前回記事の続きです。

赤穂からたつの市に入りました。

時間がおしていたので、お昼ごはんを食べていません。

コンビニ発見

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写真を撮り忘れていたのでgoogleストリートビューから・・(^^:

何十年ぶりにアメリカンドッグをいただきましたよ。(・∀・)

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ウッーウッーウマウマ(゚∀゚)

ゴリラナビで目的地近くまで行くものの、迷子になってしまいました。

近所の人に道を尋ねて無事到着。

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龍野歴史文化資料館。

休館日でした・・・

こちらに隣接する龍野城に歩いて向かいます。

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【龍野城】
龍野城の歴史は中世赤松氏の城主に始まり、羽柴秀吉子飼いの武将たち、関ヶ原合戦後には、池田氏、本多氏、 小笠原氏、 岡部氏、京極氏と歴戦の大名が入城し、寛文12年(1672年)に脇坂家が城主となり、この城を治めました。

山上から現在の場所に城が移動したのは江戸時代の初め頃と言われています。 以来、龍野城は西播磨の中心に位置し、城下町は発展してきました。

昭和50年(1975年)以降に整備された現在の龍野城ですが、 御殿の玄関は、藩祖脇坂安治が建立した京都妙心寺隣華院の玄関を参考にしたと言われています。

眼前に広がる甍の屋根。 白壁とレンガ造りの煙突。 美しき龍野城下町の礎を築いたのが歴代の龍野城主であり、 今もこの町の象徴として多くの人が訪れるお城です。
令和元年(2019年) に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された町並みと共に、お楽しみいただければ幸いです。

<以下ウイキペディアより補足>
龍野城(たつのじょう)は、兵庫県たつの市龍野町上霞城(播磨国揖保郡(のち揖西郡))龍野にあった日本の城。別名霞城。

-概要-
明応8年(1499年)に塩屋城の龍野赤松氏・赤松村秀が龍野に鶏籠山城を築いた。以後は政秀、広貞、広秀と続いたが、天正5年(1577年)に開城して赤松氏から豊臣秀吉の手に渡り、播磨平定後、姫路城を本拠として整備した秀吉は新たに蜂須賀正勝を置いた。

江戸時代の万治元年(1658年)に京極高和の丸亀移転の際に破却されたが、寛文12年(1672年)に脇坂安政によって龍野城が再建された。この際山頂の郭は放棄され、山麓居館部のみの陣屋形式の城郭になった。明治から大正時代には旧制中学校や兵庫県立龍野高等女学校が置かれた。昭和50年代に櫓や御殿などが再建されていき、現在の本丸御殿は1979年(昭和54年)に再建されたものである。


龍野歴史文化資料館駐車場から歩いてきたので、城門をくぐらず いきなり御殿に出てきました。

中をのぞいてみましょ。


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<寝 牛>
上屋敷の庭園には池があり、 脇に神社が祭られていた。 この牛は破片となって池の部分から出土し、周辺からは、龍野藩士が奉納した手水鉢も出土している。 (資料館前に展示)

牛は天神の乗り物と考えられている。 これを「撫で牛」と言い、撫でることに よって学問が向上すると考えられていた。


建物の外には庭園がひろがっていました。

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【龍煌々志】
本丸御殿の襖絵 「龍煌々志」は、たつの市出身の龍画家出口龍憲氏より 昭和五十九年に寄贈されたものです。
貴氏は昭和五十九年フランスニースフェスティバル美術展の金賞受賞をかわきりに数々の国際的な美術展で入賞されてい ます。

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御殿をあとにして、大手門を見に石段を下りていきます。
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ここからすぐ近くに・・

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三木露風生家

三木露風って、たしか「赤とんぼ」の作詞した人だよね。

”たつの”の人だったんだ。

せっかくなので、こちらものぞいてみましょ(・∀・)

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【三木露風生家】
明治22年6月23日、節次郎とかたの長男として出生した三木露風(本名 操)が6歳まですごした住宅です。
両親の離婚により母と弟と別れた幼少期の露風にとって、母との思い出が残る場所であったと思われます。
この建物は、武家屋敷の流れを組み込んだ建物であり、建設当時は東側の土地も連たんして利用され、特に座敷の天井は当時からそのまま残されていることが事前の調査で分かりました。 今ある姿を活かし保存修理することで、素朴で趣きのある生家を訪れた方が、 歴史と露風の息吹を感じていただければとの思いが込められています。


おじゃましま~~す。v( ̄∇ ̄)v

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誕生
明治二十二年(一八八九) 六月二十三日
兵庫県揖西郡龍野町八番屋敷 (現たつの市龍野町上霞城百番地)

父三木節次郎 (二十四歳) 母かた (十八歳)の長男 操(みさお)と命名。

生家は、龍野城大手門の坂を降りた所で、上霞城町の名のとおり幕藩時代は政治の中枢の場所であった。
父節次郎は九十四銀行に勤めていた。祖父 制は(すさむ)は旧藩の寺社奉行であったが、初代龍野町長、九十四銀行頭取でもあった。 漢学の造詣深く、大槻磐渓・梁川星巌等と交わった。

母は、私が幼年の頃に長い歌を歌って聞かせて呉れた。其れが子守唄であった。私は、母が其の長い詩を度び度び歌って呉れた事を覚えている。其を聞くと、何とも言へず、懐かしい気がした。
(三木露風詩集)

町立龍野幼稚園へ入園届を出した。母は露風を一人で役場にやったが、それを届けてきた。母は優しい人であるが、教育については、私をそのようにして鍛えたのであった。弟 勉 生まれる。
(明治二十五年露風四歳の時)


幼稚園へ
明治二十六年(一八九三) 四月 町立龍野幼稚園へ入園 五歲

いくさごっこ 日清戦争の頃なので新宮さんの石段で遊んだ。 脇坂が大将で子どもたちを牛耳った。 (石橋利之氏談)


母かたとの悲しい別れ
明治二十八年二月

お引越しとかいうことで荷物を片付けているのをあとにして幼稚園に出掛けたが、もどってくると表は板で斜に釘づけられ、母はおらず、祖母のとしが迎えに来ていて、祖父制の家に連れていかれた。

露風の母と離別の悲しみは、感じやすい少年露風の心に、癒えることのない傷痕を残すことになったようである。

ある事情が起き、祖父は母に家を去り自由にしてくれと云った。

母は、明25・5・22日に生まれた弟勉と共に鳥取の堀家へ去った。

「夕空に希望の星を仰ぐとや 星は愁いに またたくものを」
龍野高等小学校時代作  「神戸又新日報」 一等入選


この説明書きを見ると、母かたは封建的な家制度の中で家を追われたように感じます。

「赤とんぼ」の「夕焼け小焼けの赤とんぼ おわれて見たのはいつの日か」という歌詞から、露風が母親に背負われた思い出、母への思慕を感じるのは私だけでしょうか。


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小学校へ
龍野尋常小学校入学(明治二十八年六月) 七歳

七歳 祖父から漢学を教えられ始め、夙(つと)に起きて習字もした。

八歳  漢籍『大学』の学習を終わった。
  『梁川星巌詩集』を独りで読んだ。「神童」と呼ばれる。

九歳 兵庫県播磨国揖保郡内の各小学校連合の作文展覧会が開催せられ、其時、作文が各学年を通じての最優等の審査を受けて、展覧会場にその文が張られて、多くの人々の賞賛を受けた。

十歳  尋常四年生となった。 国語力の特に進んだのを教師より認められる。 山川の自然に親しむこと益々多くなっていた。

弟 正夫 生まれる。母は斉藤シズ。
明三十一.十一·二十二
正夫は浅生山家に養子縁組。

龍野高等小学校入学(龍野城趾にあった) (明治三十二年四月)
十一歲
祖母 俊 死去(六十五歳)
枕元でその死を大変悲しむ。


文学のめざめ
読書欲が旺盛になり、父所蔵の和漢の書を倉庫より出して日夜耽読し、その書籍全部を読んでしまった。

十三歳  新任教師 松本南楼の感化を受けて句作する。この頃の作に「赤とんぼとま っているよ竿の先」がある。後年、露風の童謡「赤とんぼ」の第四節にこの句が歌い込まれている。従兄弟・弟・ 士族屋敷に住む少年達の間で、謄写版刷りの回覧雑誌『少園』を作り、これを主宰した。

十四歳  『少園』の会名を「白紫会」と名づけ、小冊子「秋の花」を印刷する。(白は揖保の清流、紫は鶏籠山の美しさ)  「書写山」は、龍野中学退学直前の明治三十七年九月下旬か十月に作詩して、「文庫」に投稿。 掲載誌「文庫」は 明治三十七年十一月十五日号。

束髪にいばらを刺しけり夏姿  露風

そのころ、言文一致運動が少年の間にも普及し、露風も盛んに言文一致の文章を作って、少 年の投稿雑誌「少国民」を初め、「中学文壇」 「秀才文壇」にも作品を寄せると共に、「姫路新 聞」や「鷺城新聞」の文芸欄でも活躍するよう になった。
三十六年には「言文一致」(「少国民」改題) 「中学世界」「秀才文壇」等の誌上に詩歌・散文・文芸時評を発表し、注目された。


三木露風さん。天才少年だったんですね。

あたいが13才とか14才の頃といえば・・・

漫画を読むばっかりでした。 (゚∀゚)アヒャ

ちなみに上記説明に出てくる”言文一致運動”とは 

「書き言葉を、実際に話している言葉に近づけよう」という明治時代の国語改革運動。

明治の初め頃まで、日本の文章は「書き言葉」と「話し言葉」が大きく違っていました。

たとえば昔の文章は、「○○に候(そうろう)」、「○○なり」のような、武士や漢文調の硬い文体が普通でした。

しかし実際の会話では、「○○です」、「○○だった」と話します。

つまり、<話す日本語>と<書く日本語>が別世界だったのです。

そこで明治の文学者たちが、「もっと普通の人が読める文章にしよう」、「話し言葉に近い日本語で小説や詩を書こう」と始めたのが言文一致運動です。

と、いうことでした。(・∀・)


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中学校へ
兵庫県立龍野中学校へ首席で入学。
明治三十六年四月 十五歳

詩歌中心の「緋桜会」なる文学会をひろく同好の士を集めて(中学生を多く含む) 作りました。 

一方、俳句だけの「柿栗会」を設け露風は両者を主宰した。指導した少年文学会の者は、露風より年長の者が多かった。 露風は彼等に雅号をつけた。 思想感情、言動等大人の如くであった。

「文庫」に発表した「書写山」は、大変な好評を博し、河井酔茗も注目した。

私に詩思を与へ、私の少年時代にして尚且つ思索に耽らしめたのは、何であらうかと私は考へて見ると、故郷の山川である。

中国播磨は、山の甚だ雄大なのは無い。 従つて豪宕なる景趣を求めることは能きない。が気候が全国中最も温暖で、寒暑のよろしきを得、殊に私の生まれた町の龍野は、山紫水明で四季の風物が諸和してゐる。少し高い所に登れば、間近くに、瀬戸内海の紫色の景色を瞰望することが能きる。景色は只一部のみにては全しと言ふことは出来ぬ。山の景、海の景、河の景、平野の景、更に又加へれば町の景をも見のがすことが出来ぬ。 之等を綜合して而かも天候やはらぐ地ならば、容易に人を倦ましめない。それ故、近年私の故郷の鶏籠山は兵庫県に於ける国立公園の候補地とせられ、其の為に町からも請願書を差し出したと聞く。鶏籠山は曩(さき)に書いたやうに風致林として伐木を許されない好風の山である。私の誕生の家は、此の山の南麓なのである。私は山桜をながめて育つたのであった。



更に言ふ-私に詩思を与へ、私の少年時代にして尚且つ思索に耽らしめたのは、故郷の山川である。   (『我が歩める道』)


丁度、橋上の中程へかかつた時であつた。一人の上級生らしいのが腕組みして近づき、よろけかかるやうなかつこうで露風にぶつかつた。 その時、肘で グイグイッと突いたのだらう。それを避けて進まうとすると、今度は反対側から出てきたのが同じやうにぶつかった。われわれは急に危険を感じ出したので、三、四度び小突き廻される露風と共に白刃の中をくぐりぬける気持ちで逃げ出し、やつと橋を渡り終へたのである。平常運動などに出ないで小生意気 に詩人を気取ったりしてゐるので、上級生の蛮カラ 組から露風は睨まれてゐて、機あらば制裁を加へよ うと話し合つてゐたのが、この橋上の暴発となった ものだろう。
中学生の群れから遠ざかつてホッとしたが、「怪しからん奴だ。ぼくはこれから舎監のところへ行つて談判します。 あんな学校にゐるものか。 退学しますよ。」と、露風は興奮に呼吸をはずませながら、肩をそびやかしていきまいた。
(水守亀之助『続わが文壇紀行』)


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永井荷風の賛辞
露風は「廃園」が発行されるとすぐに、敬愛する詩人永井荷風に贈ったようで、荷風から九月九日付の温かい賛辞に充ちた励ましの書をもらっている。この書簡を露風は再版「廃園」(明43・10・5.博報堂)の巻末に収録している。 次のようである。

露風樣

御手紙拝見致候。其夜直ちに御寄贈の詩集は一通り読過致し多大の感動を覚え候。 詩に於ける音楽的熱情の溢れ満ちたるは何よりもうれしく覚え申候。前半の「廃園」中に収められたる詩は最近の御作だけに他に比して殊にすぐれたりと信じ候。然し中頃の詩には企てずして折々非常なる名吟あるを見申候。 例へば「内心」 「木の葉と旅人」「接吻の後に」の如きは却って全詩集中の最上の傑作と存じ候。 読みゆく中に感ずるは、兄の詩が最近に至りて非常に感情の複雑になりたる証拠として、その内容の音楽が、初めは単なるメロデーなりしを、此の頃に至りては正しく幾多のアル モニーを含めるものと相成候。 用語の中には時として稍々(やや)古典の文法以外に出でたるものも相見え候が、詩の全篇より云へば、語格正しく、 作意の明瞭に了解せらるゝは、現代の新詩中他に類なきものとせられ候。 即ち「線」が非常に鮮明にして且細微なる事に有之候。此の特徴は直ちに小生をしてラテン的南方的の芸術を思はせ申候。

貴兄の詩は誰よりも最もよくヴェルレーヌの面影を伝へたりと ふも過賞にあらずと信じ候。 世の愚味なる批評家は或は兄の詩を以て雄大の意気なしなぞ評するやも知れず、然しかる批評は詩の分類の何たるかを知らざるより来るものに御座候。 昔より抒情詩(ポエヂー、リーリツク)には叙事詩に見る如き思想形式の大なるもの出でざるのは無之候。 近代には叙事詩の大なるもの出でざるは 或は天才の欠乏ならんも知れずと雖も(いえども)是れ東西を通じて一般の傾向なれば致方なく候。 抒情詩が又、大方は、恋、過去の追想 、運命に対する悲哀と恐怖等題材の単調になり易きも是れ亦、此一種の詩形の至す処にして、由来感情なき日本人には歓迎せられざるも道理に候。

詩集「廃園」はたしかに新しき時代の最も力ある感激の声に有之候。 小生はくれぐれ兄が世の俗悪無学の批評に耳を傾けざらん事を希望して止まず候。

兄の詩はこの詩集に於て進歩の域階段に到達したるものと思れ候。情緒のみならずして、官覚実感は次第に最近の詩を動かす一勢力と相成、フランスにてノアイユ、ドラリユー其の他幾多の女詩人の詩は遂に一方の勢力と認めらるるに至り候。 「死あるが故に生の堪えがたき甘さを思ひ、」 「樹木は樹木たりといふ無限の快感のために死す」と云ふやうな旬は彼等女詩人の口より聞かるる、 苦悩の声に候。ノアイユ夫人は、われ死する後世の若人はわが詩を読み、われを恋すべし、かかるためにわれは詩を書く・・・・・・・と云ひ、又或女詩人は、林檎の実を噛みて其の味の中に遠き故郷の野を思はん......と叫ぶ。されど一方にはレニエーの如き恰も禅僧の如き沈思の詩人此れ有り、夜の水に花の沈むを眺め、 泉水に映る世の物象を凝視致し居候。

又一方にはロラン、タイヤードの如く神女無限の空想界を喜び オフエリヤが恋を夢みて水に沈みし瞬間の思に耽り、秋と冬来らざる永遠の楽土をのみ追はんとする人も有之候。 兄の詩才の此の後何れに転ぜんとするか、はた、同じ道にするも如何に其の深さ増し行くやは、小生のみならず、明治詩壇の決して注意を怠ら ざるべきところと信じ候。 妄評多罪。

九月九日
永井荷風


う・・・・(TДT)

明治文学独特の文語体と漢語表記で、あたいのポンコツ脳みそでは難しくて理解できましぇん・・(´;ω;`)

ちゅうことで・・

あたいでもわかる文体にしてみました。 間違ってるかもしれないけど・・(^^;

「露風様

お手紙ありがとうございました。その夜すぐに、贈っていただいた詩集『廃園』を一通り読み、大きな感動を受けました。

何よりうれしかったのは、あなたの詩に音楽のような情熱が満ちあふれていることです。特に前半の「廃園」に収められた最近の作品群は、他の作品以上に優れていると思いました。

しかし一方で、中頃に収められた詩の中にも、意図せず生まれたような素晴らしい名作があります。たとえば「内心」「木の葉と旅人」「接吻の後に」などは、むしろ詩集全体の中でも最高傑作ではないかと思います。

読み進めながら感じたのは、最近のあなたの詩は感情が非常に複雑で豊かになってきているということです。以前は旋律(メロディー)のように単純だった詩の音楽性が、今では和音(ハーモニー)のように重なり合う深みを持つようになっています。

言葉づかいの中には、ときどき古典文法から外れている部分も見受けられます。しかし全体として見ると、言葉の格調は正しく、作者の意図もはっきり伝わります。これは現代詩の中では他にあまり見られない長所です。

つまり、あなたの詩は「線」が非常に鮮明で、しかも繊細なのです。この特徴は、私にラテン的・南方的な芸術を連想させます。

あなたの詩は、誰よりもヴェルレーヌの面影をよく伝えていると言っても、決して褒めすぎではありません。

世間の愚かな批評家たちは、「露風の詩には雄大さがない」などと言うかもしれません。しかしそれは、詩の種類というものを理解していない批評です。

昔から抒情詩(感情を歌う詩)は、叙事詩のような大きな思想や壮大な構成を持つものではありませんでした。

また近代に大きな叙事詩が現れないのも、あるいは天才の不足かもしれませんが、これは東西共通の時代傾向なので仕方ありません。

抒情詩が「恋」「過去への追憶」「運命への悲しみや恐れ」といった似た題材を扱いがちなのも、この詩の形式そのものの性質です。そして感情表現に乏しい日本人に歓迎されにくいのも、ある意味当然でしょう。

『廃園』は確かに、新しい時代の最も力強い感動の声です。

私は、あなたが世間の低俗で無学な批評に耳を貸さないことを、心から願っています。

あなたの詩は、この詩集によって新たな段階へ進んだと思います。

しかも最近では、単なる情緒だけではなく、感覚的・肉体的な実感が詩を動かす大きな力になってきています。

フランスでは、ノアイユ夫人やドラリューなど、多くの女性詩人が大きな存在として認められるようになっています。

「死があるからこそ、生の耐えがたい甘さを感じる」
「樹木は、樹木であるという無限の歓びのために死ぬ」

といった表現は、彼女たち女性詩人の苦悩の声なのです。

ノアイユ夫人は、
「私が死んだあと、未来の若者たちは私の詩を読み、私を愛するだろう。そのために私は詩を書く」
と言っています。

また別の女性詩人は、
「林檎をかじった味の中に、遠い故郷の野原を思い出したい」
と叫んでいます。

しかしその一方で、レニエのように、まるで禅僧のように静かに思索する詩人もいます。夜の水に花が沈む様子を眺め、泉に映る世界を見つめ続けるのです。

また一方には、ロランやタイヤードのように、幻想世界を愛し、オフィーリアが恋に破れて水に沈む瞬間の夢想に浸り、秋も冬も来ない永遠の楽園だけを追い求める詩人もいます。

これからあなたの詩才がどちらへ向かうのか、あるいは同じ道をさらにどこまで深めていくのか。それは私だけでなく、明治詩壇全体が注目し続けるべきことだと思います。

勝手な批評を書き連ね、失礼しました。

九月九日
永井荷風 」

現代語訳が間違っていたらごめんなさい。m(_ _)m 



s2026-04-21DSC_2994_三木露風_廃園の発行と六合舎


「廃園」の発行と六合舎
三木露風の出世作となった詩集『廃園』は、明治四十二年九月五日光華書房から発行された。その年の六月から、露風は実業家根津嘉一郎の別邸「六合舎(りくごうしゃ)」(東京府北豊島郡目白高田村雑司ヶ谷) 構内の一戸に住んでいた。 親友内海信之(明17・8・30~昭43・6・14) 宛六月三日付のはがきに

森へまゐり申候、静寂を愛し詩を愛し当分うるさい事を避けたく存候、・・・・

とあり、六月九日付封書の中で

僕は森に来て熱心に詩を書いてゐます、世評などには一切係はらず自分一人でやらうと思ってゐます。
森は美しいですよ。青葉の光落日の色、軽い風のあゆみ、たそがれには晩鐘がひびいて何となくミレの絵を思ひ起こさせます。...

と述べている。そのころ、露風竹馬の友石橋利之(明2・8・22~昭和57・ 5・29)は、司法試験受験のため上京していて、露風を訪ねた時の思い出を次のように語った。(昭43・4・11)

根津屋敷(六合舎)は、ひろびろとして森のようで、荒廃した庭園の中の一軒家に露風はひとりで住んで詩作に耽っていた。ぽつりぽつりと露風は話すが、話題は結局詩論に持っていった。


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三木露風。 赤とんぼの作詞をした人程度の知識しかなかったあたい。

たまたま通りかかったので、立ち寄った三木露風の生家ですが、これらの説明書きに端を発し、少しばかり三木露風さんの人となりを知ることができました。

露風の人生は、
・幼少期の母との別離
・文学青年としての名声

・象徴詩人としての成功
・「赤とんぼ」に代表される童謡

・キリスト教信仰への傾倒

と、大きく変化していったようです。

特に晩年は、「郷愁」「母への思慕」「魂の救い」といったテーマが色濃くなり、その精神性が作品にも強く表れていると評価されているようです。


さらに・・・

こちらの三木露風生家の隅っこに貼られていたパンプレットを見てビックリ

w(゚o゚)w オオー!

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Σ('◇'*)エェッ!?

”たつの”って、寅さんのロケ地だったの

あっ、第17作「男はつらいよ寅次郎夕焼け小焼け」の舞台が、ココだったんだ。

マドンナが太地喜和子さん。宇野重吉さん、寺尾聡さんの親子で出演された回です。


完全にリサーチ不足でした。

寅さんファンのあたいとしては不覚でした。

あらためて寅さんを訪ねる旅で、ここ龍野を再訪しないといけません。(^_-)-☆


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揖保川のゆったりした流れを眺めながら、たつのの町を散策。

三木露風が「赤とんぼ」を詠んだ心情に、少し触れられた気がしました。