前回記事の続きです。
静薬師をあとにして、1kmほど東にある稲荷山古墳に行ってみました。
細い農道を通り、とうちゃこ
ここは「塚原稲荷神社」。(香川県さぬき市長尾西2564番地)
静薬師をあとにして、1kmほど東にある稲荷山古墳に行ってみました。
細い農道を通り、とうちゃこ
ここは「塚原稲荷神社」。(香川県さぬき市長尾西2564番地)
神社参道階段の下に、立て看板。
*説明書き原文に一部訂正、加筆しています。
この神社のある山頂に「稲荷山古墳」があるようです。
社の前の標柱(しめばしら)。
左側は「萬家和楽」と刻まれていました。(宣揚文(せんようぶん))
多くの家や人々が仲良く、楽しく平和に暮らすことを祈願しています。
右側の標柱には「百穀豊穣」。 上から二文字目は「穀」の隷書体。
たくさんの農作物が豊かに実ることを祈願しています。
「大正三年十月吉辰建立」の文字がありました。
”吉辰(きったつ)”とは、縁起のいい日、吉日等の意味で、大正三年十月吉日に建立されたものです。
お社の横の階段を上っていきます。
↓が北側端。 後円部側です。
大きな石が、何か意図的に置かれていました。
説明書きに書いておいてほしかったなあ・・(^^;
北側の葺石と思われる石積み。↓↓↓
古墳時代前期(四世紀前半)に造られた前方後円墳にしては、今でもきれいに原形をとどめた貴重な古墳だと思いました。
稲荷山古墳から数百メートル北西に「川上古墳」があるので、こちらにも行ってきました。
ここもアクセスできる道がなかなか見つからず、ココは道?と思うルートを通り、「川上古墳」の文字を見つけました。(^^;
ここからは徒歩で。
現地説明書きの先には・・
墓地・・。
古墳の今は、墓地でした・・。Σ(・ω・ノ)ノ
静御前ゆかりの地を巡る今回の歴史旅。
静御前のはかない一生を偲びながら、近くの史跡にも足を延ばしてみました。
帰路、あまりにものどが渇き・・
普段は口にしないようにしている生水をゴクゴク。
生き返りました。.。゚+.(・∀・)゚+.゚
お家に帰ってから、↓↓↓で、お土産に買ってきた・・
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【あばれ御輿 「あばれ神輿の巡行」 】 さぬき市指定文化財
この長尾町塚原地区は、四百年前の慶長二年(一五九七) 九月の 「寒川郡長尾庄塚原村御検地御帳」が残る古くからの村落で、塚原稲荷神社も、もと備前の海岸から瀬戸内海を渡ってきた神様であるという伝承があり、神仏集合の時代から、村の守り神として崇め尊 んできたお社です。
塚原のお祭りをはじめとする地域の行事は、昔の「村寄会」の今日的な姿である自治会の会合で決定され、子供・若者・壮年・・・ と、その年齢層ごとに担当するものです。
二十世紀の中ごろまでは、百戸に足りない集落で、旱魃の年の雨乞龍(志度の海まで運んだ)、子供組の月見小屋(神事場のある山での仮小屋)、「ちょう」と呼ぶ本格的な農村歌舞伎の舞台) (稲荷神社の広場にあった)での芝居など、かずかずの伝統行事を営んできたのです。この「あばれ輿」もその一環として継承しているものです。「あばれ御輿」は若者組の担当で、お祭りには、のぼり建て・道つくりのほか、納獅子舞・子供の奴の世話、頭屋の若者は神輿舁き(かつぎ)などを分担します。
「あばれ」の舁(か)つぐ御輿は、木と竹で作られた骨格に、稲藁・里芋のずいき・鶏頭や千日紅などの草花などで飾り立てます。
扮装は、昔の野良着に似せて、肥料の袋やボロ布を使い、顔は農村歌舞伎の役者につくることになっています。(戦時中は鍋墨を塗つた)「あばれ」は全員わらじ履きで、腰に稲穂や思い思いの物をさげ、手に榊や祭具に見立てた棒ぎれを持ち、太夫は、昔の太夫の歩き方を演じるために、下駄と薬草履を片方ずつ履き、祝詞は、その年の世相を風刺した内容に作ることになっています。太夫のお供は破れ傘をさしかけ、全員で祭り酒をいただいで、本神輿に随伴するのです。
塚原地区は、江戸時代は早魃と河川災害の常習地帯でした。 公租負担をめぐる藩役人と村役の交渉を見守る若連中の思いが「もったいない。もったいない」の唱え言として祭りに発散したことに始まり、先人顕彰する唱えのように思われてならないのです。
このように「あばれ御輿」の伝承は、長い長い歴史を映して変遷していますが、自然と先人に感謝して、常に「今」を問いなおす、地域活力の再生を願う伝統の祭りなのです。
平成十一年三月 さぬき市教育委員会
*説明書き原文に一部訂正、加筆しています。
この神社のある山頂に「稲荷山古墳」があるようです。
社の前の標柱(しめばしら)。
左側は「萬家和楽」と刻まれていました。(宣揚文(せんようぶん))
多くの家や人々が仲良く、楽しく平和に暮らすことを祈願しています。
右側の標柱には「百穀豊穣」。 上から二文字目は「穀」の隷書体。
たくさんの農作物が豊かに実ることを祈願しています。
「大正三年十月吉辰建立」の文字がありました。
”吉辰(きったつ)”とは、縁起のいい日、吉日等の意味で、大正三年十月吉日に建立されたものです。
お社の横の階段を上っていきます。
【稲荷山古墳】 さぬき市指定史跡
この古墳は、古墳時代前期(四世紀前半)に造られた前方後円墳です。全長は約四0mで、後円部の直径は約二0mの大きさです。墳丘は、自然の地形を利用して後円部を北、前方部を南に向 けて造られており葺石(*1)の一部が見られます。
古くから古墳があることは知られていましたが、昭和二六年 (一九五一)に長尾町史編纂のため発掘調査が行われました。その成果として埋葬施設の第一竪穴式石槨の西側短軸はU字状、東側短軸はV字状に合わさる特徴的な形態をしていることが分かりました。また石槨(*2)は上方ほど狭くなり、天井石は両端を除く一四枚が残存していたことが分かりました。その後、昭和五九年 (一九八四)に第二竪穴式石槨が新たに発見されました。
このことから、稲荷山古墳には後円部頂に埋葬施設が東西方向に二基並列していることが分かり古墳の重要性が、さらに高まりました。
さぬき市教育委員会
さぬき市文化財保護協会
*1
葺石(ふきいし)とは、古墳の斜面などを覆うために、河原の石などをすきまなく並べたり積んだりした石のことです。主な役割は、土の流亡防止、古墳の美化・荘厳化です。
*2
石槨(せっかく)とは、石で造られた、遺体や棺を納めるための外箱や部屋のことです。日本の古墳時代などにみられる、石を積み上げたり組み合わせたりした埋葬施設を指します。
南側には祠、石塔がたっていました。比較的新しいものと思われます、
南側から北の尾根に沿って前方後円墳が形成されていました。
南側には祠、石塔がたっていました。比較的新しいものと思われます、
南側から北の尾根に沿って前方後円墳が形成されていました。
↓が北側端。 後円部側です。
大きな石が、何か意図的に置かれていました。
竪穴式石槨の構成石である可能性が考えられます。また、発掘調査で確認された竪穴式石槨の位置、あるいはその構成石を地表で示すために配置されたものかもしれません。
説明書きに書いておいてほしかったなあ・・(^^;
北側の葺石と思われる石積み。↓↓↓
古墳時代前期(四世紀前半)に造られた前方後円墳にしては、今でもきれいに原形をとどめた貴重な古墳だと思いました。
稲荷山古墳から数百メートル北西に「川上古墳」があるので、こちらにも行ってきました。
ここもアクセスできる道がなかなか見つからず、ココは道?と思うルートを通り、「川上古墳」の文字を見つけました。(^^;
ここからは徒歩で。
【川上古墳】 (さぬき市昭和2562-5)
五世紀後期に築造された、直径二0~二二mの円墳で、丘の北端を利用して造られてます。
昭和五七年香川県教委と長尾町教委によって発掘調査されました。巾一・二m、長さ四mの竪穴石室は側壁に人頭大の川原石を用???石は発見されませんでした。
出土品
高台付有蓋壺、(2基)
高台付器台、筒型土器、(いづれも45cm)
広口壷、坏、(8組)𤭯(ハソウ)、(2ヶ)短甲、衝角付冑
鉄鏃、肩鎧、大刀、鉄剣、鉄槍、鉄鉾、刀子、
鉇、轡、帯金具、革草摺、鉄鑿。
出土遺物から考えて、長尾町から三木町にかけての支配者で、強い武力をもっていた人物であることが想像されます。
(出土品は長尾支所に展示してあります。)
さぬき市教育委員
さぬき市化財保護協会
さぬき市観光協会
現地説明書きの先には・・
墓地・・。
古墳の今は、墓地でした・・。Σ(・ω・ノ)ノ
静御前ゆかりの地を巡る今回の歴史旅。
静御前のはかない一生を偲びながら、近くの史跡にも足を延ばしてみました。
帰路、あまりにものどが渇き・・
普段は口にしないようにしている生水をゴクゴク。
生き返りました。.。゚+.(・∀・)゚+.゚
お家に帰ってから、↓↓↓で、お土産に買ってきた・・
抹茶生クリーム大福を奥様と一緒にいただきました。
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