四国西半周ツーリング記事の続きです。

ラムちゃんそっくりな女総長風の名の柚鬼媛(ゆきひめ)ちゃんに見送られ、国道320号線から伸びる国道197号線をさらに東進。

今年8月の「涼をもとめてツーリング」で泊まった梼原(ゆすはら)を抜けて、高知県須崎市を目指します。
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須崎市内のこのお店で昼食っす(*゚∀゚)っ
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「ばさら」さん!

須崎市と言えば、知っている人は知っている! (知らない人は知らない・・?)「鍋焼きラーメン」が有名です (・∀・)

この鍋焼きラーメンの有名店で何度も食べたことがありますが、今回は あえて別の店で。

食べログ情報では、地元の人はこちらのお店押し。

入店!  券売機で食券買いまひょ
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なんでもこのお店オリジナルの「鍋焼きらーめん こがしニンニク入り」が美味しいみたい。

で、ごはんも一緒に頼んじゃいますよ~~(☆゚∀゚)


キタ━(゚∀゚)━! キタ━(゚∀゚)━! キタ━(゚∀゚)━!
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スープがグツグツ沸騰してまつよ (゚∀゚)アヒャ

いつもの・・

麺・リフト~~・アップ

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(舌を火傷しないように)ふ~~ふ~~~ふ~~~~

ズルルルルル・・・


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うみゃああああい!!

鍋焼きラーメンのスープは、鶏でとった甘辛醤油味。 これにこがしニンニクがめっちゃ合っていました。

お肉は、鶏肉でしかも親鳥の細切れ! コリコリして若鳥に比べて、濃厚な鶏の旨味!!

当然・・・
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完食!!

たしかに このお店の鍋焼きラーメンの方が、他の有名店のより美味しく思いました。

ごちそうさまでした~~~。゚+.(・∀・)゚+.゚

ひさしぶりに横波黒潮ラインを通りまひょ。

横波黒潮ライン、これまた知っている人は知っている! 「シャコタン・ブギ」で何度も描かれていた場所。
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ひさしぶりに通ってみたら、けっこう道路がボコボコ・・(^^;

途中 一休憩。  

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武市半平太の像が建ってます。
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武市半平太 (瑞山)
TAKECHI Hanpeita (Zuizan)

「土佐勤王党党首、 月形半平太のモテル」 文政12年(1829)~慶応元年(1865) 勤王の志士、 本名 小橋

文政12年(1829) 長岡郡吹井村(現高知市仁井田吹井) に出生。 家格は郷士出身の白札格。剣士として名高いほか、余技として絵画も嗜んだ。 剣を千頭傳四郎、 麻田勘七に師事し、新町田淵 (現高知市菜園場町)に道場を開く。 

この道場では、中岡 慎太郎、岡田以蔵らも剣を磨いた。 後に江戸に出て桃井春蔵に入門。 鏡心明智流の手ほどきを受け、塾頭となる。 また、江戸滞在中 長州の桂小五郎、久坂玄瑞、薩摩の樺山三円らの志士と交流し、尊王攘夷実現のため参勤の際の藩主入京を目指し、お互いに連携することを約束した。

文久元年(1861) 8月、江戸において大石弥太郎、 河野万寿弥 (敏鎌) ら土佐出身の同志と土佐勤王党を結成。 9月には帰郷し、旧知の坂本龍馬、平井収二郎らをはじめ、田淵道場の門弟などにも声を掛け、 郷土層を中心に192名の血盟者を得た。 そして挙藩勤王実現に向け重ねて進言したが、吉田東洋主導の藩庁は彼らの意見を書生論と退け、 他言を禁じて公武合体路線を堅持した。

藩政の転換を目指す勤王党は、 参政吉田東洋の排除を画策。 文久2年(1862)4月、 半平太は那須信吾ら3名の刺客に命じ、帰宅途中の東洋を惨殺した。 この結果藩庁内部の人事は刷新され、8月には多数の勤王党員らを従えた藩主豊範が入京し、京都警衛、国事周旋に関する内勅を得た。 半平太は京都にあって薩長同士らと勅使東下のため奔走。 10月には攘夷実行を促す勅使が江戸に下ることとなり、半平太自身も副使姉小路公知(あかねこうじこうち)の雑掌柳川左門として行列に加わった。

帰洛後、上士格の御留守居組に、さらに翌文久3年(1863)3月には京都留守居役加役に進むが、同年8月18日の政変で、尊王攘夷派の長州藩が京都を追われ、公武合体派が復権すると、9月には土佐でも前藩主山内容堂が土佐勤王党を弾圧。 帰郷していた半平太も、南会所の揚屋で後藤象二郎から吉田東洋暗殺事件の審問を受ける。 否認し続けた半平太であったが、慶応元年(1865) 閏5月に切腹を命ぜられた。 享年37歳。

横浪県立自然公園
YOKONAMI Kochi Prefectural Nature Park
高知県

土佐は江戸~明治にかけて多くの偉人を輩出したところ。
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確固たる信念、思想で日本を考え、動かした人達。

とはいえ、尊王攘夷論から討幕に傾いた人達も、現行幕府体制を堅持しようとした人達、ともに今の時代に生きているあたいには けっこう血生臭い所業が行われてきたんだなあと・・。

ちなみに尊王攘夷論、公武合体論、そして江戸幕府の終焉の関係を知るのに、わかりやすい記事を見つけました。




武市半平太像が見つめる先の太平洋。
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海岸線を走り、高知市の市街地をすり抜け、今回の旅で一番訪れたかったところにとうちゃこ!!

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南国市にある前浜津波避難タワー。  掩体(えんたい)群の駐車場にもなっています。

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Vストちゃん 後方には2号掩体(えんたい)が見えます。

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掩体(えんたい)!?

5号掩体で説明しますね。

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この掩体(えんたい)は、旧高知海軍航空隊所属の飛行機を攻撃から守るための格納庫である。
昭和16年から20年の終戦直前まで飛行場からの誘導線に沿って、鉄筋コンクリートのものが9基 木や竹、土のものがいくつか造られた。 現在、 鉄筋コンクリートのものが7基残っている。 

一番大きいもので約 高さ10m・ 幅45m・奥行き22m 小さいもので約 高さ5m・幅15m・奥行き8mで 厚さ50cm程もあり、頑丈なものである。

高知海軍航空隊 (現高知空港の前身)は、旧三島村の大部分を占有して1943年(昭和18年)に造成された。ここは、予科練(飛行予科練習生) 卒業者のうち、偵察搭乗員の実技教育をする飛練(飛行術偵察専修練習生)の本科の練習航空隊であった。 その練習機が通称「白菊」である。

昭和20年5月から「白菊」に爆弾を2個のせて、「神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊」として沖縄へ悲劇の出撃をするのである。 掩体のある光景は、 歴史的事実を今に伝えるひとつの記念碑として どっしりと構え、周囲の風景と奇妙なコントラストをみせ、平和の意味をしっかりと教えている。

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5号掩体

【発掘調査】
平成24年度に掩体の基礎形状の確認と内部の床面を確認するために実施しました。
●基礎はほとんどの部分で地面を基礎の形に掘り込み、コンクリートを直接流し込んで造られていました。 また、アーチの基礎が掘り込み跡から外側に約7cmめり込み、自重で沈下している様子が確認できました。
●アーチ基礎の内側には型枠と思われる薄い板が残存していました。
●掩体内部は大量の川原石が混じった土で埋められており、ガラス瓶や、ヤカン・瓦・碍子・鉄釘などが捨てられていました。 戦後、周囲を耕作地に戻すときに、誘導路に敷かれていた石と一緒に埋められたと考えられます。
●機体格納部分は、 機体の形に掘り窪められた半地下式になっていたことが確認できました。
●胴体部の中央には、機体を後ろ向きにまっすぐ収めるための尾翼車輪の誘導溝と考えられた細い溝が掘りこまれていました。
●主翼部分は胴体部分より掘り込みが浅く、主脚の止め位置に浅い穴が掘られていました。


以前からブロ友さんの記事や、高知の地方新聞で この掩体(えんたい)の事は知っていたのですが、現在の高知空港近くにあるのはわかっていたものの、具体的な場所がわからず 忘れかけていました。

今回のツーリングで、Google MAPで走行ルートを検討している際に、たまたま この掩体郡の場所を見つけました。

南国市は、あたいがお仕事をしていた時に、会社の拠点を作り 頻繁に行き来していた思い出深い場所。 この掩体を見れていなかった事だけが残念で仕方なかったのですが、やっと見つけました(*'-'*)


南国市の発行する掩体郡の説明書きです。
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【消えた三島村】
1941(昭和16)年1月から 1944(昭和19)年にかけて、三島村は軍用飛行場として国に強制的に買い取られることになりました。

「戦争に勝つためには」の合言葉の前には、だれも反対できませんでした。 先祖代々住み慣れたふるさとを、住民は涙をぬぐいながら離れていきました。 移転先を探し家を建てたり、田畑を買うことにも、多くの村民が苦労しました。

海岸の砂利をトラックや荷車、リヤカーなどを使って運び、村の土地を整地していきました。 物部川の洪水や津 のときに逃げ登ったと伝えられている命山も次第に削られ、飛行場の形になっていきました。こうして、263戸、 約1500人が生活していた三島村は消えてしまったのです。


・・戦時下の強制的な土地収用によって、この掩体がつくられたことがわかります。

歩いていくつかの他の掩体も見てまわりました。

3号掩体。
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1号掩体。

強制収容された土地ですが、戦後は農家に返されたんでしょうね。

飛行機を収容していた掩体が、今は農機具の車庫になっていました。 平和な時代になってよかったなあ・・。
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4号掩体。
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ゴミ置き場??(^^;
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5号掩体の説明書きに書かれていた「白菊」と「神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊」について、掘り下げて調べてみました。

『ウィキペディア(Wikipedia)』の引用になります。

【白菊 (航空機)】
白菊(しらぎく)は、第二次世界大戦中期から日本海軍で使用された機上作業練習機である。開発・製造は九州飛行機で、機体略番はK11W。九〇式機上作業練習機の後継機として1942年(昭和17年)に制式採用され終戦まで使用された。大戦末期には特攻機として使用された機体もあった。

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【白菊特攻隊】
1945年(昭和20年)1月8日に大本営が全軍特攻を決定すると、全国の練習航空隊に通常の搭乗員訓練を止め、特攻隊を編成するように命令が下された。

練習機により特攻は、白菊を装備する高知空(菊水白菊隊)、徳島空(徳島白菊隊)、大井空(八洲隊)、鈴鹿空(若菊隊)で実施される事となり、まずは高知空と徳島空で特攻志願者の募集が開始された。

当初の設計では機体が大きい白菊の機内の床に板を置いて、そこに250kg爆弾2発をワイヤーで縛って固定するという乱暴なものであったが、最終的には、250kg爆弾を両翼に1発ずつ懸架し、操縦席計器板に信管の安全装置を解除するレバーを装着するよう改造され、エンジンカバーの上に照準器が装着された。

航続距離を延伸するために胴体内の後部席に零戦用の増槽を取り付け、通常は480リットルである搭載燃料を700リットル弱まで増加させた。これらの改造により、通常時より大幅に重量が増加し、離陸すら困難となったため、訓練は離陸を中心に行われた。 またこの状態での最高速度は時速180㎞程度と低速になり、この白菊で特攻出撃させられることに隊員らに戸惑いがあったという。

離陸に慣れてくると、模擬爆弾を搭載しての訓練となったが、起床を夕刻の午後5時として、暗くなるのを待って訓練を開始するといった昼夜逆転日課による訓練を連夜行った。 日中にも、黒眼鏡をかけて、視界を夜間と同じにして訓練した。 離着陸になれると、模擬爆弾を搭載しての飛行訓練となったが、1945年5月初めのころには夜間飛行を満足にできない搭乗員が多かったのに、1か月もしない5月22日のころには殆どの搭乗員が夜間洋上進行可能な水準となり、海面すれすれの高度15mで編隊飛行することもできるようになっていた。 日本海軍は、夜間飛行を支障なくこなす操縦技術を有する搭乗員をA級と認定しており、同じ夜間出撃を行っていた精鋭部隊芙蓉部隊が、200時間もの飛行時間を要して到達できた技能水準と同水準であったが、芙蓉部隊とは異なり、白菊はその低速から他の航空機による誘導も護衛も不可能であり、最初から沖縄まで単独での夜間洋上進行が求められ、より難易度は高かった。

白菊特攻は沖縄戦に投入されることとなり、菊水七号作戦中の1945年(昭和20年)5月24日の夜間に初の白菊特攻隊、第一次白菊隊14機が串良の航空基地から出撃した。 出撃に際して搭乗員には「白菊は爆装こそ大きいが速力は遅い。戦艦や巡洋艦などの大型艦は狙っても無理であるから、なるべくは輸送艦を狙いこれを爆砕せよ」と命令されている。 

白菊は速度が著しく遅いため、出撃の際は真っ先に離陸し、次に15分おいて戦闘機が離陸、さらにその後に艦上爆撃機や艦上攻撃機が離陸するように決めていた。そうすることにより、戦闘機が途中で白菊を追い越して敵戦闘機と交戦し、白菊はその隙をついて敵艦に突入する計画であった。

この日出撃した白菊隊は、故障や不時着の3機を除き11機が未帰還となったが、一部が敵艦隊に到達している。沖縄戦で特攻を指揮した第5航空艦隊司令部はアメリカ軍の無電を傍受しており、「時速160㎞~170㎞の日本軍機に追尾されている。」というアメリカ軍の駆逐艦の無電を聞いた一人の幕僚が、「駆逐艦の方がのろい白菊を追いかけているんだろう。」と笑う有様で、第5航空艦隊司令官宇垣纏中将も「夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数あれど之に大なる期待はかけ難し。」と白菊特攻について厳しい評価を下し、夜間や黎明に限定して投入することとしている。

白菊まで特攻に投入したことは、第5航空艦隊内でも戦争の成り行きに絶望感を抱かせることとなった。鹿屋基地に第五航空艦隊司令部付将校として配属された野原一夫少尉は、先に着任していた学徒出陣の予備少尉から「なんだって、今頃、鹿屋にきたんです。沖縄の戦争は、ジ・エンドですよ」「白菊まで出ていくようになっちゃあ、沖縄航空決戦もいよいよおしまいだな。五航艦にはもう、特攻に使える実用機はほとんど残っていないんです」と嘆かれたのち、白菊には軽量化のため無線機すら積まれておらず、実用機による特攻機が行う最後の突入電を打電することすらできないことも聞かされ「あまりにもみじめじゃないか」と白菊の搭乗員への同情と絶望感を覚えている。

特攻戦力が欠乏していた第5航空艦隊は、海軍記念日の5月27日深夜にも白菊を鹿屋と串良から夜間出撃させた。 この日、野原は通信室でアメリカ軍の無電を傍受していたが、やがてアメリカ軍駆逐艦や警備艇が「奇妙な物体がいくつか、海面上に見える」「海面すれすれの、30mぐらいの低空だが、それが何であるかよくわからない」「爆音が聞こえてきた。やはり飛行機かもしれない。Speed very slow, very very slow...」「太った雌鶏が空を飛んでいる。いや、あれはボギー(敵機)だ」「ボギーにしてはスピードが遅すぎる。先日も飛んできた。ボギーに間違いない」という無電を発したのを聞いている。

白菊隊は、駆逐艦ドレクスラーに突入した。ドレクスラーの乗組員からは、接近してくる白菊は時代遅れの練習機には見えず、操縦しているのも、経験を十分積んだ熟練操縦士のように見えたという。白菊のうち1機は、ドレクスラーの艦後部に突入してボイラー室と機械室を破壊し、航行不能に陥らせた。

このときドレクスラーが発したと思われる「敵機が突入してきた。甲板上大火災...至急救援たのむ」という無電を傍受した通信室の野原ら第5航空艦隊の将校たちは「突っ込んだんだ、白菊が。白菊だ。やったぞ」と歓喜している。 この後、ドレクスラーにはもう1機の白菊も突入し、たちまち転覆して沈没した。あまりに沈没が早かったため、乗組員158名が死亡、艦長を含む52名が負傷した。

その後も白菊は、沖縄戦終結後の1945年(昭和20年)6月25日まで、のべ115機が出撃し56機が未帰還となったが、1945年6月21日に輸送駆逐艦(高速輸送艦)バリー とLSM-1級中型揚陸艦のLSM-59の合計3隻を撃沈し、1945年(昭和20年)5月29日にシュブリック(駆逐艦)、1945年(昭和20年)6月21日に中型揚陸艦LSM-213の2隻を大破させ、その後両艦は修理が断念されて、スクラップとなった。

その他にも数隻を損傷させるなど、宇垣ら第5航空艦隊司令部の低い評価を覆す戦果を挙げている。通常は戦力とはならない練習機が、それも夜間攻撃で戦果を挙げている事に対して敵のアメリカ軍は警戒を強めており、夜間の特攻機はアメリカ軍が発射した対空砲火の曳光弾を辿って、艦の中央部にある煙突などの重要箇所に突っ込んでくるため、夜間の特攻機に対する各艦個別の発砲を禁じたほどであった。しかし、白菊は軽量化のために編隊長機にしか無線が搭載されておらず、日本軍は白菊特攻の戦果をほとんど把握できていなかった。

それでも、海軍は稼働機全てを特攻出撃させるつもりで、本土決戦でも大量の白菊を特攻出撃させる計画であったが、終戦により実現することはなかった。

白菊特攻で徳島空で56名、高知空で52名の合計108名が戦死した。責任を重く感じていた高知空司令の加藤秀吉大佐は、副官らが自決しないよう軍刀や拳銃を取り上げたにも関わらず、井戸に飛び込んで自決してしまった。徳島空でも3名の予備士官が自決した。 なかでも、中原一雄海軍中尉と長島良次海軍少尉は、徳島空の白菊特攻隊員に志願するも、出撃することなく終戦を終えたが、敗戦に強い衝撃と責任を感じており、部下の復員を見届けたのち、8月23日に、海軍の正装に着替えて、祖国の再興を願いながら基地内の防空壕の中で互いを目がけて機銃を撃ち合って自決している。

なお、TVドラマ「水戸黄門」の第14部から第21部まで9年間徳川光圀役を務めた俳優・西村晃は、徳島白菊隊の特攻隊員である。しかし、出撃機不良で基地に引き返し終戦を見届けた後に、8月23日を迎えた。また、この特攻隊での同僚には裏千家15代家元の千玄室がおり、西村の親友である。


ただでさえ攻撃能力の少ない練習機に重たい爆弾を積み、散っていった英霊達。

今年5月に訪れた詫間海軍航空隊跡。こちらでも偵察機として使われた古い水上飛行機で特攻作戦が実施され、この場所から飛び立った多くの若者が散っていた事を知り、涙したばかり。




戦争末期、本土決戦も覚悟しながら、無謀で狂った作戦を指令した旧軍部。

これらの戦争遺跡を見て、今生きる人達は、平和な時代に感謝し、二度とこのような過ちを犯さぬよう 日本国民一人一人が真剣に考えないといけないなあと、思いを強くしました。


いろいろな感情を抱き、ここを後にしました。

この日のお宿です。

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サザンシティ・ホテル。

何度か泊まったことのあるホテルでした。旧名がホリデイ・イン高知で、名前も変わり綺麗に改装されていました。

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お部屋だす。 うん、やっぱりここはイイ! (゚∀゚)アヒャ
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1泊朝食付プラン。

7700円のところ、例の全国旅行支援で△3080円、さらに”じゃらん”の獲得ポイント△1000円で、な、なんと!! 3620円!! ( ̄ー ̄)ニヤリッ

しかも地域クーポン3000円もゲッツ!!
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ありがたや、ありがたや (*゚▽゚*)

夜は・・

近くのスーパーで買ったお惣菜で・・

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この旅 最後の夜に、カンパ~~イ (・◇・)ゞ

このあと、おつまみ+焼酎の水割りで、いい気分になりましたよ~~。


<この日の走行距離>
1553km-1395km =158km
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<この日の走行ルート>
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- 続く -