1ケ月程前のこの日。

腰椎椎間板ヘルニアの後遺症で長旅はできませんが、ひさびさにお泊りツーリングに出かけてきました。

AM7時頃出発。 あたいにしたら早起きさんですよ。(゚∀゚)アヒャ

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VストちゃんでGO

瀬戸大橋自動車道、余島サービスエリアに立ち寄り・・

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瀬戸大橋を眺めながら、高速に乗る前に買っておいたマックさんを頬張ります。('▽'*)ニパッ♪

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ソーセージマフィン、180円な~~り。 このご時世にあって、神価格 .。゚+.(・∀・)゚+.゚


am10:30頃。 最初の目的地にとうちゃこ~(・∀・)

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ここは兵庫県赤穂市の大石神社

忠臣蔵で有名な赤穂浪士を祀る神社です。

以前奥様と来たことがあったのですが・・

50年弱前の学生時代にエキストラのバイトで行った映画「赤穂城断絶」を半年前にはじめて見て、あらためて大石神社を訪れてみたいと思ったのでした。

「赤穂城断絶」のお話
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四十七義士を祀る
大願成就の神 赤穂大石神社   

【ご祭神】
義士の統領大石内蔵助良雄命を始め、四十七義士命、中折の烈士萱野三平命  
播州赤穂城主浅野内匠頭長直・采女正長友・内匠頭長矩の三侯
浅野家断絶後の藩主森家の可成長可・忠政・可隆・蘭丸・坊丸・力丸の七武将

【由緒】
大石神社は明治元年、明治天皇の東京行幸に際し、泉岳寺の義士墓前に宣旨並びに 金幣を賜ったのを契機に神社奉斎の議が起こり明治三十三年神社創立が公許され、大正元年十一月三日義士を崇敬追慕する方々の奉賛により御鎮座となった

ご祭神四十七士義士が一年十ヶ月の永い間艱難辛苦の末 見事主君の仇を討った事により大願成就、願望成就の神として全国よりお参りを頂いている

境内地は大石内蔵助、同じく家老の藤井又左衛門そして義士片岡源五右衛門、大石瀬左衛門の邸跡一帯である
尚、ご社殿を始めとする境内各施設は平成十四年の義士討入り満三百年を記念した 境内整備事業により一新された

例大祭日は吉良邸に討入り見事主君の仇を討った十二月十四日


【義士史料館】
境内には四十七義士の討入り関係遺品、浅野家・大石家に伝わる宝物を展示している義士宝物殿・同別館、義士自刃二百五十年を記念し当代一流の彫刻家による浅野長矩像を始め四十七義士の木像を納めた義士木像奉安殿、大石内蔵助邸長屋門・庭園の四ヶ所が史料館として拝観できる
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神社の参道には・・

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四十七士のうち二十三体の討ち入り姿の石像が・・。

ただその石像の雰囲気が、あまり日本風ではないような・・

説明書きに”兵馬俑工芸技術伝承者作製”とあります。

なるほど。 わかります・・(^^;


参道から神門へ。

ここの神門は「義芳門」と名付けられていました。

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義芳門
この門は東の楠公西の大石と称せられる我が国の二大忠臣義士のうち楠正成公をお祀りする神戸の湊川神社の神門であったのを昭和十七年移築したも のである。

明治天皇の思召しで明治五年湊川神社が創立せられた時建てられた欅材入母屋造四脚門の豪快な門である。

幸い義士発祥の当地に移されていため過る大東亜戦争の神戸大空襲にも焼失を免れ 今日百有余年を経てなお其の偉容を誇っている。

なおこの門は義士の忠義芳を千歳 までも伝える意味で「義芳門」と称している。

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この義芳門にはふたつの御紋が・・。

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浅野家、大石家の家紋。 詳しくは後述。

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義芳門をくぐると本殿が見えてきます。
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手前右側にはお茶屋さん。

「りくぜんざい」

大石内蔵助(良雄)の妻「りく」にちなんで名付けられたぜんざいだとか・・。

800円かあ・・。

ボンビーなあたいはあきらめました。(^^;


本殿手前には
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大石內藏助良雄 銅像
この銅像は、元禄十四年三月十九日の早朝、主君浅野内匠頭長矩が江戸城中で吉良上野介に刃傷に及んだという凶報が早打によってもたらされたので、藩士総登城を命じ、自らも急ぎ本丸に赴かんとする姿である。

像の高さは二メートル余り、台石は浅野家の前領地常陸国 笠間(茨城県)の稲田御影石で重さは七・五トンもある。

像の制作者は、山崎朝雲師の門下生押田政夫・綿引弘・山崎 秀雄・三木貞夫ら四人の共同作成で、題字は明治神宮々司甘露寺受長氏の筆になり、討入より数えて二百七十年目の昭和四十六年十二月十四日建立、大石良雄より十代目の裔孫大石貞 純氏らによって除幕された。
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「大石內藏助良雄 銅像」の横には・・

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「国歌君が代」に詠われるさざれ石

国歌君が代のさざれ石は永年岩が付近の小石と接着し 大きな固りになったものであり年と共に成長、やがて岩となり 神霊の宿る石として信仰を集めています

岐阜県春日村産天然記念物のさざれ石が有名であるが この度奉納頂いたのは地層が同質の徳島県海南町山渓から掘り出されたさざれ石である

ご参拝の皆様に、このさざれ石から霊力が授かるよう祈念いたします。
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ふ~む。 パワーストーンの親分ってことか・・(・∀・)


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浅野家 大坂蔵屋敷の舟石

この舟石はその昔 赤穂浅野家大坂蔵屋敷(現在大阪市北区中之島四丁目常安橋付近)の庭にあったものである。

大きさは、長さ三メートル、巾一メートル二十センチ、重さ約二トンの自然石で、水穴は長さ一メートル、幅六十センチの花崗岩である。

この石によって蓬莱山の不老不死延命長寿の妙薬を求め、金銀財宝を?んとする中国の神仙思想から木も屋敷や社寺の庭園に据えられたものである。
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本殿の隣には「義士資料館」がありました。

入りたかったけど、時間がおしていて断念・・・

本殿です。

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しっかりお詣りしました。('▽'*)ニパッ♪

本殿のまわりには・・

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忠臣蔵のストーリーが語られた絵と説明書きがありました。

これがとてもよくできていて、ちょっと感激 

順番にまわってみましょ

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忠臣蔵ものがたり
忠臣蔵、それは日本人なら誰でもよく知っている赤穂義士の物語である。

浅野内匠頭の家来大石内蔵助ら 四十七人の武士が一年九ヶ月苦労を重ね元禄十五年十二月十四日 吉良の屋敷へ討入り美事主君長矩の無念を晴らし仇を報じた物語であり 義士伝の有名な場面を絵馬型絵巻としたものである

奉献  播州信用金庫


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松の廊下の刃傷
元禄十四年三月十四日 勅使侍役播州赤穂の城主浅野内匠頭長矩は指南役高家吉良上野介義央の度重なる意地悪に我慢の限度もこれまでと江戸城松の廊下で刃傷に及んだが梶川与惣兵衛に抱き止められて目的を果せず、反って将軍の怒りにふれ長矩は切腹浅野家は断絶赤穂城は没収されたが吉良は何のお咎めもなかった。


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長矩田村邸で切腹
長矩は網乗物で愛宕下の田村右京大夫邸へ送られ片岡源五右衛門唯一人今生の別れを惜み 身は大名でありながら庭上で切腹させられた。  辞世は
風さそふ花よりも
なほわれはまた
春の名残りを
いかにとか(や)せむ

時に三十五歳、泉岳寺へ葬り法号は 冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士


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早打ち赤穂へ飛ぶ
主君刃傷の悲報は第一の早打ち早水藤左衛門・萱野三平の両士によって江戸から赤穂まで百五十五里 普通なら十五六日もかかるところを僅か四昼夜半でふっ飛ばし三月十九日の午前六時頃城内大石屋敷へ到着した。

続いて第二の急使原惣右衛門・大石瀬左衛門の両名が午後九時頃到着、長矩の切腹を知らせた。


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藩士総登城大評定
主君長矩の切腹 江戸藩邸の接収などの凶報に 内蔵助は藩士三百余人に総登城を命じ十九、二十、二十一の三日間更に二十七、八、九日と城中大広間で大評定が行われた。

籠城論、復讐説、開城論、殉死嘆願説など連日に互って斗わされ、結局無血開城ということとなったが内蔵助に従う者五十余人に過ぎなかった。


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無念の城あけ渡し
四月十九日幕府の収城使竜野藩主脇坂淡路守は大手門から四千五百人、備中足守の城主木下肥後守は塩屋門から千五百人の軍勢を引きつれて入城、内蔵助らは本丸玄関で上使を迎え赤穂城はここに無事あけ渡された。

内蔵助は三代五十七年間のお城に名残を惜しみつつ無念の涙のうちに退出して行った。


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祇園一力茶屋
内蔵助は城あけ渡しの残務整理も終った六月の末赤穂を退去して山科の家へ移り 播州や上方或は江戸の同志と連絡をとりながら浅野家の再興に努力をすると共に上野介に対する復讐の計画も進めた。
そして吉良や上杉のスパイの目をくらますため連日京の祇園や島原に入りびたって遊びほうけた。


今までは、北西側(本殿向かって左側)の屏に架かっていた板絵と説明書き。

続いて裏側の屏に。

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高田馬場の決斗
元禄七年越後新発田の浪人中山安兵衛は堀内源左衛門道場で叔父 甥の盟約を結んだ菅野六郎左衛門から高田馬場の果し合いの助太刀を頼まれた。

安兵衛はおっとり刀で駈けつけ村上兄弟ら四人を斬り伏せて美事六郎左衛門の仇を討った。

この事が機縁になって浅野家の堀部弥兵衛に見込れ聟入り(むこいり)した。


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神崎与五郎詫状文
神崎与五郎は同志と共に江戸へ下る途中箱根の山中で馬子丑五郎 からしつこく馬をすすめられたが断った。 そのため丑五郎は悪態の限りをついたので与五郎は思わず刀の柄に手をかけ切り捨てようとした。 しかし大事の前の小事と涙を呑んで我慢をしカンザケヨカロウと詫状文を書き土下座して謝っ
たという。


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恋の絵図面取り
神崎与五郎の営む小豆屋善兵衛の小間物屋に手代として住込んでいた岡野金右衛門は若くて美男子で独身であったからいつしか吉良邸出入りの大工頭梁の娘お艶と恋仲となり、この事を幸に吉良邸の絵図面を入手しようとお艶の父親が普請のとき作った屋敷の図面を持ち出させて討入りのとき役立たせたという。


裏門にかかっていた2つの家紋
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-右側の紋-
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大石家二ツ巴紋
大石内蔵助良雄の家紋は『右廻りニッ巴』で 水の渦のふくらみが上下向い合っているのが正しい。『左廻り』のも 多くみうけるが間違いである。


-左側の紋-
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違い鷹羽紋
浅野内匠頭長矩の家紋は『丸に譜入り違い 鷹ノ羽』で左羽根が右羽根にたすきに重り羽根に虫喰いのような点々があるので『虫喰い鷹』ともいう。


それでは忠臣蔵のお話にもどります。

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南部坂雪の別れ
討入りの朝 大石内蔵助は南部坂の下屋敷で明け暮れ内匠頭の菩提を弔い仇討ちを待っている瑤泉院を訪ね今宵吉良邸へ討入り亡君の怨みを晴らすことを告げようとしたが 萬ケ一洩れることをおそれて 奥方の不興を承知の上で西国大名に仕官のため別れに来たと嘘を告げ連判状を残してそれとなく別れを告げたという。


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源蔵徳利の別れ
討入りを明日に控えて赤垣源蔵は兄塩山伊左衛門の家へ暇乞いに行ったが兄は留守であったからその羽織を借りて一升徳利を据え酒を汲み交わして兄弟の別れを惜しんだという。 しかし源蔵の姓は赤垣ではなく赤埴で兄はなく妹婿の家へ別れに行ったのがほんとうで、 また源蔵は酒も余りたしなまなかったという。


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両国橋の源五と其角
討入りの当日笹竹売りに身をやつした大高源五は吉良邸の偵察に出かけ両国橋までくると俳句友達の宝井其角とばったり 其角は源五の姿をみて
年の瀬や水の流れと 人の身は
と一句詠んだのに対し
あしたまたるるその宝船
と源五が詠み返し別れを惜しんだという。


裏門のある屏から本殿向かって右側の屏に。

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「先般の暴風雨によりこの絵馬のみが破損、修復不可能のため別途作成しました」の注意書きが。

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吉良邸討入り
元禄十五年十二月十四日の夜(今の時間でいうと十五日の午前四時頃) 本所松坂町の吉良邸へ向った大将大石内蔵助良雄ら二十三人は表門から 大石主税良金ら二十四人は裏門からそれぞれ討入った。 一般には雪の降る中を陣太鼓を打ち鳴らしながら討入ったように思わ れているが実際はそんなことはな かった。


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浪士奮戦す
吉良邸へ討入った四十七士たちは目指す敵の上野介の姿を探し求めながら部屋の中や庭のあちこちで吉良の家来や上杉の附人たちと刃を交え近松勘六のように池におちた人もいた。 上杉の附人小林平八郎や二刀流を使った義央の小姓 清水一学は特に有名であるが実際は二人とも余り戦わないで斬り死したようである。


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炭小屋にいた上野介
戦うこと約二時間 目指す上野介はどこへ雲隠れしたか見付らなかった。
しかし午前六時頃台所に続く炭小屋に隠れていた上野介に間十次郎が一番槍 武林唯七が一番太刀をつ け小屋の外へ曳き出し 合図の呼子笛で一同が集った。そこで内蔵助が止めの一刀を刺し 一番槍の十次郎が首を挙げて目出度く本懐を遂 げた。


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永代橋から引揚げ
上野介の白髪首を挙げた内蔵助ら四十七人は吉良邸の裏門に近い無縁寺へ向い休憩するつもりでいたが一同の異様な風態に怖れをなした回向院では開門しないので直ちに泉岳寺へ引揚げることとなった。

内蔵助らは始めから両国橋を渡るつもりはなく隅田川沿いに永代橋を渡って泉岳寺へ向った。


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冷光院殿に奉告
赤穂浪士が泉岳寺へ着いたのは 今の午前十時過ぎであったが ここで寺坂吉右衛門は大石からの密命をうけて門前から姿を消している。

内蔵助らはまず上野介の首を井戸で洗ってから冷光院殿の墓前に供え 亡君の無念を晴らしたことを奉告し一番に十次郎、二番は武林 そして三番目に内蔵助が焼香した。


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内蔵助ら切腹す
細川・松平(久松)・毛利・水野の四家へお預けになった四十六士に対し元禄十六年二月四日幕府は切腹 死罪を申渡した。細川家では接待役の堀内伝右衛門が十七人の遺言や辞世を聞いて書き留め 午後四時頃から切腹が始まった。

まず最初大石内蔵助が切腹の座に着き安場一平の介錯で首が落され、四十六人全員泉岳寺へ葬られた。


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忠臣蔵絵馬奉献之辞
忠臣蔵のふるさと播州赤穂に第二十七番目の支店開設に当り 眼で見る赤穂義士の絵巻を製作し更に多くの人々に義士の精神とその事績を伝え且は当金庫の理念とする地域社会への奉仕に一層努力することを誓ってこの絵馬を奉献するものである。

昭和五十九年師走十四日
播州信用金庫
理事長 和田善四郎謹誌


以上 忠臣蔵のお話がよくわかる絵板(馬)と説明書きでした。


さらに・・

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勅使差遣と神社創建
明治天皇は明治元年東京行幸に際し 泉岳寺墓前に勅使を差遣され 良雄らを弔し義士として深く嘉賞する旨の勅宣並に金幣を賜った。

そのことを契機に神社創建の議が起り全国崇敬者の奉賛によって 明治三十三年創立認可大石内蔵助良雄以下四十七人を祀る大石神社が赤穂城内三の丸に御鎮座になった。


この説明書きの隣には、明治天皇勅使の原文写しもありました。

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四十七士に賜わった明治天皇の勅語
大石良雄
汝良雄等固執主從之義復仇死于法百世之下使人感奮興起朕深嘉賞焉今幸東京因遣使權辨事藤原獻弔汝等之墓且賜金幣
明治元年戊辰十一月五日


以前、この大石神社を訪れた際は、忠臣蔵についてさほど知識がありませんでした。

半年前に映画『赤穂城断絶』を観てから再訪すると、前回とはまったく違う感慨が込み上げ、ひとしお心に響きました。



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-旅は続きます-