前回記事の続きです。
金刀比羅神社からすぐのところにある「多度津町立資料館」にもおじゃましました。
写真を撮っていなかったので、Googleストリートビューから。
民家を改修した建物かな? (・∀・)シランケド
お庭には・・
火事場では大活躍・・と書いてありますが、大きな火事だときびしそう~~(^^;
資料館の中を拝見させていただきます。
【鉄道の町、陸上交通の整備】
【昭和初期の四国鉄道の発達、多度津港の盛衰】
趣きのある立派な建物ですね~~ ( ̄。 ̄)ホーーォ
<旧多度津駅>
旧多度津町役場は、あたいがお仕事をしていた頃、何度かおじゃましたことがあります。なんと、もともとは駅舎所在地だったとは。Σ(・ω・ノ)ノ
高松~松山を結ぶJR予讃線と、高松~高知を結ぶJR土讃線は、ちょうど多度津で分岐しています。
ここ多度津の鉄道の歴史を知り納得しました。(´-ω-`)ナルホドナ
小さな町の資料館でしたが、お勉強になりました。(・∀・)
よっしゃあ~~、次にむかいましょ
-続く-
金刀比羅神社からすぐのところにある「多度津町立資料館」にもおじゃましました。
写真を撮っていなかったので、Googleストリートビューから。
民家を改修した建物かな? (・∀・)シランケド
お庭には・・
火事場では大活躍・・と書いてありますが、大きな火事だときびしそう~~(^^;
資料館の中を拝見させていただきます。
【北前船の寄港地としての発展】
良港だった多度津湛甫は北前船の寄港地となり、多度津の近世商人のうち船を所有した「船主」は讃岐三白の綿、塩、砂糖などを積んで、西廻り航路で日本海へ抜け、北陸沿岸や北海道まで回航し、帰りには食用の身欠き鰊(にしん)、昆布や数の子、そして肥料用の胴鰊や〆粕をもちかえって売りさばいた。また、「船主」ではない商家も、寄港した北前船と商取引を行うことで、「船主」同様に利益を生み出すことができた。こうした「廻船業」により多度津の商業は発展し、近世商人たちは大きな富を築き始めた。
多度津港は昔から金毘羅参詣客や北鴨の道隆寺の接待講などでくる船乗りなど船路で往来する人が多かった。そこで自然と潮待ちやその他の用事で人が泊まる宿屋が必要だったので西浜や東浜付近に旅館が軒を並べていた。
多度津湛甫または川湊に近い、西浜、東浜、新地、折り下がり、浜ノ町、仲ノ町、南町、角屋町、門前町といった場所には、廻船問屋(*注1)や萬問屋(*注2)が多く建ち並ぶようになった。廻船問屋には、大隈屋、米屋、竹屋などが、萬問屋や干鰯問屋(*注3)には煙草屋をはじめ、嶋屋、尾道屋、柳屋、茶屋、濱蔵屋、大黒屋、松尾屋、 岡山屋など70軒あまりの問屋があったとされており、廻船を中心とした商業の隆盛をうかがわせる。
(*注1)廻船問屋は海運・運送の仲介業者
(*注2)萬問屋は、船で運ばれてくるさまざまな商品をまとめて取り扱う(何でも扱う)卸問屋と思われます。
(*注3)干鰯問屋は肥料用の干鰯を扱う専門問屋
(*注2)萬問屋は、船で運ばれてくるさまざまな商品をまとめて取り扱う(何でも扱う)卸問屋と思われます。
(*注3)干鰯問屋は肥料用の干鰯を扱う専門問屋
【多度津藩と近世商人】
多度津藩は、文政期に陣屋建設、天保期に多度津湛甫の築造という大事業を成し遂げているが、これらの事業に対しては、町場に住む近世商人らの協力があった。
陣屋建設においては、多度津藩はその資金源として、大坂の鴻池家や京都の萬猷院(ばんゆういん)から金を借り入れていた。 一方で、領内に対しては、地方役・代官を通じて、各村の庄屋や商人らに引っ越しの冥加金を課した。
天保期の築港においては、そもそも高見屋と福山屋が家老の河口久右衛門に願い出ていたものであり、浜問屋衆からの要望という側面があった。この築港にあたっても、多度津藩は膨大な経費をまかなうため、藩役人や庄屋はもとより、商人たちにも工事費を納めるように求め、講銀という形でこれを集めた。
このように、多度津の近世商人たちは、多度津藩が果たした大事業に協力し、多度津の発展に貢献した。
【鉄道の町、陸上交通の整備】
明治21(1888)年、讃岐鉄道株式会社が設立され、翌年多度津を起点として丸亀・琴平に至る路線が開通。 讃岐鉄道の本社兼多度津駅は、かつて多度津藩陣屋があった大通りの地に建てられた。これにより港と鉄道が繋がり、金毘羅参詣客の交通の便は大幅に増した。また、その北側には「器械場」と呼ばれる車両修繕場が設けられた。
讃岐鉄道は山陽鉄道との合併を経て明治39(1906) 年には国有化されることになるが、「器械場」は工場として存続し、昭和17(1942)年には「工機部」と改称された。この頃の従業員は1300名を超え、多度津の町場には「工機部」の従業員が集住し、まさしく鉄道の町と言われる様相であった。
【昭和初期の四国鉄道の発達、多度津港の盛衰】
明治中期から大正初期にかけて、日清、日露の両戦役後の好景気に刺激されて、鉄道事業が全国的な広がりを見せ、各地の多数の私鉄の出願が流行のように増えてきた。 ところが大正中期になると第一次世界大戦後の経済不況で漸次国営鉄道に吸収されていくようになった。一方、各地の鉄道誘致熱も次第に高まり、やがて国営鉄道を中 心とする鉄道網の建設が進められていった。
大正末期から昭和初期にかけての四国鉄道網の整備も、まさにこのような時代背景のもとに進められていった。
昭和2年には、高松・松山間に快速旅客列車の運行開始により、高松・松山間の距離はいちじるしく短縮され、従来の阪神と讃岐、伊予方面の内海沿岸の各港を結んでいた内海航路は多大の影響を受けるようになり、海陸の旅客の奪い合いの競争が起きた。
昭和初期から昭和10年までが、おおむね四国鉄道の黄金期でもあったのだが、この間に予讃線、土讃線、高徳線 の全通、阿波鉄道、愛媛鉄道、宇和島鉄道など私鉄の買収と共に各線区の建設が急速に進んで四国四県相互の連絡もつき、ほぼ現在線の形態を整えた。そしてその頃ようやく発達してきた自動車輸送とあいまって陸上交通網 の整備が瀬戸内海を中心とする沿岸航路、ひいては多度津港の盛衰にも大きな影響を与えていくのである。
しかし、太平洋戦争末期および敗戦後の一時期を除いて、以前からの金毘羅宮や善通寺参詣客、あるいは善通寺の第十一師団関連の貨客の出入り、さらには予讃線と土讃線の鉄道分岐点としての海陸交通の由緒あるローカル港として、なおかなりのにぎわいを見せていた。
趣きのある立派な建物ですね~~ ( ̄。 ̄)ホーーォ
<旧多度津駅>
【旧多度津駅】
大正2年12/20の多度津・観音寺間の鉄道開通にともなって多度津駅の移転が決まり、新多度津駅工事が開始される。 新多度津駅の開設にともない、多度津旧駅は実質的に客車の運航は停止されたまま空き家同然となっていた。 そこで、この二階建ての大きな駅舎の修繕費や保存費も必要になることか ら、いろいろとその転用の案が出された。 大正8年4月、町役場庁舎として買収されて旧町役場 (2021年に新庁舎は移築された) の位置に移築。 明治20年に私鉄讃岐鉄道本社社屋として建てられた建物は、昭和45年に現在の鉄筋コンクリートの近代的庁舎に改築されるまで明治・大正・昭和の三代にわたる多度津町の歴史を刻んだ83年の長い生涯を終えたのである。
旧多度津町役場は、あたいがお仕事をしていた頃、何度かおじゃましたことがあります。なんと、もともとは駅舎所在地だったとは。Σ(・ω・ノ)ノ
日本の鉄道は、明治5年(1872) に新橋一横浜間に開通した路線から始まります。 そして明治21年 (1888) 多度津の豪商「景山甚右衛門」をはじめ16名の有志が集まり讃岐鉄道株式会社を設立しました。 翌年、明治22年5月23日には多度津を起点に丸亀と琴平とを結ぶ 15,5kmの路線を開業させました。
現在の四国旅客鉄道株式会社の鉄道網は、讃岐鉄道の路線が根幹となったため、 多度津は「四国鉄道発祥の地」を謳っています。 この他にも四国新道の開通や琴平参宮電鉄株式会社の鉄道路線の開通など陸上交通網の整備が進み海上交通の発達と合わせて多度津に近代の発展をもたらしました。
ここ多度津の鉄道の歴史を知り納得しました。(´-ω-`)ナルホドナ
小さな町の資料館でしたが、お勉強になりました。(・∀・)
よっしゃあ~~、次にむかいましょ
-続く-

















