2ケ月ほど前の5月中旬ごろのお話。

この日は、クロスカブにまたがって香川県さぬき市~東かがわ市方面にお出かけしてきました。

最初に訪れたのはコチラ。

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香川県さぬき市昭和(県道10号沿い)にある「磯野禅尼の墓(静御前母磯野禅師之墓)」。


磯禅師(いそのぜんじ、生没年不詳)は、平安時代末期の女性。白拍子。静御前の母。礒野禅尼とも。

出身地は大和国磯野(現在の奈良県大和高田市礒野)とも讃岐国小磯(現在の香川県東かがわ市小磯)ともいわれる。

-Wikipediaより-


静御前同様に、お母さまの磯野禅尼の出生地も諸説あるようですね。(^^;

香川説では、源義経の愛妾である静御前と共に讃岐国へ戻ってきて、この地の井戸川のほとりで亡くなったと伝えられる場所だそうです。


この道は昔からしょっちゅう通っていますが、磯野禅尼を祀る墓石をあまり意識したことがありませんでした。

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合掌。


「磯野禅尼の墓」から300mほど南東の住宅地に移動。

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【鼓 渕】
昭和初期頃ここには、清水の湧き出る泉が渕となり「鼓渕」と呼ばれていた。

文治四年三月長尾寺宥意和尚に得度された「静御前」は「源義経」から片身にと贈られ中国伝来の、紫檀の胴、金銀の象眼に三毛狐の皮を張り、音色の優れた名器であった鼓を俗世を断ち切る証しとして、この渕に投げ捨てた。それから四年後の建久三年静は二四才の生涯を終っている。

その鼓とは重源僧上が唐より持ち帰り、天皇に献上、のちに後白河法皇より平清盛に下賜されたもので平家の家宝であった。屋島の合戦の時、波間に漂っている鼓を伊勢の三郎 が見付け義経に差し出したという過去をもつ ていた。

さぬき市文化財保護協会

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愛した源義経から贈られた鼓を捨て去る静御前の気持ちをおもんぱかると・・(ノд・。) グスン


お話は前後逆になりますが・・

静御前について、多くの方はご存じだとは思いますが、あらためて・・


【静御前とは】

静御前(しずかごぜん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した白拍子で、源義経の最愛の女性として広く知られています。白拍子とは、男装姿で歌や舞を披露した当時の女性芸能者で、その美しさと優雅な舞は都でも高く評判でした。

源義経とともに各地を転々とした静御前でしたが、義経が兄・源頼朝との対立によって追われる身となると、吉野山で義経と別れることになります。このとき静御前は、義経の子を身ごもっていたと伝えられています。その後、静御前は鎌倉へ送られ、頼朝と北条政子の前で舞を命じられました。

その舞台となったのが鶴岡八幡宮の社前です。静御前は白拍子の舞を舞いながら、遠く離れた義経を恋い慕う心情を歌に託しました。その歌は頼朝の怒りを買ったとも伝えられていますが、政子は静御前の一途な思いに深く心を打たれたといわれています。この逸話は『吾妻鏡』にも記され、静御前を象徴する最も有名な場面として現在まで語り継がれています。


2026-07-20静御前鶴岡八幡宮舞

やがて静御前は男児を出産します。頼朝は「女子であれば助けるが、男子であれば義経の後継となる恐れがある」として、その子を殺すよう命じました。生まれた子は男児であったため、由比ヶ浜に沈められたと伝えられています。愛する義経と引き離され、わが子まで失った静御前の運命は、あまりにも悲しく、多くの人々の心を打ち続けています。

静御前にまつわる伝承や史跡は全国各地に残されており、義経との逃避行や別れ、そして悲劇的なその後の足跡を今に伝えています。今回のツーリングでは、そんな静御前ゆかりの地を巡りながら、激動の時代を生きた一人の女性の人生に思いを馳せてみました。


-続く-