが武装して立ち退いたことを訴えた。3回の対審の後に幕府の裁定が決した。帯刀派に対して帯刀は主人に対して忠心あるとして出雲松江藩にお預け、その他の者も諸大名家へお預けとなった。前野・石崎派に対しては石崎、前野冶太夫(助左衛門の子)ら4人は切腹、彼らの子供のうち男子は死罪、また主だった者たち数人も死罪となった。

同時に幕府は、藩主高俊に対しても家中不取締りであるとして城地を没収し、出羽国へ流罪とし、堪忍料として由利郡矢島に1万石を与えた。高俊の没後、所領は子供たちで分割されたために生駒家は大名の資格を失うが、戊辰戦争後の高直しで出羽矢島1万5千石の大名として復活を果たした。

高松藩はその後幕府直轄となり、水戸徳川家出身の松平頼重が常陸下館藩から12万石で転封された。

引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


この騒動は以前興味があって、ちょっとだけお勉強したことがありました。

殿様がバカ殿だったら、家臣も民も災難ですよね。


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【丸亀城の年表】

<生駒時代>
天文年間(1532~55)  細川勝元の重臣、奈良氏が聖通寺城の支城を円亀山に築城。
天正15年(1587)   生駒氏、播州赤穂から讃岐15万石の領主となる。
慶長2年(1597)       生駒親正・一正、築城に着手。
慶長7年(1602)       築城完成。 一正、 高松城へ移り、城代を置く。
元和元年(1615)      一国一城令により廃城。
寛永17年(1640)      生駒氏、 出羽国由利郡矢島に転封。

<山崎時代>
寛永18年(1641)      山崎氏、肥前国天草郡富岡から西讃岐5万3千石の領主となる。
寛永20年 (1643)     山崎家治、 参勤交代の免除と銀300貫を得て、丸亀城を再建。
明暦3年(1657)       山崎氏絶家。 備中成羽へ転封。

<京極時代>
万治元年(1658)      京極氏、 播州龍野から丸亀藩6万67石の藩主となる。
万治3年(1660)       天守完成。
寛文10年(1670)      南側にあった大手を北側の現在地に移し 大手門枡形を整備する。 
元禄7年(1694)       多度津藩1万石を分家する。

<近代‐現代>       
明治2年(1869)       城内御殿が全焼。
明治7年(1874)       番丁に丸亀兵営完成。
明治10年(1877)      櫓 城壁などが取り壊される。
大正8年(1919)       山上部を借地して、亀山公園を開設。  
昭和18年(1943)      天守国宝に指定される。
昭和20年(1945)      内堀以内を公園として一般開放する。
昭和25年(1950)      天守の解体修理。 天守重要文化財に指定替え。
昭和28年(1953)      丸亀城跡が国指定史跡となる。
昭和32年(1957)     大手一の門・二の門、 重要文化財に指定される。
昭和38年(1963)   藩主玄関先御門等が県指定文化財に指定される。 大手門の解体修理。
昭和43年(1968)   藩主玄関先御門等の解体修理。
昭和51~53(1976~78) 第1次石垣修理工事。
昭和62年(1987)   天守白壁・屋根瓦の修理。
平成3年(1991)    第2次石垣修理工事始まる。 
平成5~6年 (1993~94) 本丸・二の丸整備。
平成17年(2005)      藩主玄関先御門附土塀の修理。

  
フムフムと説明書きに目を通し、少し進むと・・・

丸亀城観光案内所。
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施設の中はこんな感じ・・・。
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丸亀城のスタンプ・・・
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ゲットだぜ~~~! (* ̄∇ ̄*)エヘヘ


せっかくここまで来たので、天守閣までのぼってみましょうかねえ。(・∀・)

画像だとわかりにくいですが・・

けっこうな坂道・・('A`|||)
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てくてくてく・・

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【高石垣(三の丸北石垣)】
丸亀城跡は標高約六六メートルの亀山に築かれた平山城で、山腹部、三の丸には高石垣が巡っている。特に北側の石垣は高さ二〇メー トル以上あり、隅角部の石垣は算木積みと呼ばれる積み方で、直方体の大きな石を角石に用い、大面と小面を交互に組み合わせ、小面の角石の横には角脇石を配することで、高く強固な石垣となっている。丸亀城の高石垣は仰(矩)返しという技法を用い、石垣下部は緩く、上にいくほど急な勾配となり「扇の勾配」と呼ばれる美しい勾配で築かれている。


↓<天守閣内にあった石垣の説明>
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石垣の美
石垣の美しさは、丸亀城の誇りである。城壁の高いところは三の丸で25メートル、平地から本丸に至る山全体を4段の高石垣で取り囲むその姿は壮観である。
緩い勾配から次第に急になり上部では反り返る石垣の優美な曲線は、扇を開いたような形 状から「扇の勾配」と呼ばれ、城の防御性を高めるとともに美しさも兼ね備えている。
また、石垣の中央部や出入口付近では防御のため出隅、入隅を設けて左袖や横矢掛りとしており、これらが石垣に変化を与えて美しさをいっそう引き立てている。

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【野面積み】
自然石を積み上げたものである。 水はけがよく、崩れにくいが、急勾配には積むことができない。東南の山麓と内堀の北側に見られる。

【打ち込み接ぎ】
石をある程度加工して積み上げ たもので、隙間には間詰石を詰めている。急勾配に積むことができる。 丸亀城の石垣の美しい勾配と高さはこの積み方によるものである。

【切り込み接ぎ】
石を加工し隙間なく積み上げたもので、大手門など城の入口や大事なところに見せるために築かれている。接ぎ(ハギ)とは「つなぎ合わせる」という意味である。

【刻印】
丸亀城の石垣には、九、左、田、井など様々な種類の刻印が約150確認されているが、それが石切場を示しているのか、調達した者を表しているのかははっきりしていない。


↑の高石垣ですが、左側角面側の石積みとその右側の石積みの技法が違うのが、画像を見るとすぐわかります。  面白いですね~~('▽'*)ニパッ♪


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三の丸あたりからは、北~東南方向に見晴らしが開いています。

讃岐富士こと飯野山も間近に見えますね~(´∀`*)
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北東方向には、瀬戸大橋!
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三の丸跡から二の丸跡、そして・・
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天守閣です!
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【丸亀城天守 (附(つけたり) 指定) 板札】 
国指定重要文化財 昭和18年6月9日指定

江戸時代前期、山﨑氏により建築されたと考えられる天守で、全国に12しか残っていない貴重な現存木造天守です。 高さ15m、3層3階、 入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺で、 壁面及び軒裏は漆喰で総塗籠になっています。 1層目は東西6間、 南北5間の広さで、高さ約2mまで腰板張りとし、北面に石落としを設け、 二の丸搦(から)め手に備えています。 2層目は東西4間半、 南北3間半、 南北に唐破風をつけ、3層目は東西3間、 南北2間、 東西に千鳥破風、北面には素木の格子窓を設けています。

天守内部は、各階に柱を建て、特に隅柱は左右に添え柱を建て、柱頭に燧梁(ひうちばり)をかける堅固な構造としています。 木材は栂(つが)を主に使用し、 檜(ひのき)と松も使用しています。 壁面は長押(なげし)の高さまで漆喰を厚く塗り 防御を固めるとともに、足元には非常の際に打ち抜いて使用する大砲狭間(おおづつざま)を設けています。

通し柱を使わず各階に柱を建て、上階を急激に狭め逓減率を大きくしていることと、 本来なら間口の広い東西方向に棟を設けるべきところを南北方向に三角形の入母屋屋根を見せることにより、北側の城下から見上げたときに天守が大きく見える工夫がなされています。

また、昭和23年から25年にかけて行われた解体修理の際に、最上階の南東隅の壁面内部から長さ75.8cm、幅 13.9cm、厚さ6mmの檜材の板札 (祈祷札)が発見され、この墨書により天守が万治3年(1660) に完成したと考えられています。

丸亀市教育委員会

*太字部分は、写真に収めてきました。(´∀`) のちほど。


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【丸亀城天守 (附指定) 木札   (昭和18年6月9日 国指定)】

江戸時代前期に建築された三層三階の天守で、全国で12城にしか残っていない創建以来の姿をとどめる木造天守の1つである。 昭和18年 国宝に指定されたが、 昭和25年の法改正によって現在は重要文化財となっている。 昭和23年から25年の解体修理の際、三層の壁から「萬治第三天三月吉祥日」 と墨書された木札が見つかり、この木札も附(つけだり)指定されている。

屋根は南北棟の入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺、 軒裏は丸垂木型総塗籠(まるたるきがたそうぬりごめ)となっている。 一層目に石落とし、二層目の南北両面に唐破風(からはふ)、 三層目の東西両面に千鳥破風(ちどりはふ)を飾り、大手に面した北側には格子付きの大窓のほか、各層に狭間(さま)が設けられている。

現存天守の中で最小だが、 通し柱を用いず各階に柱を建てることにより、各階を下から順に狭める逓減率を大きくし、また東西6間 (約11m)、 南北5間 (約9m) の場合、 本来なら東西方向に棟を設けるべきところを 南北棟とし、入母屋破風を城下に向けることによって、城下から見上げたときに見事な高石垣とあいまって天守が大きく見える工夫がなされている。


石垣の説明もそうなんですが、城内の複数の説明書き、作成された時期が違うのでしょうか?、すいぶん内容が重複しています・・・。 統一してスッキリさせればいいのになあ・・。


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大人200円の入場料を払って、いざ入場(入城)v( ̄∇ ̄)v

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【丸亀城木図(まるがめじょうきず)】     (平成4.11.30 市指定)
縦 81.0cm 横 93.7cm 高さ 15.0cm、 檜材で造られた丸亀城の木型模型である。 江戸時代には、城の築城や改修に際し、木図や紙図を徳川幕府に提出することが義務づけられていた。

丸亀藩士・瀬山 登の手記「丸亀御城坪割」には「寛文十戌年、太鼓櫓新規出來之義御願二付、 同所之木図上ル」 とあり、 丸亀藩主京極氏が寛文10年(1670) に、 現在残る丸亀城の大手一の門、 二の門を
建造するにあたり、許可を得るため徳川幕府に提出したものの写しであると推定される。

平面に1間1分 (1/650) の縮尺で基準格子が記されており、精巧に造られている。 山上には天守などの12の櫓と、それぞれを結ぶ渡櫓のほか、 井戸や神祠、庭園の池や浮島なども表現されている。 江戸初期の丸亀城の全容を知り得る歴史資料であると同時に、 全国的にも数少ない木型模型として貴重なものである。

【生駒家】
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生駒氏は藤原氏の末裔であり、信長の側室であった吉乃の実家で、尾張国丹羽郡小折村(愛知県江南市)に拠を置いていた。 生駒豊政の妹が美濃国可児郡土田村(岐阜県可児市)の土田秀久に嫁し、親正の父親重を生む。親正、一正ともに土田村の出身で姻戚関係であったことから生駒氏を称したといわれている。親正は近江、伊勢、播磨と移り、讃岐15万石の領主となったが、四代高俊の時、お家騒動により出羽国由利郡矢島 (秋田県由利本荘市矢島町)に転封となり、以後、12代続いて明治維新を迎えた。
家紋は、秀吉の朝鮮出兵の際に生駒水軍が波を切って活躍し、源氏車紋の下半分が波で隠れて見えたことから、このような家紋になったといわれる。

【山崎家】
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山崎家は、京極家と同じく宇多天皇を祖とする宇多源氏佐々木氏の一族で近江に住んだ。
憲家ときに、源頼朝に仕え相州山崎に住むが、近江国犬上郡山崎 (滋賀県彦根市)に移り、近江守護の佐々木定綱に仕えた。その後、家治の祖父堅家は浅井、織田、豊臣と仕えた。子の家盛は、関が原の合戦の功により、因州若桜城主となり、家盛の二男家治は大坂の陣で活躍し、備中成羽(岡山県高梁市)へ移封された。 備後三原、伊予松山の在番を勤め、大坂城の石垣普請にも参加した。その後、肥前国富岡(熊本県天草郡苓北町)へ移り、島原の乱後の富岡城を再建した。寛永18年(1641)西讃5万余石の領主となり、丸亀に城を再建し、城下を整備した。 その後、3代続くが治頼が夭折したため、仁尾で分家していた叔父の豊治が備中成羽で家名を存続され、以後13代続いて明治維新を迎えた。


【京極家】
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京極家は宇多天皇から始まる宇多源氏の一族で、近江国佐々木荘に住み、佐々木氏を称した。信綱の時、所領を四子に分け、四男氏信は北近江を領し、屋敷が京都の京極高辻にあったことから京極氏と呼ばれた。同氏には婆娑羅大名で有名な京極 高氏(導誉)も出て、室町期には四職の一家として権勢を誇ったが、戦国期に入ると被官であった浅井氏に取って代わられる。高次のとき、織田家の人質となり、後に信長に仕えるが、本能寺の変で明智方に味方し豊臣秀吉と敵対する。しかし、 高次の妹龍子が秀吉の側室となったことで許され、秀吉に仕えて転戦し、大津城主となる。高次の妻は浅井三姉妹の二女初であり、長女は秀吉の側室淀、三女は二代将軍徳川秀忠の正室江である。そのため、関が原の戦の際にはどちらに味方するかで苦慮するが、徳川方に味方し大津城で西軍の援軍を食い止めた功により若狭小浜8万5千石を得て、忠高のとき出雲松江に移り26万余石で最大となる。しかし、忠高には子がなく家名が断絶しそうになるが、甥の高和を藩主として播州龍野で家名存続が叶い、その後丸亀 6万余石へ転封となり、以後7代続いて明治維新を迎えた。


【燧梁(ひうちばり)】
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【太鼓壁】
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【大筒狭間(おおつつざま)】
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天守閣から見る風景。
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丸亀城壁改修の募金箱も設置されていました。
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何年もに渡る丸亀城壁の大修復。 どこでやっているのかわからなかったのすが・・。

お城を見終えて、クロスカブ子ちゃん帰路に向かおうとしていたら・・
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おおおΣ(゚д゚;)

こちら側だったのね (((( ;゚д゚)))

こりゃあ大工事だわ~~~(; ̄Д ̄)


しっかり丸亀城の事をお勉強した1日でやんした。

ヤドンスタンプ! 残りは1個!! ざんす・・(*゚∀゚)っ


ヤドンといっしょ!香川めぐり旅 VOL1「ヤドン公園」他

4月24日から(~12月31日)、「ヤドンといっしょ!香川めぐり旅」がはじまっています。

ヤドンスタンプラリー01

ヤドンスタンプラリー02
対象施設のうち、観光スタンプ3個、切符スタンプ1個集めて申し込みすると、抽選でヤドンオリジナル商品がもらえるスタンプラリー!

チャレンジしまひょ ('▽'*)ニパッ♪


赤ヘルあひる+クロスカブ子ちゃんでしゅっぱ~~つ!!
(あっ、くまモンも一緒でした・・)
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まず向かったのは、「道の駅 津田の松原」。
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スタンプとスタンプを押すラリー帳はどこだ??

あったあ!!
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右のスタンプを押したら、別の企画(瀬戸大橋スタンプラリー)のものでした。('A`|||)

わかりにくい置き方やなあ・・ (・ε・)

スタンプを押し直し、次に向かいましょ 

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トコトコトコ・・
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お次にやってきたのは・・

今年4月14日にできたばかりのヤドン公園!

【ひだまり公園 あやがわ(通称「ヤドン公園」)】 
香川県綾歌郡綾川町萱原253-7

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でっかいヤドン(・∀・)
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屋根上にもヤドン (・∀・)
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自販機にもヤドン(・∀・)
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ここにスタンプは置いていないのですが、どんな公園か偵察にきましたよ。(゚∀゚)アヒャ

お子さん達が大喜びで遊具で遊んでいました。

おっさん一人で来たら・・・   浮いていました。(^^;


ここからほど近いところへ 

とうちゃこ~~~!  「道の駅 滝宮(たきのみや)」
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実は先ほどのヤドン公園が切符スタンプの対象スポットになっているのですが、ヤドン公園のスタンプの設置場所が、ここ「道の駅 滝宮(たきのみや)」になっているんです。

こんな像が設置されています。
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「滝宮の念仏踊り」の由来
(国指定重要無形民俗文化財)
菅原道真公が讃岐守として在任されていた仁和四年(西暦八八八年)は大旱魃でした。この惨状を見た菅原道真公は城山神社に七日七夜籠って祈り、満願の日から恵みの雨が三昼夜に渡って降り続きました。
村人は神に感謝し、菅原道真公の徳を称えて踊ったことが念仏踊りの起源とされています。 
その後、法然上人が念仏を唱えて踊る振り付けをしたと伝えられています。

*大旱魃・・だいかんばつ ←難しいっすね(^^;

施設の中に入ります。

おじゃましまんねやわ 

おおお! ヤドンだらけ~~
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スタンプはどこだ~~???

あったあああ。v( ̄∇ ̄)v

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これで、観光スタンプ1個(道の駅 津田の松原)、切符スタンプ1個(ヤドン公園)、ゲットだぜ~~~!!
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残るは観光スタンプ2個!!  

当然・・・続く・・・で、おまっ(・◇・)ゞ


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