さて、この旅の二日目です。

宿のある天理市から北に30分程 Vストちゃんを走らせます。

”大池”越しに見える二つの塔!  
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この日 最初の目的地。 薬師寺の駐車場にとうちゃこ~~~ヾ(´ω`=´ω`)ノ

駐車料金、バイクは100円。 安くって d( ̄◇ ̄)b グッ♪

駐車場から、てく・てく・てく
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 ( *゚ェ゚)ン? 薬師寺の前にこちらを参拝するのがマナーとか!?
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【薬師寺休ヶ岡八幡宮縁起】
日本人は奈良時代より仏菩薩本地とし諸神を垂迹として、両者が表裏一体となり、互に利益を施しながら衆生済度されるものとする信仰に生きてきた。

薬師寺は寛平年中(八八九~八九八)に、別当の栄紹大法師が寺の鎮守としてこの八幡宮の祭神である憎形八幡神・神功皇后・仲津姫命(いずれも国宝)を勧請した。

現在の社殿(重要文化財)は、幾度かの天災・人災により破壊・焼失 された後、慶長八年(一六〇三)に豊臣秀頼によって新造されたものである。他に端垣門・楼門・中門等も新造されたが地震で崩壊した。
本殿は三間社流造で、両脇に脇殿が接続している。脇殿は十九明神の板絵(宝蔵殿に安置)が祀られている。

南北の細長い建物は座小屋と呼ばれ寺僧の加行場としても使用されたが、本来は古くから存した客座の座衆が座すところで、明治以後残っている例は少ない。また両脇に脇殿が付属する社殿は少なく、しかも座小屋まで残っている点で歴史的に重要な建物とされているのみならず、明治以後は神仏が分離され、一寺院が神社を管理している例は少ない。

将来はさらに神域を整備し、楼門などの復興を含め、本地垂迹・神仏習合の日本古来の信仰の姿にかえすよき信仰の道場として復興したいと念願している。


ちゅうことで、お賽銭をチャリ~~ン。 
ペコペコ・パンパン・ペコ(二礼二拍手一礼)。

薬師寺南門にやってきました。

左手側に朱が綺麗な西塔。 右手側に趣きのある東塔が見えてきましたよ。(☆゚∀゚)

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【法相宗大本山 藥師寺】
当寺は第四十代天武天皇の発願によって飛鳥の地、藤原京に建立(六八〇)され、その後 平城遷都に伴って養老二年 (七二八) 平城京六条二坊 (現在地)へ移された。

金堂本尊薬師如来像に、日光・月光菩薩像、東院堂本尊聖観世音菩薩像と、何れも円満相好な美しさを白鳳時代の優雅な鋳金技法で表現している。 これらは比類なき佛像と仰がれ、全て国宝である。また金堂本尊薬師如来台座は珍重な図様彫刻として名高く国宝に指定されている。

東塔は創建当時からの唯一の遺構で頂の水煙は実に美しい。 

インド渡来で日本最古の佛足石と、萬葉仮名三十八文字からなる二十一首の歌が鮮明に刻まれた佛足跡歌碑は修正会本尊である吉祥天女画像と共に天平時代各分野の典雅である。


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こちらの拝観料1000円な~~り。

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【薬師寺縁起】
薬師寺は天武九年(六八〇)天武天皇により発願され、持統十一年(六九七) 持統天皇によって本尊を開眼、さらに文武天皇の御代に至り、飛鳥藤原京において堂宇の完成をみました。
その後和銅三年(七一〇)の平城遷都に伴い、養老二年(七一八)、平城京右京に移されました。

東西両塔を有する薬師寺式伽藍は我が国随一の壮美を誇っていました。 しかし、度重なる災害によって諸堂が灰燼に帰し、昭和初期に至っては辛うじて難を逃れた東塔だけが、往古のたたずまいを偲ばせておりました。失われた堂宇の再建は、薬師寺の大悲願でした。

昭和四十二年(一九六七) 高田好胤管主により、お写経勧進による白鳳伽藍の復興が発願され、金堂、西塔、中門、回廊、大講堂、食堂を再建。 白鳳伽藍の壮麗な美しさがよみがりました。

お写経によるご結縁を頂戴し、その尊い功徳 徳によって建立された堂塔は、まさに浄らかな心の結晶です。この壮麗な大伽藍の美しさは「龍宮造り」と呼ばれ、千三百年という長い歴史の時空を超え、今なお信仰と美術が見事に調和し息づいています。

平成十七年(一九九八) 十二月には世界遺産に登録されました。現代においては、伝統を生かして次世代に継承することと人々の心の復興が大きな課題です。迷い多い世の中に悩む人々が浄らかな心・感謝の心を持ち、身心安楽を得られることを、薬師寺は願っております。

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<金堂  昭和51年(1976) 再建>
薬師如来の浄瑠璃世界を彷彿とさせる堂塔は龍宮造りと呼ばれましたが、 享禄元年(1528) 焼失し、 慶長5年 (1600) に仮金堂が建立されました。 その後、宮大工の名工である西岡常一棟梁により、昭和46年(1971) から5年の歳月をかけて、創建当初の姿で再建されました。

<大講堂   平成15年(2003)再建>
多くの学僧が仏教の教学を学んだ古代の伽藍では、金堂よりも講堂が大規模でした。 平成15年(2003)に再建され、伝統工法による復元建築としては史上最大級です。本尊は弥勒三尊像(重要文化財・奈良時代)、 後堂には仏足石と仏足跡歌碑 (共に国宝・奈良時代)を安置し、仏足石の両脇には中村晋也氏による釈迦十大弟子が祀られています。

<西塔   昭和56年(1981) 再建>
享禄元年(1528) に創建以来の建物は焼失したため、昭和の東塔への綿密な調査に基づいて設計され、伝統的な木造建築の工法で再建されました。 屋根の勾配をゆるくし、また、青に塗った連子窓を設ける点は、創建当時の形式によります。内陣には、中村晋也氏による釈迦八相像のうち、成道・ 転法輪・涅槃・分舎利の果相四相が祀られています。

<東塔    国宝・白鳳時代>
創建当時から残る唯一の建物。各層に裳階をつけているため六重に見えますが、三重の塔。 この特異な形が、全体として律動的な美しさを保ち、“凍れる音楽”と称され親しまれています。 平成21年から12年をかけて、初の全面解体大修理が行われ、その姿を未来に伝えます。 これを機に1300年の年月を経た水煙は役目を終え、平成の水煙に取り換えられています。 内陣には、中村晋也氏による釈迦八相像のうち、入胎・受生・受楽・苦行の因相四相が祀られています。

<薬師三尊像   国宝・白鳳時代 金堂安置>
中央に薬師如来、向かって右が日光菩薩、左が月光菩薩、合わせて薬師三尊といいます。薬師如来は東方浄瑠璃浄土の教主で、私たちの身と心の健康を護る仏様です。 脇侍の日光・月光菩薩は、動きのある美しい姿で、理想的な写実美を完成した仏様といわれています。 また、本尊台座の文様は当時の東西文化交流を伝える貴重なものです。

<東院堂   国宝・鎌倉時代>
東院堂は養老年間に吉備内親王が、元明天皇の冥福を祈り、発願し建立されました。現在の建物は、弘安8年(1285) に再建され、享保18年(1733) に西向きにされています。 奈良時代は土間が通常ですが、再建にあたり板床に造り変えられています。鎌倉時代の建築様式を巧みに残しており、日本最古の禅堂として知られています。

<聖観世音菩薩立像   国宝・白鳳時代  東院堂安置>
さまざまな観世音菩薩の中で、変化されてない本来のお姿なので 「聖(しょう)観世音菩薩」と呼ばれます。 肩のあたりまで幾筋かに分かれて下がる垂髪、 二重の首飾り、透きとおるよ うな衣服、花びらのような繊細で美しい指の動き、そして直線的な姿勢。 これらは、インドのグプタ王朝の影響を強く受けています。 本像を囲むように四天王像 (重要文化財 鎌倉時代)が祀られています。


中門を守る二体の像。
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金剛力士像ではありませんでした。

四天王のうちの二天が門を守護していました。

右手(東)の天。
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左手(西)の天。
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ともに邪鬼を踏みつけています。(・∀・)

なかなか足元まで目がいきませんが、四天王像を見るときは、邪鬼の表情まで目をやると楽しいですよ。(^_-)-☆

持国天、増長天、広目天、多聞天からなる四天王。

後の説明にも出てくるように、薬師寺の大部分が安土桃山時代の享禄元年(1582)に発生した兵火によって焼失しており、その際にこちらの天像も焼失したようです。

今の二天像は、平成3年(1991年)には発掘調査などの結果に基づき、復元されたものだとか。

今 設置されている二天像ですが、右手側(東側)は三鈷杵を持っており増長天なのかな?

左手側(西側)は、持国天なのか、広目天なのか??? わかりましぇん(^^;


中門をくぐると、白鳳伽藍が目にとびこんできます。

中央には存在感ある金堂が!!

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【金堂緣起】
薬師寺は天武九年(六八〇)に藤原京に造営され、平城遷都に伴い養老二年(七一八)に平城京六条二坊(現在地)に移された。 

享禄元年(一五二八)の兵火により堂宇の殆どを焼亡し、僅か東塔・東院堂を余すのみであったが、幸いにも諸佛は辛うじて猛火に耐えて、漆黒の尊容はかえって輝きを増したのであった。

慶長五年(一六〇〇)、本尊薬師三尊の雨露を凌ぐ仮堂が建てられた。しかし約四百年の時間の流れにより老朽破損が進み、本尊を祀る金堂をなんとしても復興したいという願いから、昭和四十三年に般若心経の百巻写経による金堂復興勧進を開始した。

当時の高田好胤管主を盟主とする一山僧侶による挺身的な勧進が行われ、その傍ら各界の協賛をも得て昭和四十六年に起工式を迎え、昭和五十年末、遂に百石巻の大目標を達成すると共に、翌昭和五十一年の春、金堂の落慶を見るに至った。

建築は古社寺建築の碩学の周到な調査研究に基づいた設計により、昭和の名匠たちが古代の工法に則って建立したものである。白鳳様式の二重二閣、五間四面で内陣には仏像・お写経の防災の為の鉄筋コンクリートの耐火構造、外陣には数千年を経た台湾の桧材を用い、往古の遺構としての木造建築として復興された。 屋根瓦は白風時代の出土瓦を忠実に模し、鴟尾や風鐸も同時代の参考史料に基づいて制作された。全ての飾金具は古代のものに倣った。 また内部の荘厳、特に美麗を極める天井絵は東塔のそれに倣って復元されたものである。

全国から納経された百万巻写経は、本尊の頭上高く設えに納経蔵に整然と納められ、永代にわたり薬師如来の御宝前に供えられている。 

経済的繁栄の陰にとかく心の荒廃が夏慮される現代において、この金堂に凝縮された浄菩提心は千年の後代までも不滅の光彩を放つことを信ずるものである。


s2024-04-14DSC_4510金堂薬師三尊像HP01
(↑ 薬師寺HPより)


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(↑ MOOK本「一個人 仏像入門」より)

この薬師如来像と菩薩像を直に見れただけで、大満足です。v( ̄∇ ̄)v


金堂の左側(西側)に建つ西塔。
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【西塔緣起】
塔はインドの古い言葉でストゥーパといい、本来釋尊の舎利(御遺骨)を祀る墓を示した。中国ではそれが卒塔婆と音訳され、やがて日本にも「卒塔婆」として伝来した。その後一般には墓標を「塔婆」と呼び慣わし寺では「塔」とのみ呼称するようになった。

白鳳時代に薬師寺が日本で初めて二基の塔を相対し配置する伽藍様式にて建立した。以後この様式を「薬師寺式伽藍配置」と呼称するようになった。 

西塔は享禄元年(一五二八)、金堂・ 講堂・中門等とともに兵火によって焼亡し、以来数百年にわたり礎石のみが虚しく往古の壮美を偲ばせる有様であった。 
近年に至り般若心経の百万巻写経勧進呼応して、全国より寄せられた佛心がここに凝集され昭和五十六年、遂に白鳳時代きながらの塔が復元された。 

西塔建築は塔高三十六米、総桧造りで 東塔の綿密な調査と古記録の研究に基づいた設計による完全復元であって、東塔に並ぶ美しい諧調に加えて鮮やかな丹青が施されている。塔の心礎には平山郁夫画伯の請来された佛舎利が奉安されている。

創建時は内陣に釋尊のご生涯(仏伝) の内、後半生の果相(成道・転法輪・涅槃・分舎利)を表す塑像群が祀られていたが、塔と共に焼失した。 平成二十七年、彫刻家 中村晋也氏が、往時の仏伝を金銅製によって、現代に蘇らせた。


昭和56年に復元されたものなので、まだ朱が綺麗ですね~~。(*´∇`*)


金堂の右手側(東側)に建つ東塔。

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【東塔縁起】
薬師寺東塔は白鳳様式を伝える数少ない建物の一つであり、卓抜な意匠を示す日本建築の至宝として最高の讃辞を捧げても、なお足りることを知らぬと賞されている。

塔とは釋尊の舎利(御遺骨)を祈りの対象としてお祀りする重要な建物である。

東塔は大小の屋根が交互に出入りする、裳階(もこし)がつけられた特異な構造形式で、その幻想的なさまから「凍れる音楽」と称されている。

東塔の平面は一辺一〇.五一米、高さ三四.一三米あり、三重塔としては稀にみる大きさと高さである。

最頂部にある水煙には衣を翻し飛翔する二十四の天人が透かし彫りされており、それぞれが軽快な律動感を表出、その意匠は極めて優れている。また、擦管には薬師寺創建の縁起が刻文されている。

長い歴史上で部分的な修理が幾度となく施され護られて来たが、近年の調査により心柱脚部の傷みが顕著であることが判明、文化庁及び奈良県の指導のもと、平成二十一年(二〇〇九)より各匠の技を結集し、史上初の全面解体による保存修理事業が行われた。

解体作業中、心柱の最頂部より佛舎利が 発見され、再び同所へ戻すに際し五重(玻璃、純金、青磁、籃胎漆器、紬織)の入れ子式の新たな舎利容器が、平成の名工の技により誂えられ奉安なされた。

令和三年(二〇二一)春、全国から納められたお写経・お浄財等が佛心として凝集、全面解体修理は無事に完了、東塔は壮麗な姿と共に、千三百年の歴史を今に伝えている。


西塔に比べて地味やなあと思っていたら・・

創建当時から残る唯一の建物!! シツレイシマシタ・・('д` ;)

そういえば時代を経てきた趣きのある塔ですね~~。(^^;


金堂の奥にすすんでいきます。

金堂奥から振り返った図。↓
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金堂奥にあるのが・・大講堂!
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【大講堂緣起】
大講堂は、平成十五年(二〇〇三)の復興。裳階付の薬師寺独自の様式である。幅四十一米 奥行二十米、高さは約十七米あり、伽藍最大の建造物である。基本設計は西岡常一棟梁によるもので伝統工法による復元建築でありながら、現在の建築基準法に合わせ現代の技法も取り入れられている。

大講堂が大規模なのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ、講堂に大勢の学僧が参集して経論を講讃することに由来する。 特に薬師寺では、天七年(八三〇)に南京三会の一つである最勝会の道場となり、勅使を迎えた法会が毎年盛大に営まれていた。

大講堂の焼失と共に最勝会も途絶えていたが 平成十五年の大講堂復興に伴い再興されている。 

大講堂の本尊は弥勒三尊(重文・奈良時代) 。基壇には四天王と阿僧・伐蘇畔度をまつる。 

徒堂に祀られている仏足石(国宝・奈良時代) は釈尊の足跡を石に刻んだものであり、インド鹿野苑より唐長安を経て、遣唐使により平城京へ伝えられ造立されたとされる。また、仏足跡歌碑(国宝・奈良時代)は万葉仮名による仏足跡讃歌が刻まれており、国文学の上でも大変貴重なものである。

大講堂復興の慶賛として、文化勲章受章者である彫刻家、中村晋也氏の手により平成十五年 釈迦十大弟子が仏足石の両側に安置された。


s2024-04-14DSC_4532大講堂三尊像HP01zz
(↑ 薬師寺HPより)

s2024-04-14DSC_4532大講堂仏足石HP01
(↑ 薬師寺HPより)


s2024-04-14DSC_4532大講堂仏足足歌碑HP01zz
(↑ 薬師寺HPより)


s2024-04-14DSC_4532大講堂釈迦十大弟子HP
(↑ 薬師寺HPより)

圧倒的存在感の大講堂。

写真で見るより、現地で見てほしいです。 そりゃあすごかったですよ~~。.。゚+.(・∀・)゚+.゚


大講堂奥には・・

西僧坊。
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食堂。
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【食堂緣起】
平成二十七年三月起工、平成二十九年五月落慶

食堂は僧侶が斎食をするための建物で「薬師寺縁起」によるとその規模は、九間四面、東西十四丈(約四十二米)、 南北五丈四尺五寸(約二十米)、柱の高さ二丈五寸 (約十七米)で、東大寺、大安寺に次ぐ大きさとされた。 
今回行われた発掘調査によりその記録がほぼ裏付けられ、僧侶約三百人が一堂に会する規模であったことが判明している。

ご本尊には金銅製半丈六の阿弥陀如来と、脇侍に観音・勢至菩薩が祀られていたとされる。創建当初の食堂は天禄四年(九七三年)に焼失し、寛弘二年 (一〇〇五年)に再建されたものの、再び焼失(年代不明)した。

平成二十九年(二〇一七年)の再建にあたり、外観は鈴木嘉吉氏によって設計され、創建当初の様式を復元しつつも、内観は多目的に使用することを目指し、伊東豊雄氏の設計により広く使用するため、柱をできる限り減らした現代的な工法で建てられた。 

ご本尊「阿弥陀三尊浄土図」及び、東西七面に中国から日本までの風景を描いた、全長約五十米にわたる平成最大の大壁画「仏教伝来の道と薬師寺」 田渕俊夫画伯により奉納された。

尚、後堂には阿弥陀如来のお姿を浮彫(原型制作 北郷悟氏)にした「千体阿弥陀仏」が祀られており、日々の勤行で奉納者各家・各位の永代供養が勤められている。


東僧坊/朱印所/授与所。
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白鳳伽藍の奥にある玄奘三蔵院伽藍にも行ってきましょ。

北拝観受付で最初に購入した拝観券を見せ、玄奘三蔵院伽藍に通じる大門へ。

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玄奘三蔵院伽藍のメインの玄奘塔が拝観できないので、ほとんど訪れる人もおらず、白鳳伽藍に比べて寂しいかぎり・・。

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玄奘三蔵院伽藍の礼門は閉ざされていて、中に入ることはできませんでした。

とりあえずここからの写真をパチリ。
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こちら薬師寺には、拝観オープンの9時には一番のりでやってきました。 この時はまだ人もまばらでしたが、やってきた道を戻りVストちゃんをとめている駐車場に戻る頃には、大勢の参拝客。

そして昨日以上に気温が上昇・・(; ̄Д ̄)

さて、お次に向かいましょう


-続く-