静御前のお墓を祀る願勝寺をあとにして、南東に約2km。

とうちゃこ


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ここにアクセスできる道をなかなか見つけることができず、道?とは呼べないようなところを走り、なんとかここまでたどり着きました。


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【静薬師】
鍛治池のほとりにある薬師堂は静御前が源義経の菩提を弔った庵であると言い伝えられている。 境内には静御前の墓と呼ばれる石塔がある。

薬師堂の境内及び鍛治池の丘陵地や南側の山地には古墳が散在し、古代の歴史を物語る遺物が出土している。

鍛治池の北堤から北方を眺めると、白山付近の景観はすばらしい。


昭和五十八年三月 香川県


静薬師:香川県木田郡三木町井戸


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ここにも 静御前の墓・・・

石墓に刻まれた最後の字は「墓」の草書体。

2026-07-29墓の草書体01


前回記事の願勝寺にも静御前のお墓があったんだけど・・・(^^;


また前回記事にも書いたとおり・・

静御前はその最期が明らかでないため、全国各地に「静御前の墓」と伝えられる場所が残っています。

代表的なものとして、埼玉県久喜市(栗橋)、兵庫県淡路市(静の里公園)、新潟県長岡市栃堀などが知られています。

願勝寺(香川県三木町)の墓所もその一つであり、・・・


(・_・。))イッタイ ゼンコクニイクツアルノ??  コマッタモンダ・・


庵の南側にまわると・・

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庵の北側は・・

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【伝承 その後の静御前】

源義経の愛妾、静御前は文治二年四月八日鶴岡八幡宮で 「しづやしづ・・」の舞を舞った後、七月末に義経の男児を産むがその日のうちにわが子を殺され、傷心のうちに母とともに京都へ・・・そしてさらに、母、磯禅師の故郷、讃岐の丹生(にぶ) 小磯へと帰ってきた。

讃岐での静とその母は寺社巡りなどをしていたが、文治四年の春、長尾寺で宥意(ゆうい)和尚から世の無常を諭され、ここで髪を下ろして、母は磯禅尼(いそのぜんに)、静は宥心尼(ゆうしんに)と名乗り、母の縁者がいたこの地にささやかな草庵を結ぶ。やがて静の侍女であった琴路も訪ねてきて、念仏三昧、ひたすら義経とわが子や家来たちの冥福を祈る日々を送った。

しかし、翌年の暮れ、母の磯禅尼が井戸川のほとりで倒れて亡くなり、それから一年余り後に静も病でこの世を去った。 建久三年三月十四日、そのとき彼女は二十四歳だった。

それから七日目の夜、琴路も女主人の後を追うように鍛冶池に入水して相果てたという。

(なお、義経が屋島合戦の折、あのような寡兵で電撃作戦に成功したのも 静御前の地縁血
縁による支援があったためだと考えられる)

横井 寛 東京都在住(丸亀市出身)


中代・静薬師保存会
平成十八年四月


左端から

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侍女琴路の墓

その右側には、地蔵尊。

地蔵尊の脇には「静御前の子」と記された石標が建てられており、この地蔵尊は静御前の子を供養するものと思われます。


静御前の子については、こちらの記事を参照ください。
↓↓↓



その右側には、静御前の供養塔。

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さらにその右側は、不動明王、大黒天。

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大黒天の南側には、石塔に大山住神社と書かれた祠。
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大山住神社。

大山積(祇)神を祭る神社としては、「大山積神社」や「大山祇神社」の名が全国的によく知られています。一方、静薬師の石祠には「大山住神社」と記されており、「住」の字を用いた社名の例もあります。


薬師庵の東側に広がる鍛冶池。

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この日は2ケ月以上前の5月14日。(^^;

菜の花が土手を埋め尽くしていました。


静御前、侍女の琴路も、庵からこの菜の花を見ていたのでしょうか・・。