忠臣蔵 四十七士を祀る大石神社のあとは、隣接する赤穂城跡に歩いていってみました。

まずは二の丸門跡周辺。

s2026-04-21DSC_2907z - 二の丸門跡周辺map



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【二の丸門跡】
赤穂城は、正保2年(1645) に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648) より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661) に完成した甲州流軍学の海岸平城である。

ここ二の丸門跡は二の丸の入口として、虎口はやや南よりの西方白虎に開かれた切妻式櫓門が構えられていた。 二の丸門虎口の縄張りの一部は、浅野長直に仕えた軍学者山鹿素行が、承応2年 (1653) に変更したと言われる。

文久2年(1862) には、この付近で赤穂藩国家老森主税が、藩改革を唱える藩士たちに暗殺された。 この事件は、文久事件と呼ばれ、明治4年(1871)の日本最後の集団仇討ち 『高野の復讐 <和歌山県高野町 > 』 の発端となった。 また、二の丸門をはさんだ、東方の東北隅櫓台から西方の北隅櫓台にかけての石垣土塁 は、明治25年(1892) 千種川の洪水による災害復旧と流路変更のため、 築石として使用され取り除かれた。

平成10年3月
赤穂市教育委員会


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【二之丸門跡】
ここは赤穂城二之丸門のあった場所である。
浅野長直に仕えて赤穂に滞在していた軍学者 山鹿素行が、築城工事中の承応二年(一六五三)、この門周辺の縄張りの一部を変更したことで知 られている。

赤穂城二之丸の面積は一万七二五九坪であった。 二之丸門は櫓門で、桁行四間半、梁行二間、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪という規模であった。

また、文久二年(一八六二)十二月九日に、赤穂藩主森家の国家老森主税(ちから)が、藩政に対して意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。いわゆる「文久事件」である。この事件は、明治四年(一八七一)二月に和歌山県 高野山で起こった「高野の仇討ち」の導火線ともなった。

ここに置かれている半畳ほどの二つの大きな石は、小石を持って叩くと、「かんかん」という音をたてることから、誰言うとなく「かんかん石」 と呼ばれている。

赤穂義士会


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【山鹿素行先生銅像】
兵学者・儒学者として高名な山鹿素行(一六二二 ~一六八五)は、承応元年(一六五二)から万治三年(一六六〇)の間、赤穂藩主浅野長直に千石で召し抱えられ、承応二年には赤穂城築城に参画して二の丸虎口の縄張りを一部変更し、家中に兵法を指南した。

その後、寛文五年(一六六五)に「聖教要録」の著述が幕府の忌諱に触れ、翌年から延宝三年(一六七五)まで赤穂に配流され、二の丸内の家老 大石頼母助(たのものすけ)邸の一隅に謫居(たっきょ)した。

配流(はいる)中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全(しじょくとうたいぜん)」 「中朝事実」「武家事紀」「謫居童問」など、素行の学問を代表する大著を完成している。

大正一四年(一九二五)、謫居跡に建立された素行先生の銅像は、平成一〇年に赤穂城跡公園整備のため現位置に移転した。

赤穂義士会


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【大石頼母助屋敷門(おおいしたのものすけやしきもん)】

大石頼母助良重(おおいしたのものすけよししげ)は大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)の大叔父にあたり、 藩主浅野長直に家老として重用され、二之丸に屋敷を構えたほか長直の長女を妻とした。 山鹿素行が赤穂に配流された際、この屋敷の一角で8年余りを過ごしたという。

平成 10~13 年にかけて実施された二之丸庭園の発掘調査により、頼母助屋敷の門跡のほか土塀基礎石列、建物礎石、上水道遺構などが見つかった。

遺構に基づき、門の規模及び構造が検証され、薬医門形式の屋敷門として平成21年3月に整備された。


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【よみがえる旧赤穂城庭園 二ノ丸庭園】

二之丸庭園は、 赤穂城二之丸北西部に存在した大規模な廻遊式庭園で、東は大石頼母助屋敷から始まり、西は西仕切りにまで及ぶ、ひょうたん形の雄大なものでした。

山鹿素行の『年譜』の中に、この庭園に関連する記載がみられ、 頼母助屋敷の一角で適居生活を送った素行がこの池泉(ちせん)で遊興したことが記されています。 それによれば、この庭園には 「茶亭」 「浮玉堂」 「龍船」などがしつらえてあったこと、 「海棠」 「牡丹」 などの植物で彩られていたことなどがうかがえます。

発掘調査の結果を受け、 二之丸庭園は本丸庭園とと もに「旧赤穂城庭園」として国の名勝に指定され、平成14年度から整備を開始、復元整備を実施していると ころです。 世紀を経てよみがえる大名庭園にご期待ください。



広い庭園を散策したかったところですが、先を急ぎます。(^^;

二ノ丸門周辺からいよいよ本丸跡に。

s2026-04-21DSC_2907z 本丸跡


s2026-04-21DSC_2914赤穂城本丸跡全景



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【国史跡赤穂城跡本丸門 (復元)】
本丸門は築城時 (17世紀中頃) の建造と推定され、明治10年代後半の取壊しまでの約230 年間存続していました。

現在の本丸門は、平成4年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として、全国で初めて採択され、 国・ 兵庫県の補助を受けて総事業費約 6.7億円をかけて平成8年3月に完成したものです。

この平成の復元は、 明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする文献類、 発掘調査の成果を総合的に検討して 赤穂産の花崗岩による桝形石垣、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、 往時の姿によみがえらせています。

<树形石垣>
虎口左前 (門桝式) 形式   使用石量 1,873t
面積 334.32㎡  高さ 4.60m
やぐらちん いづくり
<一の門>
木造脇戸付櫓門(やぐらもん) 入母屋造(いりもやづくり)  本瓦葺
上階・下階構造 棟高 10.98m
使用材 (欅・檜・杉・松)  材積 75.03㎡   瓦数 9,820枚 
  上階 桁行 13.36m  梁間 4.77m  軒高 7.70m
  下階  桁行 8.83m  梁間 4.14m  軒高 4.78m

<二の門>
木造小戸付高麗門  切妻造(きりつまづくり) 本瓦葺
桁行 3.89m  梁間 2.49m  軒高 4.62m  棟高 6.13m
使用材 (桧・杉)   材積 10.97㎡   瓦数 2,270枚


<土堀>
桁行 1.80m   梁間 2.41m   長さ 92.67m

<中道>
幅 9.73m 長さ 18.82m

平成8年11月
赤穂市教育委員会


本丸門をくぐります。


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【赤穂城跡の概説】
赤穂城は、正保二(一六四五)年に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元(一六四八)年より一三年にわたる歳月を費やし、寛文元(一六六一)年に完成したものです。

城郭の縄張りは近藤正純の指導のもと甲州流軍学によるもので、一部、二之丸枡形虎口付近は山鹿素行が設計変更したと伝えられています。本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭(ていかく)
式になっており、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城とさ れています。城郭の規模は、一〇の隅櫓、一二の諸門があり、曲輪(くるわ)の延長は二、八四七mに及んでいます。塁石、防壁、門、本丸御殿などが整えられ、居城としての威容が示されましたが、天守台のみ築かれて天守は構築さ

三代続いた浅野家ですが、刃傷(にんじょう)事件により断絶し、その後は永井家、次いで森家の居城となりました。明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となりました。しかし城郭復興の気運が高まり、大正元(一九一二)年には三之丸に赤穂大石神社が建立、 大正一四 (一九二五)年には二之丸に山鹿素行銅像が建立されるな どしました。

昭和三(一九二八)年には本丸内に赤穂中学校(後の赤穂高等学校) が竣工されましたが、昭和一五(一九四○)年には城跡が風致地区に指定され、昭和二七年には都市公園の計画決定、さらに昭和四六 (一九七一)年には国史跡に指定され、赤穂城整備が推進されるこ とになりました。また平成一四(二〇〇二)年には、旧赤穂城庭園(本丸庭園・二之丸庭園)が国名勝に指定され、現在も計画的に整備が 図られています。


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【本丸庭園施設案内図】
赤穂城は、正保2年(1645) に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、 近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648) より13 年に亘る歳月を費やし、寛文元年 (1661) に完成した甲州流軍学の海岸平城である。

本丸は、中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、 刎橋(はねばし)門、厩口(うまやぐち)門の3門をもつ。 天守台には天守閣は当初から築かれず、4箇所の櫓台のうち東北隅櫓台のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢桝形として配されていた。

平成10年3月 赤穂市教育委員会


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(説明文)
本丸の面積は約 15,114㎡ あり、その2/3は領主屋敷、番所、倉庫等の建物と天主台、池泉などに占められ、残る1/3はくつろぎ (池泉を発掘調査) と呼ばれる空地になっていた。

当時の藩邸(御殿)は、右手(西)から大部屋を主とする表御殿、中奥、 小部屋を主とする奥御殿に区分されていた。 表御殿は大書院と小書院を組み合わせた形式で、広間は使者の間と組合わさって控室となり、そのほか勘定所や上台所が加わり、藩庁として使われていた。中奥は、藩主の居間と寝室からなり、台所が付属していた。 奥御殿は藩主の寝間と5室の部屋 (局)と台所が設けられ、うち2室は風呂と便所を備えていた。

復元された御殿は、浅野家断絶後入封してきた永井家の史料である赤穂御城御殿絵図 (東京大学史料編纂所蔵) をもとに、 赤穂城本丸内水筋図 (赤穂高等学校蔵)、 赤穂城引渡一件文書の播磨国赤穂城内本丸建屋改帳 (花岳寺蔵) 、発掘調査の成果などを考察して、建物跡を床高だけ高くし、コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、板間、座敷間、土間、敷居、廊下、柱、縁などを表現した。 また坪庭跡には木陰をつくるため、 中高木を植栽した。

平成8年11月   赤穂市教育委員会


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【赤穂城本丸】
赤穂城は、藩主御殿のある本丸と、その周囲を取り囲む二之丸、そして北側に曲輪が取り付く三之丸のの三つの曲輪によって構成されています。 二之丸には二之丸庭園をはじめ馬場や米蔵などがあり、三之丸には城の守りを兼ねて家臣が住んでいました。

藩主の住んでいた本丸には、本丸御殿南側に大池泉(ちせん)が広がり、御殿の内部から鑑賞することができました。このほか御殿内部の坪庭や、本丸北西部に「くつろぎ」と呼ばれた池泉もあり、藩主の生活を潤しました。

なおこれらの池泉のみならず生活のための水は、すべて約7km上流から取水された旧赤穂上水道によって賄われました。

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【赤穂城本丸天守台からの風景】
赤穂城の築かれた寛文元(一六六一)年は、江戸開府からすでに 六〇年以上経過しており、このころの城郭は防備の拠点ではなく経済の拠点としての役割を担っていました。赤穂城に天守が築かれず天守台のみとなっているのも、こうしたことが理由の一つとされて います。しかし、浅野長直が築いたこの天守台からは、大変素晴らしい眺望を得ることができます。

当時の赤穂は製塩業が活発化しはじめたころで、近隣地域から製 塩技術者を移住させて、東浜塩田の開発を本格化させていました。 広大な西浜塩田の開発は森時代を待たなければなりませんが、眼前に広がる穏やかな瀬戸内海とともに、東浜塩田が着々と干拓されていくさまを、藩主は眺めることができたのでしょう。


では天守台に行ってみます。 

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天守台から本丸門(北北東)を望む風景。
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天守台から西方向。
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天守台から北北東方面。
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のどかですね~~~。(・∀・)

時間があれば、もう少しのんびりしたいところですが・・。

大石神社駐車場にとめているVストちゃんの方に戻りましょ

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s2026-04-21DSC_2907z - 片岡源五右衛門宅跡

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大石神社駐車場の北北東側。

【片岡源五右衛門高房】
用心 三百五十石
表門隊 行年三十七歲

父は尾張徳川家家臣の熊井重次郎で、八歳の時に浅野家家臣片岡六左衛門の養子となった。主君浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)と同年齢で、幼い頃から側近くに仕えた。俸禄(ほうろく)はは初め百石であったが、幾度かの加増の後、三百五十石にまでなっている。

内匠頭は、田村邸での切腹の時、源五右衛門と磯貝十郎左衛門に「このことはかねてから知らせておくべきであったが、今日やむをえない事情があったので知らせなかった。不審に思うことであろう」との言葉を遺した。 切腹後、源五右衛門は礒貝らと田村邸に遺骸を引き取り、泉岳寺へ葬送している。

赤穂開城後は、大石内蔵助らのグループや堀部安兵衛ら江戸の急進派とも距離を置き、一途に亡君の仇討ちだけを考えていた。大石らが討入りに向けて動き出してようやく同志に加わった。

討入りは表門隊に属し、冨森助右衛門(とりのもりすけえもん)、武林唯七(たけばやししただしち)とともに朱柄の槍を携えて屋敷内に踏み込んだ。細川家にお預けの後、二宮新右衛門の介錯で切腹した。

赤穂義士会


大石神社。赤穂城跡を参拝、散策して、次の目的地に向かいます。

-続くー