Michiruブログ

バイク、ツーリング他 グルメ、日常生活などをつれづれに・・・(^^)

1.初コメ大歓迎です。コメ主様のブログのリンク機能がありませんので、コメント欄でurlをお教えいただけますと、お邪魔させていただきます。

2.記事のコメントとは別に、ブログ主(michiru)に直接メッセージをされたい方は「メッセージ」をご利用ください。このメッセージの内容は、他の方は閲覧できません。メッセージをされる方は、メッセージ文末にご自身のE-mailアドレスも記載いただけるとありがたいです。

日本一周ツーリング「関西」

Vストで行く赤穂・たつの・姫路ツーリングVOL10「書寫山 圓教寺から復路」

いよいよ この旅の記事もラストになります。

長々とごめんなさい(^^;


奥の院から展望公園エリアへ。

s2026-04-22DSC_3836 奥の院から展望公園エリア

s2026-04-22DSC_3268

こんな道をトコ・トコ・トコ

展望公園のあるエリアにでてきました。(・∀・)

<金剛堂>

s2026-04-22DSC_3272

s2026-04-22DSC_3269

s2026-04-22DSC_3271

【重要文化財 金剛堂】
金剛堂は、圓教寺の開祖性空上人 (910-1007) にとって特別に重要な場所である。 書写山で修行を始めたころ、性空上人はかつてこの場所にあった普賢院の塔頭に住んでいたと考えられている。 普賢院に住んでいたときに、金剛薩埵菩薩 (サンスクリット語: ヴァジュラサトヴァ) が性空上人を訪問された。 金剛薩埵は、悟りへの揺るぎない願望を象徴し、天台宗では中心となっている仏である。 金剛薩埵は伝えられるところによると、金剛界曼荼羅と退蔵界曼荼羅を表す神聖な印相 (ムドラ)を性空上人に伝えたとされる。 これら二つの曼荼羅は蜜教の修行の基本である形而上学的領域を表現している。

室町時代 (1336年~1572年)に、普賢院の茅葺きの仏殿がここに移されて、性空上人との奇跡的な出会いを記念するために金剛薩埵菩薩像が祀られた。 建物の内部は、元々その像が安置されていた金色に輝くお堂が中心になっている。像は、現在は食堂の2階に展示されている。この像は、1359年に奈良の東大寺の仏師である康俊によって彫刻された。

1544年に金剛堂は改装された。 当時の屋根は瓦葺で、天井にはさまざまなアジアの宗教的な神聖な事物や生き物が色鮮やかに描写されていた。その中には仏教ではしばしば悟りを表す2頭の龍が描かれている。 天井の別の箇所には、半分鳥で半分人間の姿をした不死の迦陵頻伽 (サンスクリット語: カラヴィンカ) が飛び、崇高な声で仏陀の教えを伝えている。


金剛堂南側は展望台(展望公園)。

s2026-04-22DSC_3273

s2026-04-22DSC_3274

手前の木々と、天候も曇り空で、眺望はいまひとつでした。(^^;


このエリアの一角にあった石仏?
s2026-04-22DSC_3275

↓↓↓仏様の下の刻字です。
s2026-04-22DSC_3275z

「〇泊院静??・・」

最初の文字を書き写してみたらこんな字です。↓↓↓

s2026-04-22DSC_3275zA
旧字か異体字のようですが、調べても何の字かわかりませんでした。

この石仏の説明書きも設置されていませんでした。

〇泊院の名から、この円教寺の僧坊や隠居坊に住んでいた昔の僧侶を祀った供養塔だと推測しました。

どうしても気になるので、さきほど円教寺に直接電話して確認してみると、想像通り「円教寺の昔の僧侶のお墓」との回答でした。 ただ最初の文字は、円教寺でもわかっていないそうです。(^^;



<薬師堂>
s2026-04-22DSC_3276

s2026-04-22DSC_3277

【兵庫県指定文化財  薬師堂】
薬師堂は圓教寺で最も古い建物である。 1978年に建物の大規模な改修が行われたとき、奈良時代 (710-794) の遺物が内部から発見された。 これらの遺物の存在は、圓教寺の開祖である性空上人 (910-1007)が966年に書写山に入山する以前から、この場所が宗教的な意味を持っていたことを示している。 何世紀にもわたって、何度も改築や増築が行われてきたため、この建物の建築史を正確に追跡することは困難になっている。 しかしながら、大きな主柱と装飾的な屋根の梁は、それが大仏様 (だいぶつよう)と呼ばれる初期の大陸の寺院建築の様式に基づいていることを示している。

このお堂は 「癒しの仏様」 あるいは「医術の達人」として知られている薬師如来を安置していることから名づけられた。 薬師如来は健康と癒しの仏様であったことから朝廷の人々に親しまれ、6世紀に仏教が伝来した後、早くから崇拝の対象となった仏様の1人であった。 薬師如来崇拝は、仏教が一般庶民階級に受け入れられ、多くの寺院がその像を祀るようになった8世紀に広まった。 ほとんどの場合、薬師如来は薬瓶を左手に持って表現されている。 ここ圓教寺の薬師堂の薬師如来像は、室町時代 (1336-1573)に製作されたもので、食堂の2階に展示されている。


<法華堂>
s2026-04-22DSC_3284

s2026-04-22DSC_3283


<鐘楼>
s2026-04-22DSC_3282

s2026-04-22DSC_3280

s2026-04-22DSC_3285a

【重要文化財 鐘楼】
近代以前、時計が一般的ではなかった時代に、寺院の鐘は重要な役割を果たし、時間の共同指標となっていた。 中国の計時慣行に従って、1日を12に分割する伝統的な寺院の鐘は通常2時間ごとに鳴らされた。 また、鍾は新年のお祝い、お祭りなどの特別な日や、火災の発生など、危険を知らせる必要があるときにも鳴らされた。

圓教寺の鐘楼は傾斜したピラミッド型の台座の上にある。 これは、袴を着用している人のシルエットに似た格好で袴造と呼ばれている。 下から履く伝統的な服である袴で乗馬するときに着用する。 基部のすぐ上にあるかみ合わせ支えの基礎は、構造の実質的な重量を均等に分散させ、周囲の露台を補助するように設計されている。 瓦葺の屋根の軒下にも同様の組み合わせ支えが見られる。 鐘楼内部の青銅製の鍾は、仏教の象徴である龍や蓮の花などで華やかに装飾されている。 鐘は銘刻されていないが、そのスタイルの特徴は1324年頃に鋳造されたことを示唆しており、兵庫県で最も古く、日本で最も古い鐘の1つとなっている。 鐘楼自体はおよそ1332年にさかのぼり、さらに初期の構造の再建と考えられている。 鐘楼は国の重要文化財、鐘は兵庫県の文化財である。


円教寺内の主要施設のあらかたを参拝し、てくてくと
摩尼堂近くのバス停へ。

s2026-04-22DSC_3836 -展望公園からバス停へmap

ロープウェイ山頂バス停から円教寺摩尼堂近くのバス停までの往路はミニバンでしたが、復路は乗客も多かったのでマイクロバスでした。

左右に大木のある曲がりくねった細い山道を、ブオ~~ンとマイクロバスが疾走します。 木々すれすれにハンドルを切って進むマイクロバス! ジェットコースターです。( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

ロープウェイ山上駅からロープウェイに乗り下山。

s2026-04-22DSC_3286

s2026-04-22DSC_3287

お昼前です。

滞在時間3時間弱。 書寫山円教寺、見ごたえありました 


さて高松に向いて帰りましょう(*゚∀゚)っ

ポンコツ腰のおかげで、1時間以上バイクに乗りっ放しだと腰がかたまってしまいます。

高速道路のSAで何度か休憩をとりながら・・

s2026-04-22DSC_3292


s2026-04-22DSC_3294

s2026-04-22DSC_3296

お家に・・

とうちゃこ

s2026-04-22DSC_3297

1泊2日の今回のツーリングの走行距離=362km
(到着時:9015kmー出発時:8653km=362km)


今回は1泊2日の短い旅でしたが、2024年8月発症した腰椎椎間板ヘルニア以降はじめてのお泊りツーリングでした。

2年弱経って、左足に痺れが残ってしまった後遺症をかかえながらも、なんとかツーリングに行けるまで回復しました。

赤穂浪士を偲んで赤穂大石神社の参拝。 風情のあるたつのの町の散策。 想像以上に素晴らしかった書寫山円教寺。  そして生姜醤油の出汁で食べる姫路おでん。

短い期間ながらも思い出に残る旅になりました。

寅さんのロケ地でもあるたつのの町は、もう一度聖地巡礼の旅で再訪したいと思います。


腰の具合次第ですが、秋にはもう少し長旅に出れたらいいなあ~~('▽'*)ニパッ♪

2026-04-22会計表01


2026-04-22日本一周総括表01


Vストで行く赤穂・たつの・姫路ツーリングVOL9「書寫山 圓教寺_奥の院(護法堂・開山堂他)」

寺院内の説明書きの字お越しや自分のお勉強のために、記事をアップするのに、めちゃ時間がかかってます。(^^;

前回記事の続きです。

食堂の裏から、さらに奥のエリア(奥の院)へ。
s2026-04-22DSC_3836食堂から開山堂他MAP

s2026-04-22DSC_3253

3つの建物のうち、左側手前から。


<護法堂拝殿>

s2026-04-22DSC_3254

s2026-04-22DSC_3255

【重要文化財 護法堂拝殿】
この長方形の拝殿は、圓教寺の奥の院の反対側にある中庭を横切って立つ護法堂に祀られている2柱の神々と密接に関連している。 2つの護法堂の拝殿としての役割に加え、この建物は儀式や隣接する開山堂を訪れる巡礼者にも利用されている。

1589 年に建てられたこの建物は、寺社建築の様式を融合させたもので、寺伝によると、かつては12世紀の伝説的僧兵であり、7歳から10歳まで書寫山で修行を行った武蔵坊弁慶 (1155-1189) の学問所であったという。 弁慶が使用したとされる実際の机は、寺の食堂の2階に展示されている。

日本の神社は、一般的に「本殿」と「拝殿」の2つの建築物で構成されている。 護法堂の場合、本殿の代わりに、セットで護法堂と呼ばれる2つの建物がある。 これらの建物には、圓教寺の守護神である乙天と若天が祀られている。 拝殿の場所も一般的なそれとは異なり、中庭の向こう側にあり、護法堂の前面に付属しているのではなく、完全に独立している。


護法堂拝殿の向い面。

<護法堂>
s2026-04-22DSC_3263

s2026-04-22DSC_3258

【重要文化財 護法堂】
奥の院に並んでいる2つの護法堂は、圓教寺の守護神である乙天と若天を祀っている。 乙天は智慧の神である不動明王の化身であり、若天は地上の宝の守護神である毘沙門天 (Sanskrit 語: ヴァイシャラヴァナ)の化身である。 仏教の教えの獰猛な守護神として知られている二人は、性空上人 (910-1007) が 966年に圓教寺を建立し、性空上人が書寫山で修行を始めたときにそれを助けたと考えられている。 乙天、若天は当初から圓教寺の守護神として、今日に至るまで寺院の伝承と伝統の中で重要な役割を果たしてきた。 圓教寺の年間行事で最も重要なのは、1月18日に行われる平和と五穀豊穣を願う祭典 (修正会)である。 この特別な日には、緑の神である乙天と、 赤の神である若天を表す仮面を被った信者たちが寺院の敷地内を乱舞し、松明を振って鐘を鳴らす。

乙天、若天はこの2つのお堂の中に安置されている。 右側が乙天、 左側が若天である。

厳密に言えば、これら2つの建造物は、神々を収容する建物である「本殿」と見なされる。 一般的に、本殿の前に付属する「拝殿」 がある。 そこは参詣者がお供えをしたり、神々への祭祀を行う場所である。 しかし、ここでは、拝殿は切り離され、中庭を挟んでこれら2つの本殿に面している。


奥の院の一番奥側の建物。
<開山堂>
s2026-04-22DSC_3261

s2026-04-22DSC_3260

【重要文化財 開山堂】
開山堂は、圓教寺の境内の中で最も重要な建物である奥之院の中にある。 お堂は開祖性空上人が入寂された1007年に、上人の御骨を祀るために、建てられた。 勤行はここで千年以上に渡って毎日行われている。

現在の建物は1673年に建立され、 江戸時代 (1603~1867)の寺院建築の代表的な例である。 屋根を支える組み合わされた腕木は、有名な彫刻家左甚五郎 (1624-1644に活躍)によって彫刻された三体の神話上の守護神(金剛力士) を含む、さまざまな精巧な彫刻で飾られている。伝説によると、もともとは建物の四隅のそれぞれにひさしを支える神話上の守護者が1体ずついたが、四体のうちの一体は巨大な重量を支えることができず、逃げ出し、今日見られるのは残った三体だけである。

天台宗の寺院に共通する建築様式に従って、お堂の中心は土間床になっている。 主要な祭壇は、どっしりとした漆塗りの扉と複雑な屋根を持つ大きな厨子を支えている。 お堂の格天井は、御聖櫃の上の部分が高くなっており、 性空上人の高貴な地位を表す象徴的な役目を担っている。

遺骨箱は、等身大の性空上人像の中に収められている。 彫像が2008年にレントゲン撮影されたとき、研究者たちはこの像の頭部に性空上人自身のものだと考えられているお骨が納められていることを発見した。開山堂は国の重要文化財である。


護法堂の手前側の建物。
<不動堂>
s2026-04-22DSC_3266

s2026-04-22DSC_3267
【不動堂】
江戸時代

延宝年中(1673~1681)に堂を造り明王院の乙天護法童子の本地仏不動明王を祀る。元禄十年 (1697) 堂を修理し、荒廃していた大経所を合わせて不動堂としている。俗に赤堂と呼ばれていた。 乙天童子の本地堂であるが、若天童子のそれはない。一説には、若天はその姿があまりに怪異なため人々が恐れたので、性空上人が若天に暇を出したともいわれている。


******************

奥之院に鎮座するこれらのお堂からは、当時の神仏習合の宗教観が強く感じられます。

円教寺が開かれた10世紀頃の日本では、「神道」と「仏教」を別々の宗教として明確に区別していたわけではありませんでした。

説明書きにもあるように、「乙天は不動明王の化身」、「若天は毘沙門天の化身」とされています。これはまさに神と仏が一体であるという発想を表しています。

奥之院の護法堂は、現在でも鳥居があり、神を祀り、建築様式も神社に近いものでありながら、円教寺の一部であり、天台宗寺院である円教寺の守護神を祀る施設でもあります。

つまり「寺の中にある神社」であり、「神仏習合時代の生きた遺構」と言えるでしょう。

円教寺を歩いていると、大講堂や摩尼殿のような典型的な仏教建築と、奥之院の護法堂のような神社的空間が同じ境内に共存していることに気づきます。これは平安時代から中世にかけての日本人の宗教観を、現代に伝える非常に貴重な姿ではないでしょうか。


2026-06-10神仏習合イメージ図


-続く-

Vストで行く赤穂・たつの・姫路ツーリングVOL8「書寫山 圓教寺_大講堂・食堂・常行堂-ラストサムライのロケ地」

前回記事の続きです。

書寫山 圓教寺の摩尼殿を参拝後・・

s2026-04-22DSC_3150

道案内にしたがって、三つの堂(大講堂・食堂・常行堂)のエリアに向かいます。

途中の大仏様。

s2026-04-22DSC_3152

こんな案内板も。
s2026-04-22DSC_3153

s2026-04-22DSC_3154

てく・てく・てく

ジャ~~ン

s2026-04-22DSC_3156

向かって右側が大講堂、中央が食堂、左側が常行堂。

後で知ったのですが、このエリアが映画「ラストサムライ」で使われたロケ場所だったそうな・・Σ(=゚ω゚=;)


―大講堂―
s2026-04-22DSC_3162

s2026-04-22DSC_3225

s2026-04-22DSC_3159

【重要文化財 大講堂】
大講堂は、圓教寺の三つの堂として知られる三つの建物の最北端に存在している。 名前が示すように、このお堂は講義の場所であり、圓教寺の境内の中で最も重要な建物の1つと考えられている。 元の建物は10世紀に、花山法皇 (968-1008) の命によって建てられたが、現在の建物の歴史は15世紀にまで遡る。(注1)その大陸と日本の折衷様式の建築デザインは、天台宗の特徴を備えている。たとえば、お堂の御本尊であり、歴史ある釈迦牟尼仏(注2)の像は、凹んだ中央の空間に収められている。像は中央が先細りになっている蓮台に鎮座している。 その形は、物理的、形而上学的、および精神的な宇宙の中心を表す、仏教の宇宙論における神聖な5つの山からなる須弥山(注3)を表している。

釈迦牟尼は、教えを説く行為を表すポーズを取って立っている似通った二体の仏像に両側を囲まれている。 金色に輝く三尊像は、その高い位置から、三つの堂のうちの一つである常行堂の前の舞台がある中庭をお眺めになっている。 大きな行事には、大講堂に祀られている仏様を祀るために舞楽が奉納される。 これら2つの建物が南北に分かれて向かい合う形式から、三つの堂が綿密な計画を基に建てられたことがわかる。

大講堂と各像は、 国の重要文化財である。

(注1)元の建物は10世紀頃のもの。現在の建物は15世紀のもの。”遡る”と書かれていると、間違いではないものの個人的には違和感を覚えます。

「元の建物は10世紀に花山法皇(968–1008)の命によって建立されたが、現在の建物は15世紀に再建されたものである。」の方が自然なように思うのですが、どうなんでしょうね。(^^;


(注2)釈迦牟尼仏とは:釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)とは、仏教の開祖である「お釈迦様」の正式な尊称の一つ。 「釈迦族の聖者(牟尼)」という意味を持ち、サンスクリット語の「シャーキヤムニ・ブッダ」を漢字で表した名称。 宗派を問わず広く用いられる呼称ですが、日本では特に禅宗系(曹洞宗・臨済宗・黄檗宗)や天台宗でよく用いられているようです。

(注3)須弥山(しゃみせん)とは:須弥山とは、古代インドの仏教やヒンドゥー教の世界観において、世界の中心にあるとされた聖なる山です。 仏教では、この須弥山を中心として世界が構成されていると考えられ、日本仏教の多くの宗派にもその思想が受け継がれました。サンスクリット語の「スメール(Sumeru)」を漢字に音写した語で、意訳して「妙高山」とも呼ばれます。


-食堂-

s2026-04-22DSC_3163

s2026-04-22DSC_3165

s2026-04-22DSC_3166

【重要文化財 食堂】
食堂(じきどう)は大講堂と常行堂と繋がっており、圓教寺の三つの堂として知られる三つの建物の西側を形成している。 歴史的に、食堂は僧侶が修行し、寝て、食事をする居住空間であった。

この場所の最初の建物の建設は、後白河法皇 (1127-1192) の勅願により1174年に始まった。いくつかの自然災害により、元の建物やその後に建てられた建物も倒壊した。 現在の建物は15世紀半ばに着工されたが、日本最大の2階建て建築で、その規模が大きく複雑であることが理由で、完成が遅れた。 結局、食堂は約5世紀にわたって未完成のままであった。 その2階部分は大規模なリノベーション計画の一環として1963年に完成した。 その長い建設過程により、いくつかの建築上の手違いが生じた。 たとえば、2階の南東角の屋根は常行堂の屋根にぶつかっており、これは2階の露台からはっきりと見える。

現在、食堂の1階は訪問者が功徳を積む修行の写経を行う場所として主に利用されている。 2階には、圓教寺の長く豊かな歴史に光を当てた数多くの宗教的および文化的な遺産が展示されている。 その中には、14世紀に製作され、悟りへの揺るぎない願いを象徴する金剛薩埵 (サンスクリット語: ヴァジュラサットヴァ) 像がある。

食堂は国の重要文化財、 金剛薩埵像は兵庫県の重要文化財である。


s2026-04-22DSC_3186

【重要文化財円教寺食堂修理記】
解体修理工事
着工 昭和三十四年三月
竣工 昭和三十八年一月
(略)

施工者  重要文化財円教寺食堂修理委員会
円教寺の創立は、寺伝によると康保年間、僧性空上人、庵を西洞に結び伽藍を創めて円教寺と号したことに始まる。

食堂の建立については明徴を欠くが、建物の形式技風等からの考察も、大講堂(永享~寛正年間)常行堂(享徳~寛正年間)を相前後して、寛正年間をいくばくも離れない時期に再建されたもののようである。

その後、天文十年、小屋組屋根、元和八年、軸部軒廻りの一部および屋根葺替、明暦二年、軒支柱、享保七~十二年、安永四年、享和元年に軒廻り小屋組屋根、その他、享禄、天正、天和、文化などにも屋根修理等、大小の修理を得て今日に至っている。

今回の修理は建物を一たん解体し、礎石を据直した後旧形に基ずき修理し た。構造形式の踏襲はもちろん、後世改変部については資料に基ずき可及的当初の形式に復旧するとともに、未完成の部分についても当初の意図判明部は、これを完成整備した。次にその大要を記す。

(一)建物はすべて一たん取解き修理の上組立てた。
(二)旧部材は原則として旧位置に再用したが、化粧栓の一部には多少移動せしめたものもある。
(三)近世補足の化粧も旧村とともに再用した。
(四)柱礎石は堀起し、コンクリート地系の上、原位置に据え根巻コンクリートを施した。
今回の修理に次の現状変更を行った。
(要旨)
(一)中央桁行三間中柱より前方の拜所としての施設およびその三方にあった仏壇を撤去した。((一)(二)は近世の施設)
(ニ)一階正面中央三河の縁を撤去した。
(三)二階の内法長押および切目長押ならびに、一階背面北寄六間、南寄七間の内法長押および腰長押を設けた。
(四)二階の床板および天井板を設けた。
(五)二階の緣板および高欄を設けた。((三)(四)(五)(六)はいずれも当初の意図)
(六)板支輪を支輪に、また軒小天井鏡張りを組入天井に改めた。 
(七)二階虹梁下支柱および同飛貫を撤去した。
(八)間仕切を整備した。
 一階(イ)正面通り(北より第ニ間を除く)の突上板戸、引違格子戸および仮羽目板張りを一連の(*注1)戸吊込に改めた。 (吊金具釣上金具戸締金具取付跡)
   (ロ)正面北より第二間の羽目板張りを引違格子戸に改めた。 (敷鴨居取付跡、辺付釘痕)
   (ハ)北面前より第二間の両開板扉を板壁に復した。(板溝残存)
   (ニ)南面前より第一、三、四間および背面画南より一、二、三間 北より第三間の坚(*注2)板張りを横板張りに改めた。
   (ホ)背面北より第二、四間の板張りを横板張りに改めた。((ニ)(ホ)板溝の状態)
   (ヘ)背面中央間の板壁を片引戸構に改めた。(柱抱合せ面の痕跡)
 二階(イ)正面通り全間および北側面前より第一、二間、南側面前端間の板張りを一連の戸構に改めた。 
   (ロ)南面前より第二間の板張りを片引格子戸構に改めた。 (柱抱合せ面による当初意図)
   (ハ)背面中央三間の板壁を桟唐戸構に改めた。(ロに同じ)
   (ニ)その他各間の板張りを横板張りに改めた。
(九)一階正面北より第二間、背面中央間、南面前より第二間の各出入口に木口階段を設けた。
(十)二階えの登階段を南北両端にそれぞれ設けた。
(十一)破風に懸魚を設けた。

以上 工事の概要を記し後資とする。
なお、昭和三十六年三月には御法堂、乙天、若天社の屋根葺替工事も、あわせ実施したので追記する。

昭和三十八年一月三十一日

重要文化財円教寺食堂修理委員会 
委員長  石見 元秀
工事監督 藤原 義一
現場主任 漆原 茂
円教寺主官者 大樹 承算


(*注1)「蔀」=シトミ

(*注2)「
坚」 
「坚」は「堅」の異体字。
「坚」/「堅」
・音読み「ケン」、訓読み「かた(い)」
・意味・・かたい、つよい等

板張り=堅板張り=かたいたばり


食堂の2階は、興味深い展示物がたくさんありました。

室町時代の鬼瓦。
s2026-04-22DSC_3167

s2026-04-22DSC_3168

s2026-04-22DSC_3185

鯱。
s2026-04-22DSC_3172

s2026-04-22DSC_3173

s2026-04-22DSC_3174


そして貴重な仏像の数々も・・

<弁財天十六童子象>
s2026-04-22DSC_3188

s2026-04-22DSC_3187


<毘沙門天像>
s2026-04-22DSC_3190

s2026-04-22DSC_3189


<阿弥陀如来>
s2026-04-22DSC_3193

s2026-04-22DSC_3191

【阿弥陀如来】
西方浄土の仏
「南無阿弥陀仏」を唱えて功徳を積めば、西方浄土へ行けるという。平安時代に、仏教が衰えて社会が荒廃するという末法思想が流行するとともに、この世では無理ならば、あの世で極楽に行きたいという人々の気持ちにあい、阿弥陀像の造立も盛んになる。 新仏教の基盤となる。

展示物の立像は、来迎印を結ぶ。 極楽から往生者を迎えにくるときの姿である。 印相といい、手指の形で自身の役割、意思を表している。

浮彫阿弥陀三尊像は、凝灰岩製で高さ39cm、 幅31.5cmである。 南北朝時代。 舟形の石材に中央に来迎印の阿弥陀如来、向かって右に蓮台を捧げる観音、左に合掌される勢至菩薩が刻まれている。

全体で来迎を表現している。 当初、 どのような形で祭られていたかは不明


<浮彫阿弥陀三尊像>
s2026-04-22DSC_3194


<石造布袋像>
s2026-04-22DSC_3192

s2026-04-22DSC_3191z


<大日如来像>
s2026-04-22DSC_3197

s2026-04-22DSC_3196

(゚∇゚ ;)エッ!?

なぜ真言宗(密教)の中心仏である大日如来がこのお寺に

こちら書寫山 圓教寺は、天台宗。

調べてみるととても興味深い歴史がそこにはありました。

日本の天台宗の宗祖 最澄は、唐から・法華経中心の天台教学・密教・禅・戒律を総合的に学んで帰国しました。

そしてその後、空海(真言宗)からさらに密教を学びます(途中で関係が希薄になるが)。

そのため日本天台宗は、「法華経だけを拝む宗派」ではなく、密教儀礼も重視する総合仏教になったようです。(台密(たいみつ))


最澄(天台宗)と空海(真言宗)。 調べてみると、この二人の関係と天台宗と真言宗について、いろいろ興味深い内容がたくさんありました。

ここでは省略しますが、是非皆さんも調べてみてください。(^_-)-☆

-補足-
<密教とは!?>
仏教には大きく分けて、
・顕教(けんぎょう) (普通?の仏教)
・密教(みっきょう)
があります。

・顕教=「お釈迦さまが言葉で説いた教え」
例えば、「苦しみを減らそう」、「欲に振り回されるな」、「修行して悟りに近づこう」という教え。
これは理屈や経典を通して学びます。

密教は何が違うのか

・密教=「言葉だけでは悟れない」と考えます。
そこで、
・印(いん)=手の形
・真言(しんごん)=呪文
・曼荼羅(まんだら)=仏の宇宙図
などを使って、身体全体で仏の世界に入ろうとします。

「密」の意味は、「秘密宗教」という意味ではありません。 「深すぎて、言葉では完全に説明できない教え」という意味です。


<大日如来とは!?>
密教で最も重要なのが大日如来です。

でも、大日如来は「偉い仏の一人」ではありません。

密教では、”宇宙そのもの”、”真理そのもの”が大日如来です。

密教は、自分の中にも仏がいると考えます。 だから「即身成仏」を目指す。

これは密教の最大特徴です。


こちらのお寺に大日如来像があったことが理解できました。('▽'*)ニパッ♪


<薬師如来他>

s2026-04-22DSC_3205

s2026-04-22DSC_3204

本尊  薬師如来
左脇侍 日光菩薩
右脇侍 月光菩薩
眷属(注1) 十二神将

根本藥師堂本草
室町時代作

はじめ本尊は三河入道寂照より贈られたもので、天正6年(1578) 天正の乱のとき、秀吉が近江長浜に持ち去り、紛失。 現在の薬師如来は、姫路市夢前町菅生の寿福寺より迎えたものである。 持ち去られた薬師如来は現在滋賀県長浜市舎那院に安置されている。

本尊薬師如来をはさんで日光菩薩・月光菩薩が護る。左脇侍日光菩薩は、千の光を放ち天下を照らし人々を救い、右脇侍月光善は薬師如来の正しい教えを守る。 十二神将は、薬師如来とその経典を読む人を守る。方位・時刻の守護神だが、平安時代以降干支を示し、干支の譲り本尊ともなる。


(注1)眷属・・けんぞく。 仏・菩薩に付き従う者たち。


<左脇侍 日光菩薩>
s2026-04-22DSC_3202

s2026-04-22DSC_3201


<右脇侍 月光菩薩>
s2026-04-22DSC_3208

s2026-04-22DSC_3207


<眷属 十二神将>

-左脇侍 日光菩薩の左側設置の6体-
s2026-04-22DSC_3200

s2026-04-22DSC_3198


<右脇侍 月光菩薩の右側設置の6体>
s2026-04-22DSC_3206

s2026-04-22DSC_3209


<金剛薩埵像(こんごうさったぞう)>
s2026-04-22DSC_3211

s2026-04-22DSC_3210

【金剛薩埵像(こんごうさったぞう)】
兵庫県指定重要文化財
延文四年(1359) 東寺大仏師康俊(こうしゅん)作

金剛堂の本尊
檜の寄木造り 玉眼
像高37cm

金剛界曼陀羅の本尊で、普賢菩薩と同体とされ、密教で特に信仰される。金剛とは、悟りを求める意思が金剛石 (ダイヤモンド) のように固いことを示している。

性空上人は、永観二年 (984) 胎蔵・金剛界両界の秘印を授かったとされ、特に山内の信仰が厚い。
右手に五鈷杵(ごこしょ)、左手に五鈷鈴(ごこれい)を持つ。


胎蔵界と金剛界について

1.胎蔵界と金剛界とは
密教特有の考え方です。 胎蔵界 (たいぞうかい)と金剛界 (こんごうかい)は、大日如来の二つの側面を表しています。

「胎蔵」は、母親の胎内のイメージです。 つまり、すべてを包み込み、育てる世界を表しています。

だから胎蔵界は、
・慈悲
・包容力
・命
・成長
を象徴します。

大日如来が、「すべての人を救おう」とする世界です。

「金剛」は、ダイヤモンドの意味です。 つまり、絶対に壊れない、真理を断ち切る、強固な智慧を表します。

だから金剛界は、
・智慧
・覚醒
・真理
・不動の力
を象徴します。

イメージとしては、迷いをスパッと断ち切る、鋭い知恵の世界。

たとえると…
胎蔵界=「母の愛」
金剛界=「教師の厳しい知恵」


密教では、仏は「慈悲」と「智慧」の両方を持つと考えます。優しいだけでは救えないし、知恵だけでも冷たい。
・胎蔵界 救おうとする心
・金剛界 真理を悟る知恵
の両方が必要なのです。


2.曼荼羅になるとどうなる?
密教寺院で有名な、「胎蔵界曼荼羅」・「金剛界曼荼羅」は、仏の宇宙地図です。

1)胎蔵界曼荼羅
中心に大日如来。 そこから、やさしく広がる宇宙。 比較的、柔らかく有機的配置。

2)金剛界曼荼羅
こちらも中心は大日如来ですが、幾何学的、整然、理知的です。

3)両界曼荼羅
二つを並べて両界曼荼羅(りょうかいまんだら)と呼びます。

真言宗寺院などで、
左右一対で掛けられているのを見ます。

つまり簡単に言うと、胎蔵界=「仏のやさしさ」、金剛界=「仏の知恵」です。

そして密教では、この二つは本来一体と考えます。

これを<不二(ふに)>とも言います。


と、いうことらしいです。(・∀・)ハイ


<五大明王>
s2026-04-22DSC_3218

【五大明王】
不動明王を中央に、東西南北を各々降三世明王、大威徳明王、軍荼利明王、金剛夜叉明王で護る。 『仁王経』に説かれる五大力菩薩が密教化したものである。 不動明王は大日、降三世明王は阿閦、大威徳明王は阿弥陀、軍荼利明王は宝生、金剛夜叉明王は不空成就の化身といわれ、強力な集団は国家鎮護に最適であった。 その後、調伏、安産など様々な信仰を集めた。

その姿も独特で、降三世明王は三面八臂 (顔が三つで手が八本)で、降三世印を組み、弓・宝剣・箭などを持つ。 大威徳明王は六面六臂、軍荼利明王は、六臂で煩悩の象徴である蛇を巻く。 金剛夜叉明王は、三面六臂である。


<不動明王>
s2026-04-22DSC_3219

s2026-04-22DSC_3217


<降三世明王(ごうざんぜみょうおう)>
s2026-04-22DSC_3213

s2026-04-22DSC_3212


<大威徳明王(だいいとくみょうおう)>
s2026-04-22DSC_3214z

s2026-04-22DSC_3214

水牛に跨る姿が特徴の明王ですね。


<軍荼利明王>
s2026-04-22DSC_3222

s2026-04-22DSC_3220


<金剛夜叉明王>
s2026-04-22DSC_3224

s2026-04-22DSC_3223


どれも見事な仏像です。

仏像好きなあたいには、たまらない空間でした。


さらに・・

<旧大日堂仏像群>

s2026-04-22DSC_3229

s2026-04-22DSC_3228

s2026-04-22DSC_3232

s2026-04-22DSC_3233

【旧大日堂仏像群】

制作年代 10~11世紀
所有者 姫路市夢前町糸田自治会

姫路市夢前町糸田地区の大日堂に安置されていたもの。 大日堂は廃仏毀釈を免れるため、糸田村の所有とすることで、周辺の諸仏も守ることができ、現存に至った。

しかし昭和三十年代に大日堂は維持困難となり、仏像群は公民館に移され建物は取り壊された。 さらにその公民館も平成十二年老朽化に伴い処分が決定した。 その際、旧夢前町教育委員会、兵庫県立歴史博物館、 早稲田大学により調査後、同町内法界寺に安置されることとなったが、 横たえた状態であった。

そして平成十八年、ようやく早稲田大学櫻庭裕介氏のご尽力により、保存修復により個々自立できるようになり、祈りの対象としての姿を取り戻した。 そして一時、円教寺に奉安することとなったのである。
歴史をくぐり抜けてきた仏像群を皆さまの目にふれる形で展示することができ幸いである。


よくぞ、残っていた仏像の数々。 大切にこの先も保存されていてほしいものです。


<役行者>
s2026-04-22DSC_3235


s2026-04-22DSC_3234

s2026-04-22DSC_3235zx

【役行者像・画像】
鎌倉時代以降、役行者崇拝が高まり、展示物のような像や左のような画像が多く作られる。 展示物の役行者像は、玉眼が鋭く光るが、老人の顔立ちである。 頭に八尺の長頭巾をつけ、両足をおろして高い鉄下駄を履き、右手に三鈷杵(さんこしょ)、左手に般若心経の経巻を持つ。 右手は錫杖(しゃくじょう)、左手は念珠の場合もある。 半行半坐の体で、いずれにしても山中で修行をしている姿である。 さらに左の画像は、足の形が異なり、右足だけ高下駄を脱いで膝を曲げ、下におろした左足の膝の下に潜らせている。 下に書かれた「理教院」は塔頭(たっちゅう)の名前である。

役行者を描く場合、画像のように従者二人の鬼が一緒に描かれることが多い。 従者は、左は右手に斧を持ち、右は左手に水瓶を持ち、笈(おい)を背負う。通常左脇侍が青色の前鬼(別名 禅童鬼、義覚)で斧を持ち、 右脇侍が赤色の後鬼 (別名 智童鬼、義賢) で水瓶を持つ。 左図は通常の配置と逆になっているようだ。 『修験修要秘決集』 によれば、この二鬼は夫婦で、呪いを受けた鬼夫婦が役行者の験力で人心を取り戻し、 生涯役行者の身辺に仕えたという。平安時代初期には、鬼を使役して、葛城山と金峰山の間に橋を架けさせたという伝説が誕生していた。

また役行者は蔵王権現と八大童子を感得したといい、 八大童子が共に描かれる場合もある。


<僧形文殊菩薩像 食堂本尊>
s2026-04-22DSC_3239

s2026-04-22DSC_3237


<狛犬>
s2026-04-22DSC_3241

s2026-04-22DSC_3240

【狛犬】
神社の社頭や社殿の前や寺の入口に設置する獣の像。 木、石、 金属製。 当初室内に設置していたため、木造が多かった。 多くは魔除けを目的とする。 二体一対の向かい合わせで、片方は口を開け「阿(あ)」、もう片方は堅く口を閉じ「吽(うん)」 である。 阿は始まり、吽は終わりで、密教では一切の始まりと終わりを表している。

飛鳥時代に朝鮮半島からきたので「高麗犬」、もしくは魔除けなので「拒魔犬」 ともいう。 当初は法隆寺五重塔のように、仏の傍に配置され左右共通の姿であった。 平安時代になると、角がなく開口の獅子と角がある閉口の獅子という組合せが一般的となった。

一方、神使として設置の場合、狐、猪、虎、 龍などが表現される。 岩手県には河童の狛犬もある。

展示物は、 胎内から発見された銘文によれば、法橋行順(ほうきようぎようじゅん)が勧進を行って後、大仏師として、弘長元年(1261) に制作した。 狛犬の胎内銘としては現存最古のものである。 護法堂前に安置。


<書寫山圓教寺と黒田官兵衛 ~天正の乱について~>

s2026-04-22DSC_3242

【書寫山圓教寺と黒田官兵衛 ~天正の乱について~】

天正五年(一五七七)十月、主君織田信長の命を受けた羽柴 (豊臣)秀吉は播磨平定の為に一万五千の大軍を率いて、姫路城に入った。姫路城は黒田官兵衛の居城である。官兵衛は秀吉に従い、秀吉の播磨平定に力を貸す。その官兵衛の活躍もあり、年内のうち播磨の大部分は秀吉の支配下に置かれた。

しかし、翌年二月、三木城主別所長治が反旗を翻し、毛利氏に付いた。別所氏は東播磨一円を支配する大勢力であり、たちまち播磨の大半は反織田方に塗り替えられることになる。窮地に陥った秀吉は早速、三木城とその周辺の別所氏に味方した諸豪族に対する攻撃を開始する。

秀吉は書写山を本陣に定めた。これは黒田官兵衛の進言によるものであった。理由としては陣を構えるのに要害の地であったことに加え、大寺院であるが故に兵士の収容や兵糧の確保が容易であったことが挙げられる。しかし、圓教寺にとっては乱入以外の何者ではなかった。三月六日、秀吉軍は書写山に乱入し、山上の十地坊を本営とした。もともと圓教寺は「守護使不入」の寺であったが、軍勢は僧坊を破壊し、僧侶を追い払った。当時、圓教寺は二万七千石も寺領を有していたが、すべて没収されて五百石のみが残された。修行道場として聖域は秀吉軍によって大いに荒らされ、山内は戦場と化した。古文書によれば「秀吉軍が乱入して寺の老若は狼狽し、坊舎仏閣は一時破損した。開基いらい六百余年の間、かほどの乱暴はかつてなく、住僧たちは悲しみ絶望して方角を見失った。 比叡山と同じくらい高い格式を持つ顕密の聖教や累年修練され霊験あらたかな仏像も地に落ちた。魚肉は山に満ち、末世の時代とはいいながら言語に絶する次第である」と記されている。
(播州書写山円教寺古今略記)

本尊如意輪観音像や薬師如来像、阿弥陀三尊像など多くの仏像や寺宝が持ち去られた。 如意輪観音は戻されたものの、薬師如来や阿弥陀三尊は戻らなかった。 現在薬師如来は舎那院(長浜市)、阿弥陀三尊は知善院 (長浜市)に安置されている。

三木城の落城とともに秀吉の書写山在陣は終わりを告げるが、この間に圓教寺が受けた苦難は計り知れないほど大きかった。その後に圓教寺は再興されるが、秀吉乱入以前の規模まで戻ることは無かった。

*****************

秀吉や官兵衛は英雄として語られることが多いですが、円教寺の記録を読むと、その陰で寺院や僧侶たちが大きな苦難を受けたこともわかります。歴史を見るときは、英雄の功績だけでなく、その影響を受けた人々の側からも考えてみたいものです。


食堂の展示物を拝見して、いろいろあらたに学ぶ事がありました。 (・∀・)キテヨカッタア~


↓は、常行堂。
s2026-04-22DSC_3244

大講堂と常行堂を見学するには、事前予約が必要でした。

さて、この後は食堂の裏側から さらに奥のエリアにすすみます。

↓の画像は、食堂の裏側。
s2026-04-22DSC_3250

s2026-04-22DSC_3836 摩尼殿から3つの堂MAP

-続く-

Vストで行く赤穂・たつの・姫路ツーリングVOL7「書寫山 圓教寺_摩尼殿」

この旅、2日目。

ビジホの朝食無料バイキング。v( ̄∇ ̄)v

s2026-04-22DSC_3089

朝カレー! ウッーウッーウマウマ(゚∀゚)

さて、2日目の目的地に向かいます。

とこ・とこ・とこ

着いたあ~~(・∀・)

s2026-04-22DSC_3090

ここは書写山ロープウェイ駐車場。

歩いてすぐの山麓駅へ。

s2026-04-22DSC_3092

s2026-04-22DSC_3098

s2026-04-22DSC_3096

ブログ更新が滞っていて、1ケ月以上前のお話。(^^;

s2026-04-22DSC_3093

s2026-04-22DSC_3091

s2026-04-22DSC_3095

往復1200円な~~り。 ロープウェイは、どこもいいお値段しますね。(^^;

おじゃましまんねやわ
s2026-04-22DSC_3099

ブイ~~~ン
s2026-04-22DSC_3100

s2026-04-22DSC_3101


4分弱で山上駅にとうちゃこ。
s2026-04-22DSC_3286

すぐのところに関所?(´゚艸゚)∴ブッ
s2026-04-22DSC_3103

書寫山 圓教寺を拝観するには、入山志納金 大人(中学生以上)の場合 800円必要です。

また、この山上駅~摩尼殿間のバス往復乗車券と入山志納金がセットになった特別志納金の場合は、大人で1300円です。

山上駅~摩尼殿間は片道1km近くあるので、あたいはバスと入山志納金がセットになった特別志納金にしました。

s2026-04-22DSC_3106

あたい達を乗せたミニバンは、途中 林の中を左右の木々ぎりぎりのタイトコーナーをジェットコースターのように駆け抜け・・・

s2026-04-22DSC_3836 山上駅から摩尼殿map

摩尼殿近くのバス停にとうちゃこ

s2026-04-22DSC_3107

ここから歩いてすぐ摩尼殿に。

s2026-04-22DSC_3108

す、スゲ~~~~オオーw(*゚o゚*)w

京都の清水さんにも劣らぬ威風堂々たるお姿

↓は、摩尼殿に続く石段横の「三十三所堂」。

s2026-04-22DSC_3115

s2026-04-22DSC_3114

石段をのぼり・・

s2026-04-22DSC_3122

s2026-04-22DSC_3125

s2026-04-22DSC_3127

s2026-04-22DSC_3128a

s2026-04-22DSC_3126

【重要文化財 摩尼殿 (如意輪堂)】

摩尼殿は圓教寺の中心部に位置している。 ここで、圓教寺の開祖性空上人 (910-1007) が偈文を唱えているとき、一本の桜の木の周りを舞う天女を目撃したと言われている。 天女の詩は、6本の腕の如意輪観音 (サンスクリット語: チインタ・マニ・チャクラ) という慈悲の菩薩が生きている木の姿で出現する様子を描写していた。偈文によると、如意輪観音は長寿と繁栄の菩薩で、いつの時代にもすべての生き物が極楽に生まれ変わることができると保証している。 この理想に触発されて、性空上人は桜の木に如意輪観音のお姿を彫刻し、それをお守りするために仮のお堂を建てた。 その後、970年にお堂と如意輪観音を中心にして如意輪堂が建設された。

このお堂は、1174年に後白河法皇 (1127-1192) が圓教寺を訪れ、像を見たいと要求するまで閉ざされたままで、如意輪観音像は公開されていなかったと伝えられている。 後白河法皇が如意輪観音像をご覧になったとき、このお堂を現在の名である「摩尼殿」とお名づけになった。摩尼は、仏教の教えの中心にある宝石 (サンスクリット語: マニ) を意味している。 摩尼殿は4回再建されたが、毎回建物は、桜が立っていた場所に建てられた。

摩尼殿の内側には、祭壇の後ろの壁に厚い漆塗りの扉が5組ある。 これらは、四天王像が安置されている部屋である。 年一回、1月18日にこの扉が開かれる。 この日、圓教寺は新年の平和と五穀豊穣の祭典 (修正会)を執り行う。


お堂の中に入ります。(・∀・)

s2026-04-22DSC_3133a

s2026-04-22DSC_3141

s2026-04-22DSC_3143

s2026-04-22DSC_3144


堂内の片隅には・・
s2026-04-22DSC_3134

s2026-04-22DSC_3135

【賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)】

「賓頭盧尊者」(びんずる尊者、畧?(*注1)してびんずるさん)はご存知の方もあると思います。

よくあちらこちらのお寺にお参りする方なら、お寺によっては、本堂の片隅に赤く塗られて椅子に坐った「撫で仏」をご覧になる ことがありましょう。 その撫で仏がびんずる尊者なのです。

足腰の悪い人は足腰を、その他自分の悪いところを「撫で仏」をなでた手でなでると直るというので、今でも盛んに撫でている人を見かけます。(昨今では衛生面のこともあって打ち払いを用いてなでなでするようになっています。)

びんずるさんは詳しくは賓頭盧頗羅(びんずるはらだ)といい、びんずるは名で不動とか乞、洛の意、はらだは姓で捷疾 即ち病気に捷(勝)つという意があるといわれます。(*注2)

インドの階級の一つに婆羅門という上位の階級があり、はらだというのはその中の十八姓中の一つで、もともと医師の家系であるといわれます。

びんずるさんは幼少の頃から容姿美しく、しかも聰明博聞であったといわれます。やがて仏様のお弟子となり、一生懸命修業を積み、阿羅漢果(あらかんか)を証し(迷いを断ち切って) 神通力を得たといわれます。

ところが或る時仏様が弟子達と共に王舎城というところにいました時のことです。樹提居士(じゅだいこじ)という人が栴檀の木(香木)で鉢を造り、袋に入れて高いところに掛け、「はしごやつえを用いないでこれを取ることが出来たら銑(*注3)を差上げよう」と言いました。人々は色々試みましたが誰も成功しませんでした。

びんずるさんはこれを聞き、同じ仏弟子で神通力を得ている目蓮尊者の所へ行き、「あなたあの樹提居士の鉢を取られたらどうですか」とすすめました。目蓮さんは「取りたいのでしたらご自分で取ったらよいでしょう」といってとり合いません。

そこでびんずるさんは彼のところへ行き、禅室に入り、神通力を用いて座を起たずして手をのべて鉢を取った(*注4)といわれます。

後で仏様はこれを聞き、神通力をいたづらの如きことに用い、在俗者のものを取ったことをおしかりになり僧団に止まることを禁じられたといわれます。(これは十誦律の説ですが、他にも説あり)  びんずるさんは鉢を返し、袈裟、衣を返し、遠く西の方に赴き、人々に教えを説き、仏法を広めたといわれます。 

このようなことから、びんずるさんは堂内にまつらず、 本堂の縁の端に像を置く様になったといわれます。 又中国や一部日本のお寺では、びんずさんをお寺の食堂におまつりするところもあります。
或る意味でびんずるさんは、仏弟子の落ちこぼれと申せましょう。しかし堕落しないで、神通力と病気にうちかつ力をもってその後も衆生済度に励まれたことが、今でも多くの人々に親しまれ「撫で仏」として尊崇される所以ではないかと思います。

*注1)畧:略の旧字

*注2)>びんずるは名で不動とか乞、洛の意、はらだは姓で捷疾 即ち病気に捷(勝)つという意があるといわれます。

「不動とか乞、洛の意」「はらだは姓で捷疾 即ち病気に捷(勝)つ」などの部分は意味が分かりにくく、おそらく誤植や転写ミスが含まれていると思われます。

賓頭盧尊者の本来の名は、サンスクリット語で「ピンドーラ・バーラドヴァージャ」といい、これを漢字に音写したものが「賓頭盧頗羅墮(びんずる はらだ)」です。

つまり、「賓頭盧」は個人名の音、「頗羅墮」は姓・家系名の音を表したもので、漢字自体に特別な意味があるわけではありません。

ただし、古い仏教辞典などでは、音写された漢字に後から意味を当て、「賓頭盧」を「不動」、「頗羅墮」を「利根」「捷疾」などと解釈する例があります。

これは、「動じない人」「病に打ち勝つ力を持つ人」といった尊者の徳を表そうとした説明と思われます。


*注3)「栴檀の木(香木)で鉢を造り、袋に入れて高いところに掛け、「はしごやつえを用いないでこれを取ることが出来たらを差上げよう」
・・は鉢の誤りだと思います。

*注4)「手をのべて鉢をとった」
手をのべたとは、どういう意味なのでしょうか? きっと「神通力で手をのばして鉢をとった」って事なんでしょうね。(^^;

こんな感じかな!? ↓↓↓
2026-04-22書寫山円教寺_賓頭盧さんエピソード (1)

(*;゚;ж;゚;*)ブッ


ここに書かれているように、たしかに”びんずるさん”って、お寺の端っこの方に置かれていますよね。

なるほどです。(゜ー゜)(。_。)ウンウン


摩尼殿の縁側風景。
s2026-04-22DSC_3129

s2026-04-22DSC_3132

下をのぞくと・・
s2026-04-22DSC_3149

さて広い圓教寺。他も参拝していきましょ。v( ̄∇ ̄)v

-続く-




Vストで行く赤穂・たつの・姫路ツーリングVOL6「姫路おでん」

前回記事の続きです。

「赤とんぼ」の郷愁に包まれた”たつの”を後にし、今夜の宿泊地の姫路に向かいました。

2026-05-31夕焼け小焼けai画像z


s2026-04-21DSC_3064

とうちゃこ~~~~~v( ̄∇ ̄)v

s2026-04-21DSC_3077

s2026-04-21DSC_3066

s2026-04-21DSC_3065

本日の走行距離186kmな~~り。(・∀・)


今回宿泊地に姫路を選んだ理由。

二つあって、その一つが「姫路おでん」

今年のお正月に放映された「あさこ・梨乃の5万円旅」で、はじめて知った「姫路おでん」なるもの。

s2026-04-21あさこ梨乃の5万円旅姫路おでん1000106970

s2026-04-21あさこ梨乃の5万円旅姫路おでん1000106966

姫路が郷里の同級生に尋ねてみると、なんでも姫路では生姜醤油でおでんを食べるんだとか・・。

彼は、それが普通だと思っていたそうな。(・∀・)

彼に教えてもらったお店に行ってみました。

「かどや」さん。

s2026-04-21DSC_3069

s2026-04-21DSC_3067

THE 昭和の食堂~~

ちょっとヘビーな感じで、一見さんにはハードルが高そう・・(^^;

おじゃましまんねやわ

s2026-04-21DSC_3073

おでんのところに行き・・

「豆腐、こんにゃく、すじ肉ちょう~~だい」(* ̄∇ ̄*)エヘヘ

s2026-04-21DSC_3070

お店のおばさんがお皿によそおってくれました。

生姜醤油の御汁もたっぷり。

生中と姫路おでんで・・ カンパ~~イv( ̄∇ ̄)v

s2026-04-21DSC_3071

どんなお味

うおおおおおおおお~~~~~

めちゃうまいやん

想像を超える美味しさ.。゚+.(・∀・)゚+.゚

あっという間に・・・

s2026-04-21DSC_3074

完食っす

これはリピ決定ですね。


ホテルに帰ってきました。

このビジホ、ウエルカムドリンクや、無料のカレー、朝食サービスがありました。

s2026-04-21DSC_3086


アルコールは、日本酒、ウイスキー、焼酎。

s2026-04-21DSC_3081

s2026-04-21DSC_3079

日本酒は姫路の地酒。

かなり美味しかったですよ。

コンビニで買っておいたポテチをあてにして、ウイスキーの水割りもいただきました。

s2026-04-21DSC_3084

しめは・・

カレーで。(゚∀゚)アヒャ

s2026-04-21DSC_3088

めちゃコスパのいいホテルでした。(・∀・)



記事検索
カテゴリー
アーカイブ
メッセージ

名前
メール
本文
最新コメント
読者登録
LINE読者登録QRコード
PVアクセスランキング にほんブログ村
  • ライブドアブログ