静御前のゆかりの地を巡る今回のツーリング。
鼓渕から800mほど細道を北に進みます。
せっかくなので、静御前に関係ない地元の史跡にも立ち寄りました。
たしかこの辺だけど・・
目的地は「川東の石仏」。(さぬき市昭和-旧長尾町)
それっぽいお堂が道路から見えましたが、アクセスできる道がみつかんない・・('A`|||)
しばらく、このあたりをうろちょろ・・
もしかすると、ここから行けるかも・・
軽四トラックが道をふさいでいるので、徒歩でテクテク

あった! 見つけました!!
さらにテクテク
この石像も室町時代の製作と伝えられている。
向って右が五三、五センチ、左が五六センチ、肉髻、螺髪、白毫、三道と詳細に刻んでいるが惜いことに、露天にさらされていたらしく風雨の摩耗がひどく細部を伺えないのは 残念である。
阿弥陀如来は手で様々なポーズ(印相)を組みますが、この2体はお腹の前で手を組む「阿弥陀定印(じょういん)」をされているのがうっすらと読み取れます。これは、人々を極楽浄土へ導くために深い瞑想(沈思黙考)に入っているお姿です。
このお堂の横には・・
一瞬、不動明王!?と思いましたが、調べていくと違っていました。
後述しますが、この主となるお堂の名前は「川東庚申堂」でした。
この石像は庚申信仰(こうしんしんこう)の主神である「青面金剛(しょうめんこんごう)」像のようです。
・踏みつけている足元: 石像の最下部(足元)を見ると、何かを力強く踏みつけている、あるいはしゃがみ込んでいる独特なポーズをしています。青面金剛は人間の体内にいる悪鬼(天邪鬼)を踏みつける姿で描かれます。
・衣の質感とポーズ: お腹の前で手を組んでいる、あるいは武器(三叉戟や剣など)を抱えるように持っているシルエットが風化の中に残っています。
・舟形(ふながた)の光背:外枠がボートの底(あるいは、上下をひっくり返したしずく型)のような形をしており、これは仏様が背後から放つ「聖なる光」を表現しています。江戸時代中期以降、各地の「庚申講(集落の集まり)」が作った路傍の石仏に非常に多く採用された代表的なスタイルで、その伝統的なデザインは明治時代に建てられた石像にもそのまま受け継がれています。
「庚申(こうしん)信仰」とは・・
60日ごとに巡ってくる「庚申(かのえさる)の日」の夜に、人間の体内にいる虫が天帝にその人の悪事を告げ口しに行くのを防ぐため、寝ずに夜明かしをして過ごすという民間信仰です。「病魔除け」「健康長寿」の信仰として非常に強い力を持ちます。
明治時代になると、新政府の近代化政策によって「庚申信仰は迷信である」として、日本全国で庚申塔が撤去されたり、講(集まり)が禁止されたりしました。
上の青面金剛は明治十八年四月の刻字が読み取れます。
ここ川東地区の人々は、政府の目をかいくぐるか、あるいは「そんなことに関係なく、自分たちの健康と田畑は自分たちの神様で守るんだ」という強い意志を持って、あえて明治時代になってからこの新しい庚申様(青面金剛)を職人に作らせて奉納したように思われます。
阿弥陀如来坐像を祀るお堂の奥には小さな祠と五角石柱がありました。
この直後にわかったのですが、私が歩いた順路はこの信仰施設の裏側から回っていました。というのも、正面側に直接アクセスできる道がなかったためです。
説明しやすいように、まず正面側にまわります。
標柱(しめばしら)に書かれた宣揚文(せんようぶん)。
向かって右側は「神皇施徳恵(しんこうしとくけい / じんこうしとくけい)」。向かって左側は、「人民蒙恩頼(じんみんもうおんらい)」。
【神皇施徳恵(しんこうしとくけい / じんこうしとくけい)】とは
日本の神社や神事などで使われる神の広大な恵みや徳を称えるための対句(対になる言葉)の一部。この言葉は通常、「神皇施徳恵(神皇、徳恵を施し)」と「人氏蒙思頼(人氏、思頼を蒙る)」という2つの対句としてセットで用いられる。
「神皇施徳恵」は単体で「神々(あるいは天皇)が、人々へあまねく慈悲と徳のある恵みを施してくださる」という意味を表している。
【人民蒙恩頼(じんみんもうおんらい)】とは
鳥居の奥には平成19年に改築工事が施された「庚申堂」があります。
お堂(庚申堂)の正面と奥が完全に吹き抜けになっており、鳥居からお堂の空間をのぞくと、奥にある「火炎宝珠の石祠(せきし)」が額縁の絵のようにぴったりと中央に収まるように計算されて建てられています。
庚申堂が拝殿、石祠が本殿のような位置関係になります。
石祠の笠の横の図柄。 火炎宝珠(かえんほうじゅ)。
【火炎宝珠(かえんほうじゅ)】
中央にある”しずく型(または栗のような形)”をして、横に筋が入ったシンボルは「宝珠(ほうじゅ / 如意宝珠)」です。あらゆる願いを叶える宝=宝珠は、仏教において「思いのままに願いを叶え、災いを除き、清らかな水を出す」とされる究極の宝物です。お地蔵様や如意輪観音様が手のひらに乗せているのもこれです。
外側のしずく型の彫り込み: 宝珠のまわりをさらに一回り大きな「しずく型」で囲っていますが、これは宝珠から立ち上る「激しい炎(火炎)」を簡略化して表現しています。
この石祠の正面側。
少し開いた石の扉(観音開き)の奥に、おそらく主尊のお姿があるのでしょうが、暗くてよくわかりませんでした。
笠には、〇で囲まれた中に3つの円模様(団子のような配置)」が11時方向、2時方向、7時方向に配置された図柄が確認できます。
裏側から見ると、この石祠の横には、五面角の石柱がたっています。
この五角柱石塔には「嘉永?年?八月吉日」、「講中」とあります。
嘉永は江戸時代後期の日本の鎖国体制が終焉を迎えた激動の時代です。
「講中」とは、この地域の地神信仰を共にするグループ(地神講)が全員でお金を出し合って建てたことを意味しています。
そして、この時代はまだ神仏分離政策前のものです。
五面角石柱横の石祠について、笠の火炎宝珠や〇に三つの円マークからだけでは、主神が何かはわかりませんでしたが、この五面角石柱の稲倉魂命(うかのみたまのみこと)の存在から、稲荷神/宇賀神なのでしょうか?
ただ五面角石柱の鳥居面側は、天照皇大神であり、稲倉魂命は、鳥居に背を向ける方向でした。
このことからは稲荷神なのかは少々疑問が残ります、
もうひとつ頭に浮かんだのは、「猿田彦命(さるたひこのみこと)」です。
先ほども書きましたが、明治時代になり、庚申信仰(仏教・道教系)は弾圧されました。しかし代わりに神道の神様である「猿田彦命(さるたひこのみこと)」として祀ることは許されていました。
ただ五面角石柱に猿田彦の名がないのも腑に落ちません。
この本殿的位置づけの石祠に祀られているのは、稲荷神、猿田彦命、庚申神、はたまた別尊なのか?
石祠の半開きの観音開きを開けることもできないので、この疑問はこのままにしておくことにします。
庚申信仰をもう少し掘り下げると・・
鼓渕から800mほど細道を北に進みます。
せっかくなので、静御前に関係ない地元の史跡にも立ち寄りました。
たしかこの辺だけど・・
目的地は「川東の石仏」。(さぬき市昭和-旧長尾町)
それっぽいお堂が道路から見えましたが、アクセスできる道がみつかんない・・('A`|||)
しばらく、このあたりをうろちょろ・・
もしかすると、ここから行けるかも・・
軽四トラックが道をふさいでいるので、徒歩でテクテク
あった! 見つけました!!
さらにテクテク
【川東の石仏】
この石仏は大正末期頃、川岸の竹林の中にあったものを、ここに移したといい伝えられている。凝灰岩製の阿弥陀如来坐像である。
阿見弥陀信仰は七世紀に始まり、平安期に空也や源信らにより浄土教をひろめ 法然や親鸞が、浄土宗や浄土真宗を開いてから阿弥陀信仰が盛んになり、鎌倉から室町時代にかけ、石像が多く作られている。
この石像も室町時代の製作と伝えられている。
向って右が五三、五センチ、左が五六センチ、肉髻、螺髪、白毫、三道と詳細に刻んでいるが惜いことに、露天にさらされていたらしく風雨の摩耗がひどく細部を伺えないのは 残念である。
長尾町文化財保護協会
ブロック塀で作られた小さなお堂の中に、寄り添うように2体の阿弥陀如来坐像が並んで鎮座されていました。
向かって左の阿弥陀様(56cm)。 確かに右側よりも一回りどっしりとしており、高さもあります。風化は進んでいますが、肩から胸にかけての肉付きがふっくらと表現されているのが分かります。
向かって右の阿弥陀様(53cm): 左の阿弥陀様に比べて少しスマートで、頭の形(肉髻のふくらみ)が比較的綺麗に残っています。
向かって左の阿弥陀様(56cm)。 確かに右側よりも一回りどっしりとしており、高さもあります。風化は進んでいますが、肩から胸にかけての肉付きがふっくらと表現されているのが分かります。
向かって右の阿弥陀様(53cm): 左の阿弥陀様に比べて少しスマートで、頭の形(肉髻のふくらみ)が比較的綺麗に残っています。
阿弥陀如来は手で様々なポーズ(印相)を組みますが、この2体はお腹の前で手を組む「阿弥陀定印(じょういん)」をされているのがうっすらと読み取れます。これは、人々を極楽浄土へ導くために深い瞑想(沈思黙考)に入っているお姿です。
このお堂の横には・・
一瞬、不動明王!?と思いましたが、調べていくと違っていました。
後述しますが、この主となるお堂の名前は「川東庚申堂」でした。
この石像は庚申信仰(こうしんしんこう)の主神である「青面金剛(しょうめんこんごう)」像のようです。
・踏みつけている足元: 石像の最下部(足元)を見ると、何かを力強く踏みつけている、あるいはしゃがみ込んでいる独特なポーズをしています。青面金剛は人間の体内にいる悪鬼(天邪鬼)を踏みつける姿で描かれます。
・衣の質感とポーズ: お腹の前で手を組んでいる、あるいは武器(三叉戟や剣など)を抱えるように持っているシルエットが風化の中に残っています。
・舟形(ふながた)の光背:外枠がボートの底(あるいは、上下をひっくり返したしずく型)のような形をしており、これは仏様が背後から放つ「聖なる光」を表現しています。江戸時代中期以降、各地の「庚申講(集落の集まり)」が作った路傍の石仏に非常に多く採用された代表的なスタイルで、その伝統的なデザインは明治時代に建てられた石像にもそのまま受け継がれています。
「庚申(こうしん)信仰」とは・・
60日ごとに巡ってくる「庚申(かのえさる)の日」の夜に、人間の体内にいる虫が天帝にその人の悪事を告げ口しに行くのを防ぐため、寝ずに夜明かしをして過ごすという民間信仰です。「病魔除け」「健康長寿」の信仰として非常に強い力を持ちます。
明治時代になると、新政府の近代化政策によって「庚申信仰は迷信である」として、日本全国で庚申塔が撤去されたり、講(集まり)が禁止されたりしました。
上の青面金剛は明治十八年四月の刻字が読み取れます。
ここ川東地区の人々は、政府の目をかいくぐるか、あるいは「そんなことに関係なく、自分たちの健康と田畑は自分たちの神様で守るんだ」という強い意志を持って、あえて明治時代になってからこの新しい庚申様(青面金剛)を職人に作らせて奉納したように思われます。
阿弥陀如来坐像を祀るお堂の奥には小さな祠と五角石柱がありました。
この直後にわかったのですが、私が歩いた順路はこの信仰施設の裏側から回っていました。というのも、正面側に直接アクセスできる道がなかったためです。
説明しやすいように、まず正面側にまわります。
標柱(しめばしら)に書かれた宣揚文(せんようぶん)。
向かって右側は「神皇施徳恵(しんこうしとくけい / じんこうしとくけい)」。向かって左側は、「人民蒙恩頼(じんみんもうおんらい)」。
【神皇施徳恵(しんこうしとくけい / じんこうしとくけい)】とは
日本の神社や神事などで使われる神の広大な恵みや徳を称えるための対句(対になる言葉)の一部。この言葉は通常、「神皇施徳恵(神皇、徳恵を施し)」と「人氏蒙思頼(人氏、思頼を蒙る)」という2つの対句としてセットで用いられる。
「神皇施徳恵」は単体で「神々(あるいは天皇)が、人々へあまねく慈悲と徳のある恵みを施してくださる」という意味を表している。
【人民蒙恩頼(じんみんもうおんらい)】とは
「人々が(君主や神、政府などの)恵みや庇護をこうむり、頼りにしている」という意味の漢語・古文表現。 歴史的な公文書や漢籍、日本の古記録などで、為政者や神仏の恩恵によって人々が平穏に暮らしている状態を表す際に見られる。
石柱の裏側には「大正9年2月建立」、「川東崇敬者中」と刻まれていました。
石柱の裏側には「大正9年2月建立」、「川東崇敬者中」と刻まれていました。
「崇敬者中」が日本の神社仏閣にある石碑、鳥居、灯籠などにこの文字が刻まれている場合、以下のような意味を持ちます。
「崇敬者(すうけいしゃ)」:その神社の氏子区域(地元)に住んでいるかどうかにかかわらず、個人の信仰によってその神社を熱心に敬い、支えている人たちのことです。
「中(じゅう・ちゅう)」:仲間、集団、全員という意味を持つ接尾語です。全体の意味:「この神社を信仰する有志の一同(ファンや支援者の集まり)によって、この石碑や建造物が奉納されました」 という寄進の証を表しています。
「崇敬者(すうけいしゃ)」:その神社の氏子区域(地元)に住んでいるかどうかにかかわらず、個人の信仰によってその神社を熱心に敬い、支えている人たちのことです。
「中(じゅう・ちゅう)」:仲間、集団、全員という意味を持つ接尾語です。全体の意味:「この神社を信仰する有志の一同(ファンや支援者の集まり)によって、この石碑や建造物が奉納されました」 という寄進の証を表しています。
鳥居の奥には平成19年に改築工事が施された「庚申堂」があります。
お堂(庚申堂)の正面と奥が完全に吹き抜けになっており、鳥居からお堂の空間をのぞくと、奥にある「火炎宝珠の石祠(せきし)」が額縁の絵のようにぴったりと中央に収まるように計算されて建てられています。
庚申堂が拝殿、石祠が本殿のような位置関係になります。
石祠の笠の横の図柄。 火炎宝珠(かえんほうじゅ)。
【火炎宝珠(かえんほうじゅ)】
中央にある”しずく型(または栗のような形)”をして、横に筋が入ったシンボルは「宝珠(ほうじゅ / 如意宝珠)」です。あらゆる願いを叶える宝=宝珠は、仏教において「思いのままに願いを叶え、災いを除き、清らかな水を出す」とされる究極の宝物です。お地蔵様や如意輪観音様が手のひらに乗せているのもこれです。
外側のしずく型の彫り込み: 宝珠のまわりをさらに一回り大きな「しずく型」で囲っていますが、これは宝珠から立ち上る「激しい炎(火炎)」を簡略化して表現しています。
この石祠の正面側。
少し開いた石の扉(観音開き)の奥に、おそらく主尊のお姿があるのでしょうが、暗くてよくわかりませんでした。
笠には、〇で囲まれた中に3つの円模様(団子のような配置)」が11時方向、2時方向、7時方向に配置された図柄が確認できます。
裏側から見ると、この石祠の横には、五面角の石柱がたっています。
【稲倉魂命(うかのみたまのみこと)】
日本神話に登場する穀物や食物を司る神様です。名義は「稲に宿る神秘な霊」とされ、全国の稲荷神社の主祭神「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」の別表記として広く親しまれています。
【埴安姫命(はにやすひめのみこと)】
日本神話に登場する土の神です。イザナミが火の神カグツチを産んで亡くなる直前に、その大便から生まれたとされる女神です。
日本神話に登場する穀物や食物を司る神様です。名義は「稲に宿る神秘な霊」とされ、全国の稲荷神社の主祭神「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」の別表記として広く親しまれています。
【埴安姫命(はにやすひめのみこと)】
日本神話に登場する土の神です。イザナミが火の神カグツチを産んで亡くなる直前に、その大便から生まれたとされる女神です。
日本神話で大国主命の国造りに協力した小人の神様です。神産巣日神(かみむすひのかみ)の指の間からこぼれ落ちた小さな体ながら、豊かな知恵と知識を備え、医薬・酒造・温泉などの技術を人々に伝えた「国造りのパートナー」として知られています。
日本神話の最高神である「天照大御神」の尊称の一つです。太陽を神格化した存在であり、皇室の祖神、そして日本国民の総氏神として全国で広く信仰されています。あらゆる願いを聞き届ける「所願成就」の神として崇敬を集めています。
日本神話に登場する国津神の代表格で、一般的に「大国主命(おおくにぬしのみこと)」として広く知られる神様です。国土を創成した国造りの神であり、医療や農業の神、さらには「だいこく様」として親しまれる福の神でもあります。
この五角柱石塔には「嘉永?年?八月吉日」、「講中」とあります。
嘉永は江戸時代後期の日本の鎖国体制が終焉を迎えた激動の時代です。
「講中」とは、この地域の地神信仰を共にするグループ(地神講)が全員でお金を出し合って建てたことを意味しています。
そして、この時代はまだ神仏分離政策前のものです。
五面角石柱横の石祠について、笠の火炎宝珠や〇に三つの円マークからだけでは、主神が何かはわかりませんでしたが、この五面角石柱の稲倉魂命(うかのみたまのみこと)の存在から、稲荷神/宇賀神なのでしょうか?
ただ五面角石柱の鳥居面側は、天照皇大神であり、稲倉魂命は、鳥居に背を向ける方向でした。
このことからは稲荷神なのかは少々疑問が残ります、
もうひとつ頭に浮かんだのは、「猿田彦命(さるたひこのみこと)」です。
先ほども書きましたが、明治時代になり、庚申信仰(仏教・道教系)は弾圧されました。しかし代わりに神道の神様である「猿田彦命(さるたひこのみこと)」として祀ることは許されていました。
ただ五面角石柱に猿田彦の名がないのも腑に落ちません。
この本殿的位置づけの石祠に祀られているのは、稲荷神、猿田彦命、庚申神、はたまた別尊なのか?
石祠の半開きの観音開きを開けることもできないので、この疑問はこのままにしておくことにします。
庚申信仰をもう少し掘り下げると・・
庚申信仰では、人間の体内にいる「三尸(さんし)」という虫が、60日ごと(つまり年6回)に巡ってくる。 その虫は「庚申(かのえさる)」の夜に抜け出し、その人の罪悪を天帝に告げ口して寿命を縮めると考えられていました。
そのため、この日の夜は寝ずに起きていて、神仏を祀り、宴会を開いて身を慎む「庚申待(こうしんまち)」という風習が古くから広く行われてきました。
日本全国には、庚申神を祀る石塔である「庚申塚」や「庚申塔」が多く建てられており、道祖神や村の守り神として信仰されています。
この川東庚申堂も、その一つです。
そして、この川東庚申堂は、施設のそれぞれの鳥居、お堂、石祠、石柱、石仏等の考証をすることによって、「庚申講が近代になっても地域共同体として存続し、農耕信仰・神道信仰と融合した」ということは言えるのではないかと考えます。
ある程度 この庚申堂の全体像は見えてきたものの、庚申信仰の主尊でもある青面金剛が、なぜ鳥居から一番奥の場所の野ざらしの状態で置かれているのか?
なにか理由があるはずなのですが、わかりませんでした。
もしご存じの方がいらっしゃれば、お教えください。
よろしくお願いします。
そのため、この日の夜は寝ずに起きていて、神仏を祀り、宴会を開いて身を慎む「庚申待(こうしんまち)」という風習が古くから広く行われてきました。
日本全国には、庚申神を祀る石塔である「庚申塚」や「庚申塔」が多く建てられており、道祖神や村の守り神として信仰されています。
この川東庚申堂も、その一つです。
そして、この川東庚申堂は、施設のそれぞれの鳥居、お堂、石祠、石柱、石仏等の考証をすることによって、「庚申講が近代になっても地域共同体として存続し、農耕信仰・神道信仰と融合した」ということは言えるのではないかと考えます。
ある程度 この庚申堂の全体像は見えてきたものの、庚申信仰の主尊でもある青面金剛が、なぜ鳥居から一番奥の場所の野ざらしの状態で置かれているのか?
なにか理由があるはずなのですが、わかりませんでした。
もしご存じの方がいらっしゃれば、お教えください。
よろしくお願いします。
























