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詫間海軍航空隊 滑走台(スリップ)埋立問題!

詫間海軍航空隊 滑走台(スリップ)埋立問題 <最終編>

詫間海軍航空隊 「滑走台(スリップ)埋立問題」の最終編です。

この記事を読まれる方は、本ブログのカテゴリー「詫間海軍航空隊 滑走台(スリップ)埋立問題」に収めている過去記事もあわせてお読みいただけると幸いです。






簡単に今までの記事をまとめます。


1.詫間海軍航空隊とは

第二次世界大戦時、ここに日本海軍の水上機の一大作戦基地 ”詫間海軍航空隊” が設けられ、大戦末期の沖縄戦においては、「こんな飛行機で本当に特攻出撃したのか?」と思われるような偵察機として使われた古い水上飛行機で特攻作戦が実施され、この場所から飛び立った多くの若者が散っていきました。 
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2.詫間海軍航空隊の遺産
詫間航空隊施設があったところには、現在は香川高等専門学校詫間キャンパス他 民間工場施設が建っています。

しかしながら横穴式防空壕と、水上飛行艇の離発着に使われた大艇用3基と小艇用1基の計 四箇所のスベリ(滑走台/スリップ)が現存しています。


3.滑走台(スリップ)の埋立問題
上記に「大艇用3基と小艇用1基の計 四箇所のスベリ(滑走台/スリップ)が現存しています。」と書きましたが、現地に行ってみると このうちの1基が埋め立てられ、民間企業(工場)K社の積出桟橋として利用されていることが判明したのです。
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スリップ工事02

1)問題点その1
この詫間海軍航空隊航空滑走台(スリップ)は、2006年(平成18年)度 公益社団法人土木学会が選奨した「土木学会選奨土木遺産」になっています。

土木学会選奨土木遺産とは、土木遺産の顕彰を通じて歴史的土木構造物の保存に資することを目的としたもので、特にこの詫間海軍航空隊航空滑走台(スリップ)の解説には次のように記されています。

「当地は神風特攻隊出陣の地としても知られ、航空隊基地跡の碑石整備(2000年)などこの地の歴史を真摯に見つめ直す動きが近年活発である。そして2006年には選奨土木遺産というもう一つの観点からこの地を再考する動きがあった。施設整備を可能とした自然地理的条件と、呉軍港への近接性という社会的背景からその成立の系譜を客観的にとらえ直すことの意義も大きい。このことは、国防遺産や軍事遺産に対するもう一つのアプローチが可能であることを示唆している。」

このように残すべき歴史的遺産を一企業の便宜のために埋立していいものか!?

2)法律的問題
前回記事ですでに書きましたが、本件に関して現状確認するため、施設管理者(香川県)の出先機関の香川県西讃土木事務所に問合せしました(5/16)。

この時点で判明したこと。
・埋立地の施設は県の所有物で、使用しているK社からは三豊市を通じ使用料を徴収している。
・土木遺産の事は薄々しか知らなかった。

これらの回答を得られたので、さらに下記の回答を求めました。
①滑走台(スリップ)はいつ、どういう経緯で埋められたのか?
②滑走台(スリップ)を県は「海を埋めたてた」という認識なのか? 再度確認するが この施設は「行政財産」なのか「普通財産」なのか?
(補足)
公有財産は、行政財産と普通財産に分類されます。
行政財産は、公共団体の庁舎等の公用財産と河川・港湾施設等の公共用財産にわかれます。
普通財産とは、行政目的に使用しなくなった庁舎や、旧軍の財産他。
地方自治法によると、行政財産は民間企業に貸し付け等は行えず、貸付できるのは普通財産に限られています。

実はここが一番キーになります。 詳しくは後述します。


3)県からの最終回答(5/27)

(1)埋立の経緯
県)昭和48年公有水面埋立法に基づき、本埋め立て工事を行った。
私)公有水面埋立法に則った工事ということは、滑走台は海という認識で工事を行ったという事で間違いないですね。
県)はい。その当時の県港湾施設担当と国とのやりとりの資料の走り書き的なものに、「”海の岩礁”という事で処理(埋立)」との記述もありました。

県)その後昭和60年、土地を詫間町(現三豊市)とK社に売却し所有権移転し、県は上物の施設を所有という形で現在に至っています。
私)昭和48年の埋立時 この土地は行政財産だったんですか?普通財産だったんですか?
県)埋立当時は行政財産です。
私)行政財産なら売却できないですよね。
県)はい。なので所有権移転する際に普通財産にして売却しています。

やはり!! 県の担当者の方は、ちゃんと事務手続きできているので、問題ないでしょうという口ぶりでしたが、これでは一企業の便宜供与のために国民全体の公共財産をたたき売りしていると言われても仕方ないのではないでしょうか!!

私)それはおかしいでしょう! 問題じゃあないですか!? 公有水面埋立法に基づいた埋め立て工事ですよね。 その際計画書を国に提出して認められたものですよね。 行政財産として認められた工事であるなら、計画書に書かれたその施設の利用目的は公共性がうたわれていたんじゃあないですか。
計画書に、一企業のための”物揚げ場”施設の為の埋立工事なんて書いて、行政財産が認められるとは思えません。 
また仮に一般公共のための施設を普通財産にして売却する過程において、一般競争入札等の適正な手続きが行われているとも思えませんが・・。

県の担当の方が黙られてしまいました・・(^^;
実は、このやりとりをする前から”行政財産”と”普通財産”の扱いには注視していました。

県と国は、この滑走台を”海の岩礁”として取り扱い、行政財産として埋立工事をおこなっています。
その事自体に違法性はありませんが、国に申請した公有水面埋立法に基づく申請書には、一企業(K社)の物揚げ場の為の埋立工事を書かれていない事が想像できます。

そしてその後に、強引に行政財産から普通財産に替えたということは、この埋立工事そのものが、一企業の便宜供与であったと思われても仕方ありません。
埋立工事費用等を公的資金で賄ったと見られても仕方ありません。
企業誘致の際の便宜供与なのとも・・。


土木学会選奨土木遺産に推奨される前の工事であったのは、せめてもの救い??ですが、昭和48年~60年にこのような 重要な意義のある遺産が、企業誘致に絡む便宜供与ともとられかねない かつ、法的にも問題があるかもしれないこのような埋立て工事が行われた事は残念で仕方ありません。



詫間海軍航空隊 その2「滑走台(スリップ)埋立問題」

前回記事の続きです。

1.詫間海軍航空隊とは

第二次世界大戦時、ここに日本海軍の水上機の一大作戦基地 ”詫間海軍航空隊” が設けられ、大戦末期の沖縄戦においては、「こんな飛行機で本当に特攻出撃したのか?」と思われるような偵察機として使われた古い水上飛行機で特攻作戦が実施され、この場所から飛び立った多くの若者が散っていきました。 

詳細は前回記事をご覧ください。




2.詫間海軍航空隊 滑走台(スリップ)の現状

史跡碑に書かれていた当時の平面図
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史跡には、平成十二年(西暦二千年)十一月付けで 「わずかに水際四箇所のスベリと横穴式防空壕を残すのみとなっている。」となっています。

その後、調べてみると 「大艇用3基と小艇用1基が現存している。」ということがわかりました。

上記の図面でいうと、青色矢印で示した一番東側(右側)が小艇用の滑走台(スリップ)、少し離れた西側の3基(黄色矢印、赤矢印)が大艇用の滑走台(スリップ)です。

ここを訪れた5月7日。 事前には4基のスリップが現存することは頭に入れ訪れたのですが、3基しか確認できませんでした。

そこで自宅に帰ってから調べた事と、現地で撮った写真を照らし合わせて、なんと大艇用3基のうちの一基の滑走台(スリップ)が埋め立てられ、民間企業(工場)の積出桟橋として利用されていることが判明したのです!

下記画像は(↓) グーグル・アースの衛星画像です。 

東側(青矢印)が、小艇用の滑走台(スリップ)。 その西側の赤矢印の部分は、本来大艇用の滑走台(スリップ)ですが、ここが埋め立てられて一企業の積出桟橋として利用されています。
黄色矢印の大艇用滑走台(スリップ)は現存。
31グーグルアース画像01

拡大してみます。
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この一基だけ、本来の滑走台の体をなしていないのがよくおわかりになると思います。


この海岸線の西側の堤防に行ってみました。
31グーグルアース画像00b

防潮扉が開いていたので、堤防の先端から写真を撮っていました。

大艇用3基のうちの一番東の滑走台を基礎として利用され、そこから埋め立てられているのがわかります(赤矢印の先端部分)。 
(画像をクリックしていただけると、画像が拡大できます。)
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さらに、この滑走台を埋め立ててつくられた積出桟橋を グーグルマップのストリートビューで確認します。
スリップ工事01

スリップ工事02

スリップ工事032

先に書いたように、ここを訪れた際には 4基のうち3基の滑走台(スリップ)しか確認できませんでした。

まさかこのうちの1基が埋められているとは露ほども思わなかったからです。

なので・・

今回 この埋め立てされた桟橋に少しの間だけバイクをとめ、ここから西側の滑走台(スリップ)の写真を撮っていました。

この時は、「滑走台(スリップ)、あと一基あるはずなのになあ??」と・・。(^^;

まさかバイクをとめた桟橋の基礎に滑走台(スリップ)が使われていたとは・・(; ̄Д ̄)
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この埋立問題の本質に迫っていく前に、他の滑走台(スリップ)の現状を紹介します。

一番東側の小艇用滑走台(スリップ)。

小型艇ということで、九四式水上偵察機や零式水上偵察機がこのスリップから飛び立っていったのでしょう。

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防潮扉が開いていたので、おりることができました。
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面積は西側3基の大艇用スリップより大きいので、複数機で同時離陸していたのでしょうか・・。


西側からふたつめの大艇用スリップです。
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防潮扉は閉まっていたので道側から撮影。
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一番西側の大艇用スリップです。

こちらの防潮扉も閉まっていたので道側から撮影。
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3.詫間海軍航空隊 滑走台(スリップ)の埋め立て問題

上記のとおり、現在 4基ある滑走台(スリップ)のうち1基が埋め立てられ、民間企業(工場)の積出桟橋として利用されています。

このような埋立てが、水上飛行機でありながら特攻を命ぜられ、海に散っていった英霊を冒涜する行為はもちろんのこと、他にもいくつかの問題をはらんでいるのです。

1)土木学会推奨土木遺産であること

この詫間海軍航空隊航空滑走台(スリップ)は、2006年(平成18年)度 公益社団法人土木学会が選奨した「土木学会選奨土木遺産」です。

*公益社団法人土木学会とは・・土木工学の進歩および土木事業の発達ならびに土木技術者の資質向上を図り、学術文化の進展と社会の発展に寄与することを目的として1914年に設立された公益社団法人。
参照(関連HPのURL) :  https://www.jsce.or.jp/

*土木学会選奨土木遺産とは
土木遺産の顕彰を通じて歴史的土木構造物の保存に資することを目的として、平成12年に認定制度を設立。推薦および一般公募により、年間20件程度を選出。
参照(関連HPのURL) : https://www.jsce.or.jp/contents/isan/

*認定制度の設立趣旨
(以下 土木学会HPより抜粋)
土木学会では、土木遺産の顕彰を通じて歴史的土木構造物の保存に資することを目的として、土木学会選奨土木遺産の認定制度を平成12年に設立いたしました。

土木学会としては、その結果として、(1)社会へのアピール(土木遺産の文化的価値の評価、社会への理解等)、(2)土木技術者へのアピール(先輩技術者の仕事への敬意、将来の文化財創出への認識と責任の自覚等の喚起)(3)まちづくりへの活用(土木遺産は、地域の自然や歴史・文化を中心とした地域資産の核となるものであるとの認識の喚起)(4)失われるおそれのある土木遺産の救済 (貴重な土木遺産の保護)、などが促されることを期待しています。
参照(関連HPのURL) : https://committees.jsce.or.jp/heritage/



詫間海軍航空隊滑走台の選奨にあたって、下記のように書かれています。
土木学会選奨土木遺産00a

名称:詫間海軍航空隊滑走台(たくまかいぐんこうくうたいかっそうだい)
所在地:香川県/三豊市
竣工年:昭和18年
選奨年:2006年 平成18年度
選奨理由:
詫間海軍航空隊滑走台は、旧海軍水上機基地としての特徴を よく示す滑走台が良好な状態で現存する、全国的にも希有な事例である。

赤枠の部分をテキスト形式で記述します。

水上機の進水を目的とした〝滑走台〞(スリップ)は1943年に竣功し、大艇用3基と小艇用1基が現存している。潜水夫によって海底に割石基礎が築かれ、その上にコンクリート盤が4.5度の勾配をもって施工されている。側面は花崗岩間知石が施され、西端の滑走台には軌道も取り付けられているが、東端は水平に改修され荷揚げ場となっている。
旧日本海軍の滑走台は愛知県美浜町、茨城県阿見町、千葉県館山市のほか、台湾・屏東縣の大鵬灣など外地にも現存している。これらとの関連については今後の調査研究にてさらに明らかになるものと期待したい。

当地は神風特攻隊出陣の地としても知られ、航空隊基地跡の碑石整備(2000年)などこの地の歴史を真摯に見つめ直す動きが近年活発である。そして2006年には選奨土木遺産というもう一つの観点からこの地を再考する動きがあった。施設整備を可能とした自然地理的条件と、呉軍港への近接性という社会的背景からその成立の系譜を客観的にとらえ直すことの意義も大きい。このことは、国防遺産や軍事遺産に対するもう一つのアプローチが可能であることを示唆している。

飛行艇の台頭は、未来を構想する明治の文人の心をも確かにとらえていた。富国強兵という厳格なイデオロギーの遺産に対して、滑走台越しに眺める瀬戸内の穏やかな波間の風景は悲しいまでに明快なコントラストを形成している。敵地に散っていった同胞たちへのこのレクイエムは、新しき日本の構築に邁進したひたむきな土木エンジニアたちへの賛歌とはなり得ないであろうか。
参照(関連HPのURL) : https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/478


上記文中、「西端の滑走台には軌道も取り付けられているが、東端は水平に改修され荷揚げ場となっている。」と記述がありますが、この東端滑走台がどこを指しているかはわかりません。

4基ある滑走台の東端は小艇用の滑走台で、今回私が問題としている埋立てられた滑走台ではありませんが、このことを指しているのか??


また、土木学会選奨土木遺産の申請にあたって、対象は以下のようになっていました。

< 対象>
選考の対象は、交通(道路,鉄道,港湾,河川,航空,灯標)、防災(治水,防潮,防風)、農林水産業(灌漑,干拓,排水,営林,漁港)、エネルギー(発電,炭田,鉱山)、衛生(上下水道)、産業(工業用水,造船)、軍事などの用途に供された広義の土木関連施設が対象となります。事業単位、もしくは、構造物単位の両方で推薦することが可能です。但し、対象とする施設が現存していることを原則とします(跡地などは含みません)。なお、竣工後50年以上を経過したものを対象とします。

<要件>
選奨土木遺産に認定することが、施設管理者より同意されていることを条件とします。また、公的機関や学協会による文化財などの指定を受けていないことを原則とします。選奨土木遺産として土木学会より認定された場合は、1年以内に認定されたことを公表(アピール)するイベントなどの開催をお願いいたします。

そして応募にあたって必要となる公募候補推薦調書には、施設管理者の同意書(任意様式)も必要となっていました。

いずれにせよ、このような選奨土木遺産になるような後世に残すべき遺産を、誰が・いつ・どうして破壊(埋立て)したのか!?


何か糸口を探すために、防潮堤に貼られていた「詫間港 海岸海岸管理者 香川県西讃土木事務所」に電話で問い合わせてみました。

(印刷されていた 海岸海岸管理者って何?? (^^; )
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電話をかけたのは5月16日(月)。 その際は担当者は席をはずしており、同日 お昼過ぎに担当者K氏から電話が入りました。

私:「詫間海軍航空隊に関するTV番組を見て興味を持ち、先般現地を訪れ英霊に手を合わせました。その後調べていて気がついたのですが、4基あるべき滑走台(スリップ)のうち1基が埋めたてられていて、このすぐ南側にあるK社(工場)の埋め立て桟橋として利用されているようです。
もしそちらでご存じでしたら現状と経緯を教えてほしい。」

香川県西讃土木事務所)K氏(以下 K氏):「県が管理者です。県が埋め立てしあの施設(桟橋)を作りました。それを三豊市が使用者(K社)から使用料を徴収しています。」

三豊市は県から委託を受けて使用料徴収しているということだと思われます。

K氏の口ぶりからは、企業から使用料を徴収して管理しているので、なんら問題はないと言いたかったように思われましたが・・

私:「この滑走台が土木学会選奨土木遺産であったことはご存じですか?」

K氏:「うっすらとは知っています。」

私:「この土木学会選奨土木遺産は、後世に残すべき遺産として認められたものであり、応募にあたっては施設管理者の同意書が必要となっています。 今のお話では、施設管理者は県であり、かたや後世に残すべきとして同意しておきながら、その一方でこのような遺産を破壊するのはおかしくないですか。 

また仮に積出桟橋を作るにせよ、この貴重な遺産は埋立てず、そこを避けて作ればよかっただけなのに・・。 滑走台を基礎にすることによって、安易に埋め立て工事を安くあげようとしか思えませんが、いかがなんでしょう?」

埋立てた理由がいかに安直なものだったのか疑ってしまいます。
またこれらのことが、特攻で散っていった英霊への冒涜のように思われ、激しい怒りを覚えました。

このあとK氏からは、自分は現状の事しかわからない。 埋め立てられた詳しい経緯等については前々人者のヒヤリングや、過去の台帳を調べないとわからないということでした。

安易な回答はできないと思ったのか、本庁(県)主管課)と協議したうえで回答するとのお返事をいただきました。

いろいろ調べていくとさらに疑問がわき、この数時間後、再度K氏に電話を入れました。

私:「埋立てて作られた桟橋は、”行政財産” なのか ”普通財産” なのか?」

K氏:「あそこは海ですよ! あの桟橋は県の所有物です。」

的を得ないK氏の回答には少々こちらが戸惑ってしまいました。

私: 「海ならば 国民共有の財産ということですよね。 その上に 一企業のための桟橋を県が作るのは 腑に落ちませんが・・・」

K氏:「・・・」

私:「いずれにせよ 先の質問とあわせて、この桟橋が ”行政財産” なのか ”普通財産”なのかも ご回答ください」

*”行政財産”、”普通財産” については後述します。 


これらの話をうけ、新たな問題が浮かび上がってきました。

2)法律的問題

上記のことから、香川県がこの施設管理者であることがわかりました。

そこでクローズアップされるのが、これらの「埋め立て~桟橋の使用」にあたって、違法性がないかということです。

県)K氏は、埋立てた地=滑走台(スリップ)の場所は、”海” という認識でした。

国民共有財産の海を埋立てし、使用料を徴収してはいるものの、県が一民間企業の積出桟橋を作る事に違法性がないのか。

またその使用料は、適正なものなのか。

いろいろネットでも港湾法、公有水面埋立法、地方自治法を調べてみましたが、法律の勉強をしていない私には難しすぎて・・・(^^;

なので5月24日(火)、国土交通省港湾局に問合せてみました。

私: 「県が海を埋め立てて一民間企業用の桟橋を作り、貸付をおこなうことに違法性はないのでしょうか? また、民間企業に貸付をおこなう場合、普通財産でなければできないと思いますが、行政財産の公共用財産である海を埋め立てて、普通財産にすることは可能なのでしょうか。」

(補足)
公有財産は、行政財産と普通財産に分類されます。
行政財産は、公共団体の庁舎等の公用財産と河川・港湾施設等の公共用財産にわかれます。
普通財産とは、行政目的に使用しなくなった庁舎や、旧軍の財産他。

地方自治法によると、行政財産は民間企業に貸し付け等は行えず、貸付できるのは普通財産に限られています。


国交省港湾局のS氏。 「すぐわからないので、調べてお答えいたします。」

しばらくしてご連絡をいただきました。

S氏:「港湾の計画時において計画書が必要となります。 その際に桟橋の使用目的に 相応の事が書かれていて認可を受けたものであれば違法性は問えません。 当然 その計画書には、使用にあたって適正な使用料や金利分が書かれていることになります。 また計画書には処分計画書も必要であり、桟橋として使用された後の具体的な処分方法も求められています。

また海は国民共有の公共財産ですが、この港湾計画の認可を受けた時点で県の所有物になります。 県がこの段階で普通財産にすることも違法性はありません。」

というものでした。
S氏のとてもわかりやすく丁寧な回答に、ただただ感謝です。

進出企業への便宜供与と思われかねない行政の対応も、現状に則した適正な計画書のとおりの埋立桟橋であれば、手続き上問題はなさそうな事はわかりました。 ただそこに書かれた計画とその承認行為が、公共性を鑑み適正なものであるかどうかは、計画書を精査しなければなんとも言えないところです。

また今般、国の方針として 貸付している普通財産は民間企業への払い出しを促進しています。  もし払い下げられたとしたら、もうこの貴重な遺産は戻ってはきません。


これらの事を総じて考えると、やはり 後世に残すべき このような大切な遺産を、安易に埋立ててしまった所業に 怒りを覚えてしまいます。

価値観が異なる人からすると冒涜の基準が異なるため一概には言えませんが、この埋立問題は、私にはこの地から飛び立ち お国のためにと散っていった英霊に対する冒涜と思えてしかたありません。


皆さんは、どう思われますか?

ちなみに、5月24日現在 県からの回答はまだありません。

*これらの事を広く知ってもらいたいために、この記事および続編記事に関しては、私への事前承認無しで、ご自身のSNS媒体に当該関連記事のURL等のリンクを貼っていただいて結構です。




詫間海軍航空隊 その1「英霊に合掌」

レコーダーに録り置きしていた番組を視聴しました。

NNNドキュメント「海は・・・知っている。キャンパスはかつて特攻隊基地でした」 (日本テレビ)

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「こんな飛行機で本当に特攻出撃したのか?」その機体は、偵察機として使われた古い水上飛行機です。瀬戸内海をのぞむ小さな町に残された滑走路。太平洋戦争末期、訓練部隊だった詫間海軍航空隊は、水上特攻の一大拠点となり、訓練の浅い学生たちが、爆弾とともに次々と突入。特攻兵57人、誘導部隊も含め300人以上が戦死しました。彼らはなぜ死ななければならなかったのか。戦後、置き去りにされた基地の歴史をたどります。


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この番組に取り上げられた詫間海軍飛行隊の場所には、現在 香川県三豊市詫間町にある詫間電波高専(今は香川高等専門学校詫間キャンパス)他 民間工場施設が建っています。

第二次世界大戦時、ここに日本海軍の水上機の一大作戦基地 ”詫間海軍航空隊” が設けられ、大戦末期の沖縄戦においては、水上機による特攻作戦が実施され、この場所から飛び立った多くの若者が散っていったのだと・・。 

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詫間海軍航空隊の旗掲揚台は、今もキャンパスの敷地内に残っています。
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水上艇の滑走台(スリップ or スベリ)は、今でも現存しています。
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香川県に何十年も住んでいて、県内にこのような基地があったことを知りませんでした。


2週間前の5月7日。

お国のためにと特攻で散っていった英霊に手を合わせようと、現地に行ってきました。

まずは香川高等専門学校詫間キャンパス東側の史跡 詫間海軍航空隊跡。
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詫間海軍航空隊跡

詫間海軍航空隊の建設は昭和十六年十一月に発表された。

香田・和田内地域の突然の土地買収は住民にとって死活問題であった。また新浜に呉海軍軍需部詫間補給所が建設され、三地区で合計百三十六戸(買収面積約三十七町歩 ) が立ち退くことになった。移転にともなう労苦は筆舌に尽くし難いものであった。
建設工事は呉海軍施設部が担当し、地元の勤労奉仕隊員を加えて官民一体で行われた。

詫間空は昭和十八年六月一日に開隊され、水上機の実用機教育を担当した。主要配備機は九四式水上偵察機、二式飛行艇等であり、各地から二千余名の兵員が着任し、連日猛訓練が展開された。

昭和十九年九月、横浜海軍航空隊は沖縄攻防戦に備えて主力を詫間に移すことになった。この時点で、ここ詫間は大型飛行艇隊を擁する水上機の一大作戦基地になった。

昭和二十年四月二十五日、第五航空艦隊は決戦態勢を整えるために、全飛行艇部隊を統合して実戦部隊詫間海軍航空隊を編成した。
詫間空配備の二式飛行艇は高速性能のうえ大型レーダーを装備しており、米軍戦闘機と死闘を繰り返しながら、終戦の日まで第五航空艦隊の目となって活躍した。銀河爆撃機で米軍機動部隊をウルシー泊地に強襲した第二次及び第三次丹作戦では、長駆進撃路の天候偵察や特攻機隊の誘導で活躍した。これら作戦で二式飛行艇二十七機と二百五十名の精鋭を失った。

昭和二十年二月十六日、全小型機による特攻訓練の実施が発令された。詫間空では、水上偵察機による神風特別攻撃隊琴平水心隊を編成した。
同時期、茨城県北浦・鹿島両海軍航空隊で編成された神風特別攻撃隊魁隊が詫間空に進出、両隊は猛訓練の後、鹿児島県指宿を前進基地として沖縄周辺の艦船に体当たり攻撃を敢行した。指宿では先行した整備員が発動機調整・燃料補給・爆弾装着等の整備に心血を注いだ上、断腸の思いで出撃を見送ったという。

四月二十八日以降 四次にわたる出撃で二十五機が米軍艦船に突入し五十七名の若者が沖縄の空に散華した。これら詫間空の戦闘を強力に支援したのは、第十一海軍航空廠詫間工場である。昭和十九年十月から詫間補給所の施設を利用して修理工場を建設し、基幹技術者に徴用工員・増川女子挺身隊員・女子年少工・観音寺商業と善通寺高女の動員学徒等を加えた約八百名の陣容で、各種飛行機の修理に精根を尽くした。
被弾破損した飛行機を一刻も早く飛ばそうと、必死の思いで業務に邁進した若い力が、二式飛行艇を決戦の空へ飛ばし続けたのである。

戦後五十有余年、詫間海軍航空隊跡地は国立電波高専と民間工場等に、十一空廠跡地は詫間中学校に転用され、わずかに水際四箇所のスベリと横穴式防空壕を残すのみとなっている。我が国今日の繁栄は祖国の防衛に殉じた将兵や多くの人々の犠牲に負うことを銘記し、再び戦争の惨禍が起こることのないよう、恒久の平和を念願して、詫間海軍航空隊跡を詫間町の史跡に指定する。

平成十二年(西暦二千年)十一月
詫間町教育委員会


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史跡碑に使われていた写真は、番組で放映されていた下のものと同じだと思われます。
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番組でも史跡の説明書きにも書かれていませんでしたが、当該機種は”零式水上偵察機”だと思われます。

『零式水上偵察機』
零式水上偵察機(れいしきすいじょうていさつき)は、十二試三座水上偵察機として愛知航空機により開発され、1940年(昭和15年)12月に日本海軍に兵器採用された水上偵察機。 略称として零式水偵、零水とも呼ばれ、零式小型水上機との違いを明確にするため零式三座水上偵察機とも表記される。略符号はE13A。連合国が名づけたコードネームはJake(ジェーク)。

<開発>
1937年(昭和12年)に日本海軍は、九四式水上偵察機の後継機、十二試三座水上偵察機の開発を川西航空機製作所と愛知航空機に指示した。海軍からの要求は、艦載機としても水上基地からでも運用できる長距離偵察機ということで、最大速度は370km/hとなっていた。試作機の納期は1938年(昭和13年)9月までとされていたが、愛知航空機では他の機体の試作・改良で手一杯で製作する余力がなく、納期に間に合わず失格とされた。しかし、愛知航空機では研究資料とするために製作を続行し、1939年(昭和14年)1月に1号機が完成した。

機体は金属製(主翼の翼端は木製)で、低翼単葉の双浮舟式の水上機で、主翼は折りたたみが可能である。フラップは単純フラップとなっている。エンジンの出力、武装とも九四水偵よりも強力になっていたが、特に胴体に爆弾倉を設けており、小型の爆弾ならば2発が搭載可能。

1939年6月に川西製の機体が事故で失われたため、急遽、海軍では愛知製の機体を受領し、横須賀で試験を行った。その結果、飛行性能優秀ということで採用内定となり、1940年(昭和15年)12月に零式一号水上偵察機一型として制式採用され、1942年4月7日に零式水上偵察機一一型に改称した。

<運用>
日本海軍は初期の空母・戦艦・巡洋艦・潜水艦に水上偵察機を搭載し、偵察の要として運用すべく準備を重ねていた。その仕上げとも言えるのが本機の配備であり、1941年(昭和16年)から艦船や基地への配備が本格化した。第二次世界大戦(太平洋戦争)開戦時には海軍の主力艦船には本機が搭載されており、艦隊や外地の基地の目として盛んに活動した。

大戦の序盤はそれなりの成果を収めていたが、1943年(昭和18年)以降は水上機特有の速度不足・加速力不足が主因で、空母の艦載機や迎撃戦闘機が充実した敵方の艦隊や基地の情報を詳細に入手することは困難になってきた。このため、偵察任務は徐々に艦上機に移行していくこととなる。日本海軍では、ミッドウェー海戦で偵察機仕様に改造した2機の十三試艦上爆撃機(のちに正式採用されて二式艦上偵察機となる)を運用したのをはじめ、マリアナ沖海戦では第六〇一航空隊が17機もの二式艦偵を空母に搭載し、使用していた(発艦に難のある小型空母では九七式艦上攻撃機を使用)。

さらに、艦上偵察機として「彩雲」も開発された。搭載機数に限りがある中で攻撃力を最大化したい空母において、偵察専門の艦上機というのは他に類をみないものである。しかし、空母に随伴する戦艦や巡洋艦から本機を運用することで艦上偵察機の負担を減らしたり、三座であるため夜間偵察機として使用できることから、大戦後半も水上偵察機の出番は減らず、本機も終戦まで船団護衛や対潜哨戒任務において主力機として、日本本土から外地の離島の基地まで広い範囲で働いた(例として、1943年10月11日に宗谷海峡を逃走中の潜水艦ワフーにとどめを刺したのは本機の爆弾であった)。

また、少数機が当時友好国だったタイへ供与されている。第二次世界大戦終戦時には約200機が残存していたが、この内約4分の1が外地に残っていた機体であった。また後にフランス軍に引き渡された数機が、インドシナの植民地で使用された。日本国内では、海中から引き上げた機体が鹿児島県南さつま市の万世特攻平和祈念館に展示保存されている。

<生産>
は愛知航空機の他、渡辺鉄工所(後の九州飛行機)、広海軍工廠でも行われた。総生産数は1,423機であるが、この内、愛知で生産された機数は133機と全体の一割弱で、多くの機体は渡辺鉄工所製である。

<諸元>
乗員: 3名
全長: 11.49m
全高: 4.70m
翼幅: 14.50m
翼面積: 36.20m2
空虚重量: 2,524kg
運用時重量: 3,650kg
動力: 三菱 金星 43型 空冷式複列星型エンジン14気筒、 1,080馬力/2,000m × 1

<性能>
最大速度: 367km/h
航続距離: 最大3,326km/14.9h
実用上昇限度: 7,950m
上昇率: 3,000m/5'27"

<武装>
固定武装: 九七式7.7mm機銃×1
爆弾: 60kg爆弾×4または250kg爆弾×1

(ウィキペディア(Wikipedia) より引用)


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『二式飛行艇』
二式飛行艇(にしきひこうてい)は、大日本帝国海軍の飛行艇。初飛行は1941年(昭和16年)。略符号は「H8K」。レシプロエンジン装備の飛行艇としては、当時世界最高の性能を誇る傑作機とされる。二式大型飛行艇とも呼ばれ、二式大艇(にしきだいてい)の通称も持つ。なお、輸送型は「晴空(せいくう)」と呼ばれていた。九七式飛行艇の後継機として、同じく川西航空機で生産された。 連合軍におけるコードネームは「Emily(エミリー)」。

<要求性能>
1930年代の日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約・ロンドン条約によって対米劣勢を余儀なくされた艦艇勢力を補うため、陸上基地から発進して洋上の敵艦隊を捜索・攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)を装備することを構想し、中型飛行艇(中艇)/大型飛行艇(大艇)、中型陸上攻撃機(中攻)/大型陸上攻撃機(大攻)という、発動機の双発・四発、および発進基地の水陸に差を設けた体系を計画した。その一環として最初に実用化された大艇が九七式飛行艇であり、最大速度は385 km/h、魚雷2発を搭載した攻撃過加重状態での航続距離は約5,000 kmに達した。九七式飛行艇の更新用機材とすべく「十三試大型飛行艇」として開発が始められた二式飛行艇は、攻撃飛行艇として、当時諸外国が一般的に飛行艇に求めていた性能を上回るものが要求された。海軍の要求性能の一部を列記する。

・最高速度…240ノット(444 km/h)以上
当時の主力戦闘機九六式艦上戦闘機と同等。同時期の英国4発飛行艇サンダーランドの最高速度336 km/hと比べると100 km/h以上速い。
・航続距離…偵察時7,400 km以上、攻撃時6,500 km以上
いずれも一式陸上攻撃機やB-17爆撃機の5割増。B-29爆撃機と比べても、3割近く長い。
・20 mm機関砲多数を装備した強力な防御砲火、防弾装甲。
・雷撃を容易にするため小型機並の良好な操縦性。
・1t爆弾または800 kg魚雷2発搭載可能。

<開発経緯>
第一次世界大戦が終わると列強各国は軍縮に転じ、軍艦の建造を自粛する海軍休日に入った。日本海軍は仮想敵国の1つであるアメリカ海軍に対する数的劣勢を航空戦力で補うことを企図し、海軍航空本部は1937年(昭和12年)7月に「航空軍備に関する研究」をまとめる。 航続距離の長い大型陸上攻撃機を運用することを想定したが、日本が第一次世界大戦後に国際連盟から委任統治領として託された南洋諸島の基地整備は難しく、大型飛行艇によるアウトレンジ戦法を模索するようになる。 川西航空機が開発した九七式飛行艇は、この構想を現実のものとした。

一方で4発エンジンを持つ大型陸上機を推す意見も強く、1938年(昭和13年)4月18日に海軍航空本部技術部は「十三年度試製飛行機計画要求案摘要」で『十三試大型飛行艇』(川西)・中島十三試大型陸上攻撃機(深山)(中島飛行機)の計画要求案をまとめた。 中島の深山は、川西の二式大艇にとって文字通りライバルであった。 十三試大艇の正式試作発令は同年8月21日である。

飛行艇は、陸上機に比べると水面からの離着水のために「船」と「飛行機」の性質を併せ持たねばならず、機体は大きくなりがちで艇底の形状も空気抵抗が大きく、速度において陸上機より不利であった。 海軍側の要求は、陸上機なみの攻撃力を備え、大航続力をもった、高速機という、当時の飛行艇の水準をはるかに超える過酷なものであった。製作担当の川西航空機は、九七式飛行艇を設計した菊原静男技師を設計主務者に任命し、設計制作を行った。九七式飛行艇で自信をつけていた菊原は「よしきた」という気持ちで張り切ったという。最重点目標は航続距離であった。

1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦が勃発し日本とイギリスやアメリカなどとの緊張も高まる中、和田操空技廠長は1940年(昭和15年)中に本機を完成させるよう厳命した。同年12月29日、十三試大艇は川西鳴尾工場で完成し、翌日試験飛行を行った。不安定だった方向舵の問題はすぐに解消されたが、過荷重重量28 tで離水テストを実施したところ、飛沫のためプロペラ先端が曲がり離水不能となる問題が発生した。この問題は度重なる水槽実験の結果、艇体の小改造と波押さえ装置(通称かつおぶし)を装備する事で飛沫を抑えることに成功した。1941年(昭和16年)3月26日に試作1号機が領収され、1942年(昭和17年)2月5日に『二式飛行艇11型 H8K1』として制式採用が決定した。先行していた本命の「深山」が失敗作となる中、二式大艇は高性能の四発大型飛行艇として完成した。

菊原は、「深山」の不運は失敗機であるアメリカのダグラス DC-4Eをベースにした事とした上で、二式飛行艇はゼロから基礎設計を行えたこと・重量管理統制が成功したことが両機の差になったと回想している。

<技術的特徴>
二式飛行艇の技術的特徴を列記する。
・エンジンには、当時『誉』が出るまで日本で最高出力だった三菱の火星シリーズを用い、適切なプロペラ設計を行った。
・細長い主翼と狭い胴体。主翼のアスペクト比(主翼の付け根から先端までの長さ(翼長)を平均翼弦長で割った値、主翼の縦と横の比率・細長さを示す指標)は9に達し航続力と速度の調和を図った。一般の飛行艇の胴体は、着水時の安定性を考慮し幅広に作られていたが、本機では空気抵抗を減らすためスリムになり、九七式飛行艇より約10%幅を抑えた一方で背の高い独特な形状となった。
・軽量化と強度を両立するため波板構造や零式艦上戦闘機と同じ超々ジュラルミンの採用
・操縦性を良くする親子フラップの採用
・胴体前部下面の波消し装置(通称かつおぶし)の採用
  試作機が水上滑走中に高く波飛沫を巻き上げ、プロペラや尾翼を損傷したことから採用され、滑走中に生じる波飛沫を抑えることに成功。

このほかの機内設備としては機体前後部や上部の銃座は大型の20 mm機銃に合わせて動力銃座を採用、胴体や主翼の燃料タンク(全14個、合計17,080 ℓ)には防弾を施し、索敵や哨戒では24時間近い長距離飛行を行うことから便所や仮眠用のベッド、食品を保管する冷蔵庫も設けられ、無線室も胴体前部と後部の2か所備えた。

なお、本機は胴体を細長く設計したことから水上滑走中に機体が跳ね上がるポーポイズ現象が起こりやすく、対策として機首ピトー管に横棒(「カンザシ」と呼ばれた)を取り付け、これと風防に描かれた細い横線を基準にして機体角度を保ったまま操縦することで解決した。ただし、川西で製作した取扱説明書は前線部隊で全く読まれることはなく、事故が続発した。1944年(昭和19年)2月-5月の実験で機体を改造することなく、操縦方法の改善により事故を押さえられることが判明した。 防水塗料の粗悪さから水密性は不完全で、事故予防のためにも底に溜まった水をバケツで汲み出す作業は欠かせなかった。戦争終盤になると機体疲労が進み、水漏れの傾向に拍車をかけている。

<活躍>
大型高速で充分な防御火器を装備した本機は連合国パイロットから「フォーミダブル(恐るべき)」機体と呼ばれた(英国航空評論家ウィリアム・グリーン)。制式採用直後の1942年(昭和17年)3月4日には、大航続力を生かして2機で真珠湾を再空襲した(K作戦)。だが3月7日のミッドウェー島長距離偵察で、K作戦大艇隊指揮官橋爪寿雄大尉機が米軍戦闘機の迎撃で撃墜され、二式大艇最初の戦闘喪失機となった。ミッドウェー作戦では本機が長距離偵察を行う計画であったが、米軍の妨害や天候のため実施されなかった。その後も高速と航続力を生かしてエスピリッツサント島やオーストラリア本土、セイロン島、カルカッタといった長距離の偵察・爆撃に活躍した。ソロモン諸島方面に投入された第八〇二航空隊の本機は、水上機母艦「秋津洲」の支援を受けて活動している。

1943年(昭和18年)11月には、アメリカ軍のP-38ライトニング双発戦闘機3機と40分交戦した玉利義男大尉機が1機を撃退し、自機もエンジン2基停止と230箇所被弾、乗員1名負傷という状態で帰還、その後日本本土に戻された。さらに1944年(昭和19年)以降は日本軍多発機の中にあって、防御が弱かった一式陸攻などに比べると遥かに連合軍にとって危険な相手だった。B-25ミッチェルやB-17といったアメリカ軍の大型陸上機を積極的に追撃して撃墜した記録もある。その攻撃力から「空の戦艦」などとも呼ばれた。

このように頑丈な本機であったが、1945年に入ると太平洋戦線においては連合国軍に対して戦況が悪化して制空権が奪われ、敵戦闘機の攻撃が増えると足の遅さに加え重防御も耐え切れず、消耗していった。機体を短時間で退避、隠蔽させることも難しく、基地や水上に置かれたまま連合国軍機の空襲で破壊されたものもあった。さらに川西航空機の生産力が局地戦闘機紫電改に集中したこともあって1943年末の時点で生産数が低下、1944年は二式大艇12型33機・輸送型「晴空」24機、1945年はわずか2機の生産であった。製造に大量の資材を使い、航空燃料の消費も多かったことも、生産打ち切りの一因とされる。

また1945年3月の第二次丹作戦(銀河による長距離特攻作戦)に代表される長距離の索敵・誘導任務、トラックやラバウルといった孤立した基地への強行輸送・搭乗員救出などを行ったこともあって、成果を挙げると同時に損害も出している。補充も望めない中、第五航空艦隊(宇垣纏司令長官)所属の二式大艇はレーダーを搭載して夜間索敵に活躍したが、アメリカ軍やイギリス軍らの夜間戦闘機・哨戒機の迎撃により少なからず被害を出している。

例えば前述の丹作戦・梓隊で特攻機を誘導した二式大艇3機のうち、生田中尉機は生還、杉田中尉機はPB4Y-2プライヴァティア哨戒機(B-24の発展系哨戒機型)に撃墜され、長峯飛曹長機はメレヨン島に不時着して水没処理され搭乗員は潜水艦で帰投した。五航艦の二式大艇隊は、2月10日から終戦まで27機・約250名を失った。終戦時に完全な状態で残っていたのは二式大艇5機、晴空6機のわずか11機であり、うち8機は終戦から数日で処分、もしくは移動中の事故で失われたため、進駐してきた連合国軍から機体の引き渡しが通達されたときは詫間基地に残された3機を残すのみとなっていた。

また、海軍甲事件で戦死した山本五十六のあとを継いで連合艦隊司令長官となった古賀峯一海軍大将が移動中に遭難し殉職した時には二式飛行艇の輸送機型「晴空」に乗っていた(海軍乙事件)。古賀長官の1番機は燃料7割、福留繁連合艦隊参謀長の2番機は燃料8割の時点で空襲警報があったため離陸、熱帯低気圧に遭遇して墜落したのである。なお、空襲警報は誤報であった。通信科・暗号・気象関係員が搭乗した3番機は無事に到着した。

<諸元>
正式名称 二式飛行艇一二型
略符号 H8K2
全幅 38.00m
全長 28.13m
全高 9.15m
翼面積 160m²
自重 18,400kg
正規全備重量 24,500kg
最大重量 32,500kg
発動機 三菱火星22型(離昇1,850馬力)
最高速度 465km/h=M0.38(高度5,000m)
一一型433km/h
一二型470km
航続距離 7,153km(偵察過荷)
一二型8223km(同)
武装 20mm旋回銃5門、7.7mm旋回銃4門(3門は予備)
爆装 爆弾最大2t(60kg×16または250kg×8または800kg×2)
または航空魚雷×2
乗員 10 - 13名

<現存する機体>
終戦後、二式大艇の可動機は4機のみだったが、1機は詫間基地への移動中に不時着して島根県中海に海没処理された。そのため8月22日の時点で詫間基地に残されていたのは3機であった。その後、進駐してきたアメリカは二式大艇に興味があり、性能テストすべく9月に詫間基地に残存する二式大艇を飛行可能状態にまで整備をするよう命令した。残存する二式大艇は放置されていたため飛行不能状態となっていた。そこで最も良好な1機をベースに2機から足りないパーツを補う形で修復が進められた。3機の内、最も状態の良かった第426号機(表記、1943年(昭和18年)3月製造第26号機/推察)「詫間31号機」をベースに修復が開始し、同年10月末に修復は完了した。11月上旬に機体にアメリカ軍マークを塗ることと、11月11日に詫間基地から横浜まで空輸すること、操縦士を決めるがつたえられた。操縦士は詫間海軍航空隊隊長日辻常雄に任された。11月10日に二式大艇の先導のため、PBYが詫間基地に飛来した。11日にカタリナを先導に二式大艇は詫間基地を離れ、約2時間で横浜に到着した。着水時は波が荒れている中、日辻常雄少佐は華麗に着水してみせた。二式大艇はアメリカ軍に引き渡され、12月にノーフォーク海軍基地に到着し、基地到着後はメンテナンスを行い、翌年1946年5月23日に飛行テストを行った。この飛行が二式大艇最後の飛行となった。性能テストでは圧倒的な高性能を発揮してアメリカ側を驚かせている。

指揮官兼操縦者の日辻常雄少佐は本機を受け取りにきたアメリカ軍クルーのPBY カタリナを操縦し、二式大艇に比べ離水は簡単だが飛行性能は圧倒的に劣り、アメリカ軍指揮官も「飛行艇技術では日本が世界に勝利した」と賞賛した。その一方で着水した二式大艇に新聞記者が殺到した際、日辻は気化ガソリンのため艇内禁煙であることを説明しなければならず、性能が劣るとはいえガソリン漏れの心配がないPBYとの差を実感している。アメリカ軍もPB2Y コロネド飛行艇(二式大艇と同規模)と比較して二式大艇の方が遥かに優秀としつつ、ポーポイズ現象と機体強度に問題があると指摘したが、これは両国・両機の設計思想の違いによるものであった。

同年1946年8月に水上滑走を実施し、翌年1947年に再度、飛行テストを実施しようとしたがエンジン故障により中止、再度飛行できるまで修復されることはなかった。そのため他の鹵獲機同様、スクラップにされる予定だったが、関係者の反対によりノーフォーク海軍基地の倉庫に主翼が取り外され、保護樹脂のコクーンを機体全体に掛けられて厳重に保管されていた。1959年(昭和34年)、菊原技師は海軍基地の二式大艇を見学して返還交渉を行ったが、日本への輸送手段が見つからず、3年後に米海軍は合衆国内で永久保存の方針を伝えた。その後、斎藤茂太らが中心となって返還運動を起こす中、1978年(昭和53年)6月にアメリカ海軍の経費削減で保管終了が決定、「日本で引き取る」もしくは「スクラップ」を日本側で選択することになった。その結果船の科学館にて引き取りを表明、1979年(昭和54年)11月13日に日本に到着する。整備を経て1980年(昭和55年)7月から東京の「船の科学館」に長らく野外展示されていた。2004年(平成16年)4月末からは鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊鹿屋航空基地史料館に保管(野外展示)されている。

また、サイパン島には近場の海中に残骸が残っている場所があり、その場所はダイビングスポットになっている。それ以外にもミクロネシア連邦・チューク州(旧島名:トラック諸島)の海底にも同じように二式大艇があり、こちらもダイビングスポットとして間近で見る事ができる。

(ウィキペディア(Wikipedia) より引用)


なんと、詫間海軍航空隊にあった二式大艇が、アメリカに引き渡され、今はその機が海上自衛隊鹿屋航空基地史料館に保管(野外展示)されているとは!

鹿屋基地には、2018年の九州ツーリングで訪れていました。

屋内に展示されていた零式戦闘機は時間をかけて見たものの、時間にあまり余裕がなかったので、屋外展示はあまり見ないまま後にしてしまいました。

この事を前もっていれば、二式大艇もじっくり見ていたのに・・(´;Д;`)



鹿屋基地史料館に野外展示されている二式大艇
二式大型飛行艇01


TV番組で放映されていたその他の水上艇。
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『九四式水上偵察機』

九四式水上偵察機(きゅうよんしきすいじょうていさつき)は、川西航空機が開発し、1934年(昭和9年)に制式採用された日本海軍の水上機である。機体略番は「E7K」。当時の同種の機体と比べて航続力・安定性・操縦性に優れており、1935年(昭和10年)から太平洋戦争末期までの長期間運用された。連合軍でのコードネームはAlf(アルフ)。

<概要>
昭和7年に日本海軍は、「七試水上偵察機」の開発を川西航空機と愛知航空機に命じた。海軍の要求は
・基地及び艦載機として使用するため、カタパルト射出が可能なこと。
・航続距離が長いこと。
・安定性が良好なこと。
・最高速度は241km/h以上。
が主な点だった。

この要求に従って川西航空機が開発した機体は、胴体・翼とも金属の骨組みに羽布張りの複葉機で、水冷エンジンを搭載していた。フロートはジュラルミン製で、それまでの水上機と比べて空気抵抗が少なく耐波性の大きい形状となっていた。また、冷却器や銃座を引き込み式にして空気抵抗の軽減を図っている。原型の川西J型試作1号機は1934年(昭和8年)2月6日にテストされ、最高速度は海軍の要求値には届かなかったものの既存の水上偵察機を上回り、抜群の安定性と航続力を有することが判明した。翌1935年(昭和9年)5月に九四式水上偵察機として制式採用され、量産が開始された。生産は1934年(昭和8年)-1940年(昭和15年)にかけて、川西航空機が各型473機、日本飛行機で57機生産され、合わせて530機生産された。

初期の機体は広廠九一式水冷エンジンを搭載していたが、後に性能向上のために三菱瑞星空冷エンジンに換装した機体が作られた。この改造により実用性はさらに向上したため、1938年(昭和13年)に九四式二号水上偵察機(E7K2)として制式採用された。それに伴い前期生産型は九四式一号水上偵察機(E7K1)と改称された。

九四水偵は1935年(昭和10年)から巡洋艦や水上機母艦の主力搭載機となった他、各地の基地にも配備され、偵察・船団護衛などに活躍した。太平洋戦争開戦時にはさすがに旧式化していたが、それでも基地航空隊では相当数が使用されていた。戦争後半には偵察任務からは退いたものの、哨戒や船団護衛・連絡などで終戦まで利用された。末期には特攻機として利用された機体もあった。また、完全自動操縦装置の試験に用いられた機体や、滑空標的機や一式標的機の母機として用いられた機体など、特殊な派生型も存在した。

<スペック>
E7K1
全長:14.41m
全幅:14.00m
全高:4.735m
主翼面積:43.60m2
全装備重量:3,000kg
最高速度:239km/h(高度500m)
乗員:3名
発動機:九一式五〇〇馬力発動機二型水冷W型12気筒(離昇750hp・公称600hp)x1
航続距離:2,200km
航続時間:12時間
武装
7.7mm固定機銃x1・7.7mm旋回機銃x2
60kg爆弾x2または30kg爆弾x4

(ウィキペディア(Wikipedia)より引用)


これらの水上艇に無理やり大きな爆弾を積んで特攻仕様にしたものだから、飛び立つのがやっとで、グラマン戦闘機に見つかると なすすべもなかったらしい・・。

番組では、飛び立った特攻隊員が 空から投げた家族向けの手紙も紹介されました。
涙が止まりませんでした・・。


史跡碑と道をはさみ、詫間海軍防空壕が現存していました。
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史跡碑、防空壕を後にし、海岸線に残る滑走台(スリップor スベリ)に向かいます。
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晴天で風もなく、瀬戸内らしいおだやかな海がひろがっています。

番組で紹介されていた滑走台(スリップ)。
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防潮扉が閉められていたので、この滑走台(スリップ)には足を入れることはできませんでした。
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おだやかな波の音だけが聞こえてきます。

そうしていると、お昼12時を告げるチャイムのメロディーが聞こえてきました。

そのメロディーは、とても楽しいもので 心がなごみます。

今からさかのぼる事 七十数年前。

同じおだやかな海から、死ぬのがわかって飛び立っていった若者達。

生まれた年が違うだけで、こんなに人生が変わってくるものなのか・・。

可愛そうでしかたありません。


詫間海軍航空隊跡 史跡、防空壕、滑走台(スリップ)を見学目的に来られる方は、あまりいらっしゃいません。

私同様、香川県内在住者でも、ここの存在を知らない方が大勢いらっしゃるのでは・・・。

 少しでも多くの方に、過去 この地にこういう軍事施設があった事を知っていただき、お国のためにと命をなげうち特攻で亡くなった若者のために現地を訪れ、手をあわせてもらいたいと切に思う次第であります。


ここで重要なお知らせです。

今回 現地を訪れ、とんでもないことに気がついてしまいました。

史跡にも書かれていた「現存する4基の滑走台(スリップ)」。

なんと、このうちの1基が埋め立てられて、民間企業(工場)の積出桟橋として利用されていました。

英霊に対する冒涜、後世に残すべき貴重な遺産の破壊行為、そして最たるは法律的な問題等々、
行政の責任が問われるべき大問題です!!

4基の滑走台(スリップ)の現状も含め、詳細を次回記事で書こうと思います。


*これらの事を広く知ってもらいたいために、この記事および続編記事に関しては、私への事前承認無しで、ご自身のSNS媒体に当該関連記事のURL等のリンクを貼っていただいて結構です。

よろしくお願いいたします。


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