数日前のこと。

梅雨の合間のお天気のいい間にと、ひさびさにクロスカブ子ちゃんでお出かけしてきましたよ。

バビュ~~ン 


国道から山道に。

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道も細くなり、さらに上りまんねやわ。

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クネクネ道をのぼっていくと 

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登山口がありやした。

左右に分かれてました。

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この日は、30℃近い気温。

そっこうで歩くのはあきらめました(^^;


再び クロスカブ子ちゃんにまたがり、ブイ~~ン 

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「城山城(きやまじょう)石塁」

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そうなんです。

この日、向かっているのは 古代山城の「城山(きやま)」。

詳しくは後程。  赤矢印のところが 山腹にはりめぐられていた石塁跡の一部のようです。


ほどなく、山頂の駐車場にとうちゃこ 

ひとり ポツ~~~ン 

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 「城山園地案内図」

瀬戸内海国立公園は、昭和9年(1934)に指定されたわが国最初の国立公園です。
静かな海面とそこに点在する多くの島々、白砂青松の浜と漁村、段々畑など、自然と人文景観が一体となった風景が特徴です。

城山は、昭和25年(1950)に、追加指定されました。 古代の城の総称である城をそのまま山名としています。 

讃岐岩質安山岩(さぬきがんしつあんさんがん)の頂上附近に、朝鮮式山城跡(ちょうせんしきやましろあと)があります。
山頂からは、瀬戸の島々・讃岐山脈などが眺望で きる自然の展望台です。

平成4年度 香川県


駐車場からは、瀬戸大橋も望めましたよ 

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城山(きやま)の案内板もありました。

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 「史跡  城 山」 

城山は、標高462mと、この付近における最高峰の山であり、視界は極めて広く、 景勝の地であります。

山腹は比較的急峻であるが、山上部は緩やかに起伏しています。 その中に、西北に向かって口を開く凹地を 囲んで城郭の跡があります。

城郭は、山上部を中心に二重の石塁で囲 まれています。 山頂部の礎石群や、内側の石塁の間に城門・水門といった城郭遺構が残っています。

外郭の急峻な斜面付近には 上面が平坦となる石塁・土塁が稜線に沿つ て約6kmにわたつて山頂を囲んでいます。 
城内各所にはホロソ石・マナイタ石と呼ば れる石製加工物も確認されています。

築城の時期は詳らかでないが、七世紀後半頃に築かれた古代山城と考えられています。
また、東の明神原には平安時代に、国司菅原道真が雨乞いをしたという古代祭祀の跡もあります。

城門や石塁など、よく当時の様子をとどめており、古代史上貴重な遺跡として昭和二十六年に国の史跡に指定されています。

平成四年度 香川県


お勉強のためにもう少し知りたくって、帰ってからもう少し調べてみました。


坂出市街の南東にある城山(きやま・462m)は、古代の城の呼称である城(き)をそのまま山名とした山。
山上一帯には、天智天皇時代に(668年~670年)朝鮮勢力の侵攻に備えて築かれた山城と考えられる遺構が残り国の史跡に指定されている。
ホロソ石やまないた石、カガミ石といった石造加工物も点在している。


ちゅうことです。

時代で言うと、飛鳥時代ですね。

飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。
広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。
狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。

当時、朝鮮半島では唐・新羅が連合軍を組み、百済を攻めた時代。

百済は友好国の日本(当時は倭国)に援軍を求め、軍事衝突。 白村江の戦いで、百済・倭国連合軍は大敗をきし、百済滅亡。


白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛網の再構築および強化に着手した。百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、岡山など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。


この当時、作られたのがこの城山(きやま)を含む古代山城なんですね。

「古代山城」

古代山城(こだいさんじょう)は、古代日本の山城。九州地方北部から瀬戸内地方・近畿地方にかけて分布する。

従来に「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)」・「神籠石(こうごいし)」と呼び分けられてきた2種類の遺跡群の総称として、近年使用される考古学用語である。

概要
飛鳥時代から奈良時代頃に、対朝鮮・中国の情勢に応じて西日本各地の山に築造された防衛施設の総称である。

従来、文献に見える山城は「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ(さんじょう)、天智紀山城)」、見えない山城は「神籠石系山城(こうごいしけいやまじろ(さんじょう)、神籠石式山城)」と呼び分けられてきたが、近年の発掘調査により両者の違いが必ずしも明確でなくなりつつあり、これらをして「古代山城」と総称される傾向にある。

文献に見える城は12ヶ所(狭義の朝鮮式山城11ヶ所と中国式山城1ヶ所)、見えない城は16ヶ所(いずれも神籠石系山城)があり、合計28ヶ所を数える。 これらは基本的に山1つを防御施設としたもので、山の頂上付近を土塁・石塁で区画しており、大規模なものでは区画の外郭線が数キロメートルに及ぶ。これらの山城は古代に役目を終え、一部の城跡では中世に山城や寺社などが設置され現在に至っている。


「城山」は、この分類によると 「神籠石系山城 / 神籠石式山城(史書非記載城)」になるようです。

結局、唐・新羅による日本侵攻がなかったのですが、この古代山城は その後 どのような役割を歴史の中で果たしてきたのか? 調べてもわかりませんでした。

どなたかご存じの方がいらっしゃれば、教えてくださいね。

駐車場から少しのぼったところが山頂です。


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展望台もあります。

今日は長くなったので、この辺で。

(続く)