Michiruブログ

バイク、ツーリング他 グルメ、日常生活などをつれづれに・・・(^^)

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海外歩き 台湾

台湾 4日目 VOL8☆ 九份(きゅうふん)

今日から1月3日まで帰省しま~す♪

ここのところ沖縄も寒くなってきましたが、内地に比べるとまだまだ暖かいんだろうなあ~~。

1月3日までブログ更新、コメント返信等できなくなります。ご了承くださいませ



さて、今年最後の記事になります。  台湾旅行の最後の記事です。



(前回記事)
  ↓





台湾旅行最後のお宿は、台北にある圓山大飯店。

少々お部屋は古さを感じるところもありましたが、格式あるホテルのようです。


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小高い丘の上にある圓山大飯店から見える台北の景色。

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さて、この旅の最後に訪れたのは九份(きゅうふん) 

ツアーのバスは、どんどん山に登っていきます。

ツアーのバスでは途中まで。  そこからは、一般のバスで目的地まで行きます。



道も片側1車線道路。大勢の人が訪れるので、観光バスは交通制限されているようです。



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かなり高いところにあります。




細い路地にはたくさんのお店が軒を連ねています。

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路地の中は、独特な雰囲気 

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台湾旅行の中で、ここが一番気に入りました 






今回は、高雄、台南、台中、台北 3泊4日の弾丸ツアー。

台北だけでもっとゆっくりしてもよかったかな・・・(^^;



=  九份(きゅうふん) =
九份(きゅうふん、ジォウフェン)は、台湾北部の港町基隆市の近郊、新北市瑞芳区に位置する山あいの町である。


歴史
金鉱の町
その昔、九份は台湾の一寒村に過ぎなかったが、19世紀末に金の採掘が開始されたことに伴い徐々に町が発展し、日本統治時代に藤田組によりその最盛期を迎えた。九份の街並みは、日本統治時代の面影を色濃くとどめており、路地や石段は当時に造られたものであり、酒家(料理店)などの建物が多数残されている。
しかし、第二次世界大戦後に金の採掘量が減り、1971年に金鉱が閉山されてから町は急速に衰退し、一時人々から忘れ去られた存在となっていた。

観光地化
1989年、それまでタブー視されてきた二・二八事件を正面から取り上げ、台湾で空前のヒットとなった映画『悲情城市(A City of Sadness)』(侯孝賢監督)のロケ地となったことにより、九份は再び脚光を浴びるようになる。映画を通じて、時間が止まったようなノスタルジックな風景に魅せられた若者を中心に多くの人々が九份を訪れ、メディアにも取り上げられるなど、台湾では1990年代初頭に九份ブームが起こった。
ブームを受け、町おこしとして観光化に取り組んだ結果、現在では街路(基山街など)に「悲情城市」の名前を付けたレトロ調で洒落た喫茶店や茶藝館(ちゃげいかん)、みやげ物屋などが建ち並び、週末には台北などから訪れる多くの人々で賑わっている。
また、世界の旅行ガイドブック(台北付近)にも多数紹介されており、今では台湾を代表する観光地のひとつとして定着している。
宮崎駿のアニメ『千と千尋の神隠し』のモデルになったという噂もあり、日本の観光客への知名度が高まったが、ジブリ・宮崎により公式に否定されている。





(撮影:2011.9.18)









台湾3日目 VOL7☆  台中から台北へ♪

台湾旅行の続きです。


高雄から台南を訪れ、そして台湾3日目は、台中、台北と場所を移します。



(前回記事)
 ↓




ハワードプリンスホテル台中福華大飯店ホテルを出発し、宝覚寺(ほうがくじ)にとうちゃこ!


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う~~~~ん、正直言ってイマイチ・・・ 

ぐっ!っとくるものがないなあ・・・・ 


= 宝覚寺 =
宝覚寺(ほうがくじ)は、台湾台中市北区にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は鷲屏山。金色の弥勒大仏像(布袋)で有名。
歴史
日本統治時代の昭和3年(1928年)に建立された。
<引用:ウイキペディア>




宝覚寺を後にして、台北の国立故宮博物院に。

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さすがの所蔵品と展示品。  団体ツアーの時間ではゆっくり見て回れず残念でした。

中は当然撮影禁止なので、写真はありません。

(今年6月に再訪し、ゆっくりと見学してきました 
 )





ツアーバスは、次々と場所を移動します 



忠烈祠!    衛兵交代式が見ものでした
   

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↑ のお二人さん。  超蒸し暑いなか、微動だにしないんです 



ふつうの人だったら、ぶっ倒れそう・・・




= 国命忠烈祠 =
国民革命忠烈祠(こくみんかくめいちゅうれつし)は、中華民国台北市中山区剣潭山にある、辛亥革命を始めとする中華民国建国および革命、中国大陸での日中戦争などにおいて戦没した英霊を祀る祠で、中華民国国防部の管轄下にある。
一般には台北忠烈祠、圓山忠烈祠あらいは大直忠烈祠とも呼ばれている。

概要
日本統治時代は台湾護国神社が当地に建立された。その跡地に1969年に創建された。
大門をくぐると中央広場があり、その奥に中国の宮殿様式の大殿があり、左右の文烈士祠、武烈士祠がある。  武烈士祠には、革命・建国の為に亡くなった志士約33万人が祀られている。

衛兵交代
忠烈祠は、衛兵交代のセレモニーで有名である。陸・海・空軍より選抜された兵士が、1時間交代で大門と大殿を各2人ずつで守っている。
任務に就くと1時間微動だにせず、瞬きも控えている。側には世話係がつき、ハンカチで衛兵の汗を拭いたりしている。
衛兵交代は1時間毎に行われる。毎時ちょうどになると引率の兵士1人を含む5人(任務に就いていた兵士とこれから就く兵士)で隊列を組んだ儀杖兵が、大門から大殿に向かって銃を背中に背負ってゆっくりと行進を開始する。大殿に到着すると、儀杖兵は任務に就いていた衛兵2名と合流して、殿内の位牌に向かい敬礼をする。その後、銃を交換、またそれを振り回す儀式を行い、次に任務に就く2名を残して、5名で大門に戻って行く。そして、大門に行くと大門守護の任務に就く2人が門の前に行き台の上で任務に就く。セレモニーの所要時間は約20分間。
儀杖兵の資格だが、高卒以上で犯歴がなく、身長175cm - 195cm、体重65kg±1kgが条件で、その上に厳しい訓練が課せられ、それを成し得た者のみが儀仗兵になれる。




忠烈祠の衛兵交代式の見学を終え、この日最後は台北101へ。




台北の超有名な商業ビルです。



ビルの中のとあるお店では、モデルらしい人達がたくさんいてカメラ撮影をしていました。  プロのカメラマンに紛れ込んで、写真を撮らしていただきました 

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101に入っている小籠包で有名なお店 鼎泰豊(ディンタイフォン)で夕食。

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うまい 


でも、次から次にいろんな小籠包ができきたのですが、さすがに食べきれませんでした・・・

このお店、今は日本にも出店してるんですね 



= 台北101 =
台北101(タイペイいちまるいち、中国語: 臺北101)は、台湾台北市信義区にある超高層ビル。高さ509.2mで、地上101階、地下5階からなり、名前はこれに由来する。
建設段階の名称は台北国際金融センター(中国語: 臺北國際金融大樓)。7年間の工期を経て、2004年に世界一の超高層建築物として竣工した。
設計は李祖原建築事務所、施工は熊谷組を中心としたJVにより行われた。総工費は約600億元。
2004年12月31日、エントランスでオープンを祝う式典が催され、陳水扁中華民国総統も出席してのテープカットが行われた。
また、2005年12月31日の大晦日にはこのビルのある市政府で、カウントダウンイベントが行われ、台北101から電飾と共に2分強の間、
「節」などから大量の花火が打ち上げられた。
毎年5月(開催当初は6月)には、このビルの1階から展望デッキのある91階までの2046段の階段を駆け上がる「台北101國際登高賽」レースが開催されている。
 


=鼎泰豊(ディンタイフォン) =
鼎泰豊(ディンタイフォン)は台湾台北市に本店を置く、小籠包が看板料理の上海料理レストラン・チェーン。
日本、アメリカ合衆国、中国、オーストラリア、インドネシア、タイランド、マレーシア、シンガポール、韓国にも店舗を持つ。

沿革
1958年、中国山西省出身の楊秉彝(ヤン・ピンイー)によって、台湾台北市信義路(永康街)に第1号店が開かれた。  
鼎泰豐は、食用油を販売する油問屋として開業した。小籠包の販売は、本業の食用油の売り上げが落ち込んだ時期に、副業として開始された。   その後、鼎泰豐の小籠包は地元民に評判となり、1980年代には本業であった食用油の販売を取りやめ、小籠包の専業食堂に商売替えをした。
当時は近隣住民が利用する地元の食堂にすぎず、台湾国外の観光客をターゲットにした商業形態は採っていなかった。   1993年、アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』紙で「世界の10大レストラン」に選ばれた。  同紙の紹介によって一躍知名度が上がり、台湾国外から多くの観光客が、台北の店舗に来店する転機となった。   その後、台湾国外店舗としてロサンゼルスと東京の店舗を開店させ、続く国外の店舗を次々と開店していった。

日本における展開
日本においては東京都内の中央区・港区・渋谷区・世田谷区・立川市のほか、横浜、名古屋、京都、大阪、福岡、熊本などの各市に店舗を持つ。  大半の店は高島屋内への出店である。これは、高島屋の子会社である「アールティーコーポレーション」が運営している事による。  また、同社は香港の糖朝の日本支店も運営している。




(撮影:2011.9.17)







台湾2日目 VOL6☆ 日月潭と文武廟

台湾旅行の続きです。

台南 赤崁樓を後にし台湾2日目最後の日月潭(にちげつたん)にとうちゃこ!



(前回記事)
 ↓





まずは、日月潭の山手にある文武廟から。

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文武廟
日月潭北側の山に位置する文武廟は日月潭の開拓と深いかかわりがあります。
1932年、日月潭の水をダムに引くことになりましたが、これによって水没の危機に瀕した湖畔の龍鳳廟と益化堂が文武廟として現在の位置に移設再建されたのです。工事は4年の歳月をかけて、1938年に完成しました。その後、1969年から1975年にかけて全面修築が行われました。

この間、計7回視察に訪れた蒋介石総統は同廟の完成が中華民国の建国60周年に間に合うよう、工事の進行具合を気にかけ、予算の調達をしたり、各界の人士に全面支援するよう指示したりしました。このため、当時の黄杰台湾省政府主席は建築様式に「北朝式」を用いることを決定、現在の風格ある姿はこうやって生まれました。

文武廟は台湾で唯一、正門が開いている孔子廟で、参拝者に対する占いを行っているのが特徴です。
このほか、本殿前には美しい龍の石彫刻が彫られており、多くの人が観賞に訪れています。
<引用:台湾観光局HP>






文武廟をひとまわりした後、バスに戻るころには、日月潭(にちげつたん)にも夕日が・・・。


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日月潭(にちげつたん)
日月潭(にちげつたん・じつげつたん)は、台湾南投県魚池郷に位置する湖。台湾で最も大きな湖である(ダム湖を除く)。
湖の北側が太陽(日)の形、南側が月の形をしていることからこう呼ばれる。略称は明潭(みんたん、日と月の合字で明)。

地理
日本統治時代(1918年)に、当時台湾総督だった明石元二郎と高木友枝率いる台湾電力株式会社が水力発電所を建設するため、
台湾で最も長い川である濁水渓から地下導水路で水を引く計画を立案。翌年台湾電力株式会社を設立し建設を開始するが、
途中資金不足や関東大震災による影響などで計画は中断。
1928年に松木幹一郎が台湾電力社長に就任したことにより計画が再開され、1934年6月にダム湖と発電所が竣工した。
結果、湖面の面積は4.55km²から7.73km²に拡大した。
この発電所は、戦後1948年7月に「大観水力発電所」となり、現在、発電量は台湾の水力発電全体の半分以上を占めている。
また日月潭周辺は台湾原住民のサオ族(邵族)の居住地であり、日月潭に浮かぶラル(拉魯)島はサオ族の祖霊が宿る場所(聖地)とされている。

観光
日月潭は「国立風景区」に指定されており、人気の観光地となっている。
日月潭から見る夕日は特に美しいと言われ、また「双潭秋月(日月潭で見る秋の月)」は台湾八景のひとつに数えられている。
湖の周りには8本の遊歩道があり、文武廟や慈恩塔などのいろいろな名所を回ることができる。
また、約39kmある周回道路は、サイクリングや貸しバイクによるツーリングに適している。
湖上には、遊覧船が運航されている。手こぎボートの貸し出しもあり、湖の上からも風景を楽しむことができる。
<引用:ウイキペディア>



(撮影:2011.9.16)




台湾旅行 2日目 VOL5 ☆ 赤&amp;#23809;楼(せきかんろう) 

京都旅行と台湾旅行の記事を並行してUPしてます・・・



台湾旅行の続きです。  台湾2日目。  高雄から台南へとやってきました。

台南の寿山公園と延平郡王祠を後にして、ツアーのバスは赤崁楼(せきかんろう)にとうちゃこ!


(前回記事)





大勢の観光客で、少々びっくり 


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=赤崁楼(せきかんろう)=
赤崁楼(せきかんろう)は別名を赤嵌楼、紅毛楼 とも称し、台湾台南市中西区に位置する、オランダ人によって築城された旧跡である。

原名は「プロヴィンティア」(Provintia、普羅民遮城)と称し、1653年にオランダ人と漢人の衝突事件である郭懐一事件(1652年)の後に築城された。

鄭成功が台湾を占拠すると、プロヴィンティアは東都承天府と改められ、台湾全島の最高行政機関となった。
現在は中華民国内政部により国家一級古蹟に指定されている。


歴史背景
台南市は台湾本島の中で最も早くから漢人により開発が行なわれた地方である。早期の台南市西部は遠浅の海が広がり「台江内海」と呼ばれていた。

内海西側には沙洲が広がり、その中の現在の安平一帯に相当する地域には、西拉雅平埔族台湾社が居住していた。台江東岸は平原が広がり、平埔族赤崁社の居住地となっていた。明代の地図にや文献では台江西、東岸為をそれぞれ「台員」、「赤崁」と称している。

漢人移民の記録は明代中期に遡ることができる。当時この海域一帯を跋扈していた倭寇は台南を拠点に活動していり、大陸東南沿海及び台湾原住民がその被害を受けていた。この状況に対し明は討伐軍を派遣した。
これにより漢人と原住民間の交流が発生し、漢人移民が台湾に押し寄せることとなり、この地区一帯に次第に集落を形成するようになった。



オランダ人による普羅民遮城
1624年、澎湖を拠点に明と争っていたオランダと明の間に講和が成立し、オランダは澎湖の経営を放棄し、その代替地として台湾南部に上陸し商館や砲台を築城した。

台江西岸の一鯤鯓沙洲(今の安平)には「ゼーランディア」(Zeelandia、熱蘭遮城、現・安平古堡)が築城され、
台湾統治の中心となり、城砦東側には「台湾街」(現在の延平街一帯)と「普羅民遮街」(現在の民権路)が建築された。

前者は台湾で最も繁栄した商業地として「台湾第一街」と呼ばれるようになり、校舎は台湾で初めて計画されたヨーロッパ式都市計画であった。

オランダ人による台湾統治では漢族移民や平埔族に対し厳しい統治方式を採用した。
そのため漢人の不満が爆発、1652年には「郭懷一事件」が発生した。この事件は間もなく鎮圧されたが、オランダ人は事件の再発を防止するために「普羅民遮街」の北方建に「プロヴィンティア」を建築した。

周囲約141m、城壁高さ10.5mの城砦には水源が確保され、食料が備蓄されるなど、有事の際の防衛拠点都として準備され、漢人はこの城砦を赤崁楼或いは紅毛楼と称した。




鄭氏による東都承天府
1661年4月、鄭成功がオランダ人に通事として雇用されていた漢人何斌の誘導により鹿耳門を通過、台江内海を越えてプロヴィンティアを攻撃した。城砦を攻略した鄭成功は普羅民遮城を東都明京と定め、承天府を設置した。

ここに9ヶ月滞在した鄭成功はゼーランディアを攻略、ここに38年におよぶオランダ統治は終焉を迎えた。
オランダの投降後、鄭成功はゼーランディアを「安平鎮」と改称し鄭氏の居城とし、既に東都承天府と改名されたプロヴィンティアと共に、台湾の最高業機構を構成した。
しかし半年後に鄭成功が病没すると、世子鄭経は1664年に東都を廃し、「東寧」と改称「東寧国王」を自称するようになった。
承天府が廃止されると、赤崁楼は火薬貯蔵庫として用いられるようになった。




清代以降の変遷
1721年、朱一貴が清朝に対して反乱を起こすと、赤崁楼の鉄製門額が武器鋳造の材料とされた。その後も人為的な破壊、風雨による侵食、地震による被害を受け赤崁楼は周囲の城壁を残すのみにまで荒廃した。

19世紀後半、大士殿、海神廟、蓬壷書院、文昌閣、五子祠などが赤崁楼の跡地に再建され昔日の様子を取り戻すようになった。

日本統治時代には海神廟と文昌閣、五子祠は病院及び医学生の宿舎として利用されている。
1921年、台湾総督府により大士殿の解体修復が行なわれた際、プロヴィンティア時代の堡門が発見され、また東北部からはオランダ時代の砲台跡が発掘され、歴史館が設置された。

戦後は更に修復が行なわれ、台南市立歴史博物館へと発展している。
1974年には再び大規模修復が実施され現在の外観となり、1983年に内政部により国家一級古蹟に指定され現在に至っている。


<引用:ウイキペディア>






赤崁楼(せきかんろう)見学を終え、ランチタイム!


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台湾のビール、けっこういけます 




いい気持でバスに乗っていると、カラフルなヘルメットを道に並べたお店を発見。

なかなかユニークなディスプレイ 


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こちらに来てたまげたのがバイクの多さ。

おまけに、車線関係なしに縦横無尽にはしりまわっています。

(結構、沖縄もこれに近いものがありますが・・・ 
 )



さらに台湾の旅は続きます 




(撮影:2011.9.16)


台湾 2日目 VOL4☆ 寿山公園と延平郡王祠

台湾旅行の続きです。

2日目。 この日は高雄から台南に。



まずホテルを出発し、高雄の小高い丘にある寿山公園(ジュサンコウエン)   に。

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寿山公園(ジュサンコウエン)  

高雄市西部の万寿山中腹にある公園。高雄港全景を一望する夜景が美しいので、デートスポットとしても有名。
公園には中国宮殿建築様式の忠烈祠が建つほか、寿山動物園、石灰岩の洞窟など見どころが点在している。

<引用:JTB HP>







見終わると、しばらくバスに乗り、高雄を離れ台南に


延平郡王祠(えんぺいぐんおうし)にとうちゃこ!

↓の木は、ガジュマルでしょうか?  沖縄に近いだけあって高温多湿です。


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=延平郡王祠=

延平郡王祠(えんぺいぐんおうし)は、台湾・台南市中西区開山路にある鄭成功を祀る祠である。開山王廟(かいざんおうびょう)ともいう。

概要
台湾を占領していたオランダ人を駆逐した鄭成功の功績を賛え、鄭が死去した1662年に彼を慕う人々によって創建され、開山王廟と名づけられた。
1875年には、清朝の大臣・沈葆によって福州式建築の新しい祠が建てられた。
日本統治下に入った後の1896年(明治29年)、開山王廟は鄭成功を祭神とする神社となって開山神社(かいざんじんじゃ)と改称され、
翌1897年(明治30年)には県社に列格した。日本式の拝殿は作られたが、中国風の祠はそのまま残され、本殿とされた。
第二次世界大戦終戦後、中華民国政府によって社殿が全て取り壊され、中国北方式建築を模した鉄筋コンクリート製の廟に建て替えられた。
建物が全て新しいものであることから、延平郡王祠は古蹟に認定されておらず、史跡のみである。
中央には鄭成功の座像が祀られ、後殿には彼の母「翁太妃」(田川松)の位牌が安置されている。
歴史上の鄭成功は、自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、台湾と関連していた時期も短かったが、
鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いた。
その為、父鄭芝竜と日本人の母・田川松との間に生まれ、7歳まで平戸で過ごした鄭成功は今日では台湾人の宥和的精神の支柱・象徴
(開発始祖または「ピルグリム・ファーザーズ」)とされている

<引用:ウイキペディア>




撮影:2011.9.16

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