Michiruブログ

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京都津々浦々

京都☆  平等院

昨日、京都 平安神宮の写真をupしました。


(前回記事)
  ↓



平安神宮を訪れた翌日は、宇治まで足をのばし平等院に行ってきました。


なぜか平等院に花魁 ??????



清水さんとかで、素人さんの舞妓姿を見かけます。

昔はそんなのなかったけど、商売でやってるんでしょうね。



でも、さすがに花魁ってどうなんでしょう… 

花魁姿体験を商売にしてるほうもしてるほうだし、するほうもするほうだし・・・。



しっとりとした平等院で、花魁姿で闊歩は、文化としてNGだと思うんだけどなあ~ 





平等院で撮った写真です。

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= 平等院(びょうどういん) =

平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。


歴史

平等院の創建
京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。

現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。

道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。

開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。


鳳凰堂建立の思想的・信仰的背景
『観無量寿経』の一節に「若欲至心生西方者、先当観於一丈六像在池水上」(若し至心に西方に生まれんと欲する者は、先ず当(まさ)に一の丈六の像池水の上に在(いま)すを観るべし)とある。

鳳凰堂とその周囲の浄土式庭園は、『観無量寿経』の所説に基づき、西方極楽浄土とその教主である阿弥陀如来を観想(特定の対象に心を集中させること)するために造られたとするのが定説である。

飛鳥・奈良・平安前期に広まった仏教は、現世での救済を求めるものであった。平等院が創建された平安時代後期になると、日本では「末法思想」が広く信じられていた。

末法思想とは、釈尊の入滅から2000年目以降は仏法が廃れるという思想である。しかし、天災人災が続いたため人々の不安は一層深まり、終末論的な思想として捉えられるようになり、この不安から逃れるための厭世的な思想として捉えられるようになる。

仏教も現世での救済から来世での救済に変わっていった。平等院が創建された永承7年(1052年)は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営した。


鳳凰堂とその堂内の阿弥陀仏、壁扉画や供養菩薩像、周囲の庭園などは『観無量寿経』の所説に基づき、西方極楽浄土を観想するため、現世の極楽浄土として造られたことは間違いない。

しかしながら、そうした浄土教、末法思想という観点のみから平等院や鳳凰堂をみることは一面的な理解であるということが、複数の研究者により指摘されている。

平等院の境内が現在のような景観になったのは、南北朝時代の争乱以降、鳳凰堂(阿弥陀堂)のみが焼け残ったことによるものである。

鳳凰堂が主要な堂宇であることは間違いないが、平安時代の平等院では、本堂には密教の主尊である大日如来が安置され、他にも不動堂、五大堂、愛染堂、多宝塔など、密教系の仏像を安置する堂塔が建ち並んでいた。

鳳凰堂の阿弥陀像の印相は定印(膝上で両手を組む)であるが、これは密教の両界曼荼羅の阿弥陀如来の結ぶ印である。

阿弥陀像の普段見えない像内はベンガラで朱色に塗られている。これは、両界曼荼羅の金剛界五仏に五色を配当する際、西方阿弥陀を紅玻璃色(ぐはりじき、赤色)とすることに対応する。

阿弥陀像の像内には阿弥陀の大呪・小呪を書いた月輪(がちりん、円板)が納入されていたが、これはこの阿弥陀像が密教の修法である阿弥陀法の本尊像でもあることを意味している。

以上のことを踏まえ、建築史家の冨島義幸は、鳳凰堂の阿弥陀像には密教の阿弥陀如来としての一面があり、鳳凰堂全体が阿弥陀曼荼羅を表しているとする。

平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいた。

道長は寛仁4年(1020年)、無量寿院(のちの法成寺)を建立、また11世紀後半から12世紀にかけては白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のいわゆる「六勝寺」が今の京都市左京区岡崎あたりに相次いで建立された。

しかし、これらの大伽藍は現存せず、平安時代の貴族が建立した寺院が建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するという点で、平等院は唯一の史跡である。

ただ、平等院も建武3年(1336年)の楠木正成と足利氏の軍勢の戦いの兵火をはじめ、度重なる災害により堂塔は廃絶し、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続している。


<引用:ウイキペディア>





(撮影日:2012.5.1)






京都☆ 平安神宮

今日の那覇は、最低10℃最高16℃と先週末から寒い日が続いていますが、週末は24~5℃まであがるそうです。   ほっ 


さて、数年間ブログをお休みしていたので、その間の写真を・・。

相変わらず季節感のないブログでごめんなさい・・・


京都 平安神宮を訪れた時の写真です。



私は、昭和54~57年まで京都に住んでいました。

この頃平安神宮を訪れた時、朱がきれいだなあ、という覚えがありましたが、それもそのはず。  昭和51年に放火があって建て直されたばかりだったんですね。

今初めて知りました・・・・ 



4年も住んでいながら、神苑まで入るのも、この時が初めてでした。


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= 平安神宮 =
平安神宮(へいあんじんぐう)は、京都府京都市左京区にある神社である。旧社格は官幣大社、勅祭社。

歴史
1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。

当初は実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買収に失敗し、当時は郊外であった岡崎に実物の8分の5の規模で復元された。

博覧会に先立つ3月15日には、平安遷都を行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。

皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。
平安神宮では、京都を守る四神の御守が授与されている。

1976年(昭和51年)1月6日、火災(平安神宮放火事件)が発生し本殿・内拝殿など9棟が炎上、焼失した。

ただし、外拝殿である大極殿は延焼をまぬがれている。
創建が比較的新しかったことから、当時はこれらの建物は文化財指定を受けていなかったため、再建のための国からの補助金が見込めなかった。

しかし、全国からの募金により、本殿や内拝殿は3年後に再建された。この火災は、後に日本の新左翼活動家加藤三郎の犯行と判明した。


社殿
社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院(八省院)を縮小(長さ比で約8分の5)して復元したものである。

大きく赤く光る朱色が特徴的な正面の門は、朝堂院の應天門を模している。その内側の左右の殿舎は朝集堂の再現である。

外拝殿は朝堂院の正殿である大極殿(左右には蒼龍楼と白虎楼が付属する)を模している。
基本的にはこれらの建築様式は、平安時代後期(11 - 12世紀)の第3次八省院(延久4年(1072年)再建、治承元年(1177年)焼亡)を再現したものとなっている。

この時の大極殿などの姿は、後白河法皇が作らせた「年中行事絵巻」に描かれている。
ただ、大極殿と応天門の間には本来は会昌門と朝堂12堂が存在し、応天門の左右には翔鸞楼と栖鳳楼という楼閣が付属していたが、これらは平安神宮では復元されていない。

また、平安神宮の社殿の瓦はすべて緑釉瓦となっているが、近年の研究によると平安時代の大極殿では軒先と棟部分だけにしか緑釉瓦は使われていなかったと推定されている。

設計は、伊東忠太・ 木子清敬・佐々木岩次郎。
2010年12月、大極殿など6棟が国の重要文化財に指定された。
参道の大鳥居 (平安神宮)は24.4mの高さがあり、国の登録有形文化財に登録されている。
敷地面積は約10,000坪の日本庭園である「平安神宮神苑」を含め、約20,000坪ほどある。

神苑は明治から昭和にかけての名造園家である7代目・小川治兵衛(植治)が20年以上かけて造った名園で、国の名勝に指定されている。

琵琶湖疏水から水を引き入れており琵琶湖では外来魚のために見かけることが出来なくなったイチモンジタナゴが生存していることが確認されている。
神苑には人里には少ないカワセミやオオタカなどの鳥類や、甲羅に草を生やすミノガメ、日本では非常に珍しいミナミイシガメなどが棲息している。


= 平安神宮神苑 =
平安神宮神苑(へいあんじんぐうしんえん)は京都府京都市左京区にある池泉回遊式の近代日本庭園。

平安神宮の大極殿背後の周囲三方に配された南神苑、西神苑、中神苑、東神苑で構成される。
面積は33,000平方メートル、作庭は小川治兵衛、1975年(昭和50年)に国の名勝に指定されている。

明治28年(1895年)、平安遷都千百年祭が開催されるにあたり創建されることになった平安神宮の社殿一帯の風致保存のために庭園を築造することになり、神苑造営が企画された。
当初に設けられた本殿東西の蒼龍池(東池)と百虎池(西池)の二つが最も古い。

<引用:ウイキペディア>



(撮影日:2012.4.30)


京都 ☆葵祭☆

季節外れの京都旅行の続きの記事です。 これでこのシリーズは最後です



(前回記事)
  ↓



南禅寺、水路閣、南禅院を訪れた翌日は、ちょうど葵祭の日でした。

葵祭を見てから高松に帰ることにしましたが・・・。




あまかった・・・



人、人、人・・・・・。     とんでもなく大勢の人。




まともに写真など撮れる場所などなく、パパラッチのように下賀茂神社の茂みから盗撮?

写真目的なら、かなり早くから場所取りしないと無理・・・








新緑に囲まれるなか馬さんが走ったり・・・。




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牛車だあ!




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牛さんの上にのっけられた神輿が橋の欄干にぶつかって通れません・・・






結局、橋の欄干を壊し、牛さんと神輿は切り離されて・・・。ああ無残・・・

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毎年やってるのに、こんな事もあるんですね (大笑)






さて、明朝早くから週末まで出張で、コメントの返信等できなくなります。

ご了承くださいませ~~~。


(撮影:2011.5.15)


京都 南禅院

京都旅行の続きです。



(前回記事)
  ↓



南禅寺、水路閣を散策し、すぐ隣接する南禅院(だったかな? うろ覚え・・
 )を拝観しました。


南禅寺、水路閣は大勢の観光客でしたが、ここは拝観者もまばらでゆっくりとすばらしい景観を楽しめました。



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= 南禅院 =
南禅院(なんぜんいん)は、京都市左京区にある臨済宗南禅寺派大本山・南禅寺の別院である。
南禅寺の発祥地といわれている。
門前には琵琶湖疏水事業の一環として建設された水路閣が通る。

歴史
南禅院は南禅寺法堂(はっとう)の南方に位置する。この地にはかつて亀山上皇の離宮・禅林寺殿があった。
離宮は上の御所(上の宮)と下の御所(下の宮)に分かれていたが、このうちの上の御所に弘安10年(1287年)建立された持仏堂を南禅院と号した。
明徳4年(1393年)以降、たびたび火災に遭い、応仁の乱以後は荒廃していたが、元禄16年(1703年)に桂昌院(徳川5代将軍・徳川綱吉の母)によって再建された。

庭園
夢窓疎石が作庭したと伝わる池泉回遊式庭園。国の史跡および名勝に指定されている。

<引用:ウイキペディア>


(撮影日:2011.5.14)













京都 南禅寺水路閣 

京都旅行の記事の続きです。

南禅寺を奥に進むと水路閣があります。



うん十年前、京都で学生時代をすごした私。

当時は、毎日のように400ccのバイクでうろちょろしていました。

その日は、山科から蹴上まで戻ったあたりで、何やら人が同じ方向に向かう様を見つけ、バイクを降りついて行きました。   その時見たのがこの水路閣でした。

もともと水路閣を知って行った訳ではないので、目の前に見る光景はあまりに圧巻でした。


ずいぶんの年月にも変わらぬ姿でした。











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=南禅寺=
南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。
山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。
日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、
日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。

=水路閣=
明治維新後に建設された、当寺の境内を通る琵琶湖疏水水路閣はテレビドラマの撮影に使われるなど、今や京都の風景として定着している。
建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあがった一方で、南禅寺の三門には見物人が殺到したという。
維新直後には政府の上地に遭い寺領の多くを失ったため廃絶に追い込まれた塔頭も少なくなかったが、その跡地は邸宅地として再開発され、そこには植治こと小川治兵衛により疎水から引き込んだ水流を主景とする数々の名庭園が造られ、いまなお貴重な空間として残っている。

<引用:ウイキペディア>


(撮影:2011.5.14)

















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