前回記事の続きでやんす。v( ̄∇ ̄)v
王墓山古墳を見学したあと、善通寺市内に入り、そこから細い山道をクネクネ。
30分弱走り・・
とうちゃこ。('▽'*)ニパッ♪
ここは大麻山(おおさやま)キャンプ場。
無料のキャンプ場です。
ここに来るには、善通寺側からこの細いクネクネ山道を通るしかありません。
【瀬戸内海国立公園 大麻山園地案内図】
香川県・環境庁 2020.3
整備されたこのキャンプ場の横にあるのが、こちら!! ↓
ジャ~~ン


野田院古墳です!!
【野田院古墳後円部の内部構造模型】
3世紀末頃の古墳時代発生期につくられた野田院古墳。
立派に復元されたこの姿は圧巻でした!! やや来づらい場所なので、あまり知られていないような気もしますが、宮が尾古墳、王墓山古墳同様に一度は訪れて欲しい古墳ですね。(*゚∀゚)っ
こんなステキな場所でしたが、静かにキャンプを楽しまれている方がいた一方・・・
なにか見たことのない楽器を鳴らしていた女性二人組。
いくら昼間とはいえ、自然を楽しみに来られているキャンプ場で、楽器を演奏するってどうなんでしょうね!?
周囲にも聞こえる音量で、ラジオやプレーヤーで音楽他を鳴らすのも、他人迷惑っしょ。
楽器を奏でている本人たちは、悦に入って自然と同化している気分なんでしょうが、マナー違反に気づいていないんでしょうかねえ。(`ε´)ぶーぶー
この二人組がいなければ、もう少しここに居たかったのですが、早々に退散っす
グーグルマップのストリートビューで、この先(琴平方面)は行き止まりになっていたのは確認済みですが、行ってみました。
走り出して1.5kmほどで・・
フェンスが設置されて、この先通行止めです。
この横から登山道がのびていて、徒歩だと象頭山(ぞうずざん)、そして金刀比羅宮奥社~本宮に抜けれるみたいです。
しかたなく来た道を引き返します。
途中から脇道に入り、さらに細い山道をクネクネ。
この先 幹線道路に戻って帰路に
途中、こちらに立ち寄りましたよ。
【たかはた】さん
香川県綾歌郡綾川町羽床上133−4
たこ焼き屋さんですが、あたいがここでいただくのが・・
”たこ判”!!
たこ判!! みなさん、知ってる?
大判焼きの形をしていながら、中身はタコの入ったお好み焼きっす。
もともとは、香川県西部の仁尾町の「小前(こまえ)」さんが発祥の食べ物。
40年以上前にはじめて小前さんに行って、このたこ判を頂いた時は、それは感激でした。
美味しいのはもちろんのこと、小前さんのお母さんの心温まる接客が最高でした。 しかもボリュームがあって、めちゃ安かった覚えがあります。
お店は昔のままですが、今は代も変わって雰囲気は全然かわってしまいました。
さて、話を戻して ここ「たかはた」さんも、このたこ判を提供してくれるお店です。
焼き上がりというわけにはいきませんが、大きなタコはもちろんのこと、具材がたっぷりでめちゃ美味しいです。(*゚▽゚*)
これで250円って、サイコ~~でしょ!! .。゚+.(・∀・)゚+.゚
香川県のグルメといえば、讃岐うどん、骨付鳥が有名ですが、実は この”たこ判”が まだ世に認知されていない讃岐のソウルフードやと思いまんねやわ。 v( ̄∇ ̄)v
香川に来られた際は、”うどん”だけでなく”たこ判”も食べてみてね。
ちゅうことで、3月初旬のこの日のクロスカブ子ちゃんでのお出かけは、さぬきうどんを食べて、朝日山でお勉強して、三つ古墳巡りをして、たこ判でしめた 充実したツーリングでやんした。
お家到着時の走行距離:8521km。 ちゅうことで・・走行距離は、ほぼ100kmでやんした。(・∀・)
王墓山古墳を見学したあと、善通寺市内に入り、そこから細い山道をクネクネ。
30分弱走り・・
とうちゃこ。('▽'*)ニパッ♪
ここは大麻山(おおさやま)キャンプ場。
無料のキャンプ場です。
ここに来るには、善通寺側からこの細いクネクネ山道を通るしかありません。
【瀬戸内海国立公園 大麻山園地案内図】
善通寺市の南に位置する大麻山(おおさやま) (標高616m) から、 琴平山(標高524m) に広がる大麻山園地は、 瀬戸内海国立公園に位置します。
琴平山には金刀比羅宮奥社 (嚴魂-いずたま-神社)があり、 その先の琴平山中腹には金刀比羅宮御本宮があります。
大麻山の山頂部は平らな溶岩台地で、山頂広場からは瀬戸内海や丸亀平野が一望できるとともに、 約1kmに渡って800本あまりの八重桜が植えられた桜並木があります。
北西部には、 国指定史跡有岡古墳群の野田院古墳や、キャンプ場が整備されています。
香川県・環境庁 2020.3
整備されたこのキャンプ場の横にあるのが、こちら!! ↓
ジャ~~ン



野田院古墳です!!
【野田院古墳後円部の内部構造模型】
善通寺市では昭和57年度に実施された王墓山古墳の緊急発掘調査を契機に、市内の代表的な6基の古墳が有岡古墳群として国の史跡に指定されました。 そして昭和61年度から平成3年度まで王墓山古墳の、平成4年度から平成8年度まで宮が尾古墳の保存整備事業を実施しました。
続けて平成9年度から平成14年度にかけて野田院古墳の保存整備事業を実施しました。 野田院古墳は石を積んで造った前方後円墳です。 このような古墳は積石塚と呼ばれており、 香川県を中心に瀬戸内海沿岸部に多く分布していますが、 内部構造まで解明するような大規模な発掘調査や解体復元工事は国内でも初の試みでした。
もとの姿をとどめる部分をできるだけ残すため、墳丘の調査は解体修理を行う範囲に限りましたが、これまでに知られていなかった優れた土木技術や知識によって造られていることが判明しました。
一番驚いたことは斜面部分の基礎の構造です。後円部は平らに整えられた尾根の上から一部急な斜面にかけて造られています。 平坦な部分の内部には小型の石材を詰めていますが、 傾斜部では内部に詰めてある石材は比較的大きく扁平なものが多く、 地山と逆の向きに連続して立て、整然と配置しています。これは斜面部分の石材が下方に滑り出すことを防ぐことが目的と思われます。 傾斜部に石材を高く積み上げた時に、崩れにくい積み方を知っていたようです。 このような工法で後円部の基盤が丈夫に造られています。 左の石貼りはその断面模型です。
調査では構築の工程まで知ることができ、 そこで得られた資料によって野田院古墳を構築された当時の姿に蘇らせることができました。
【野田院古墳保存整備事業】
昭和59年11月29日に有岡古墳群が国の史跡指定を受けた後、 最初に王墓山古墳、続いて宮が尾古墳の保存整備事業を実施し、平成9年度からは野田院古墳の発掘調査と保存整備事業に着手しました。
発掘調査は平成13年度まで実施し、 平成12年度からはじまった保存整備工事は平成14年度に竣工しました。 積石塚の内部構造まで調べる発掘調査や解体修理・保存整備は国内でも初めての試みでしたが、 古墳の内部構造や構築の工程まで知ることができました。
野田院古墳が造られた時の集落は今の善通寺市街地の辺りで標高は約30m、野田院古墳は標高400m付近にあり、全国で最も比高差(ひこうさ)のある場所に造られた古墳としても知られています。 付近には視界をさえぎる山も少なく、 古墳からは丸亀平野・三豊平野・瀬戸内海はもちろんのこと、遠く吉備(岡山)・で展望できます。 展望台からご覧ください。
ちゅうことで・・
展望台からの景色ですが・・・
いまひとつかな?? (゚∀゚)アヒャ
ちゅうことで・・
展望台からの景色ですが・・・
いまひとつかな?? (゚∀゚)アヒャ
<作業工程1>
最初に古墳を構築する場所を決めます。 野田院古墳の場合は見晴らしのいい尾根が選ばれました。
まず尾根の上を平らに整えることから始めますが、その周囲には急な斜面が残ります。 平坦部から一部傾斜部にかけて後円部の円を設定し、これに沿って石材を配置しています。
<作業工程2>
次にその内側に石材を詰めます。 平坦部では小型の石材を詰めていくだけですが、 傾斜部では内部に詰める石材は比較的大きく扁平なものが多く、 地山と逆の向きに連続して立て、整然と配置しています。 これは斜面部分の石材が下方に滑り出すことを防ぐことが目的と思われます。 傾斜部に高く石材を積み上げる際に、崩れにくい積み方を知っていたようです。 この工程で後円部の基礎を水平に仕上げています。
<作業工程 3>
作業工程2で造られた平坦部の上に二基の石室を造り 始めます。 まず石室を造る部分に細かい石を敷き詰め、この上に荒い粘土を敷き、 石室最下段の石材を配置します。 次に粘土床用の細かい粘土を敷いています。 この粘土は石室の床面だけでなく、石室最下段の石材を包むようにその外側にも及んでいます。この粘土の中から多数のガラス小玉が出土しました。 通常の副葬品ではなく祭記遺物だったようです。
石室の四方の壁を積み上げながら後円部周囲の壁も同様に高く積み、 その間に石材を詰めていきます。 後円部の一段目は石室の下半分が積み上がった段階で完成します。 この作業工程は解体修理の時に後円部の断面で確認できました。
<作業工程4>
次に後円部一段目の上に二段目を造り始めますが、この時に前方部の一部を坂道状に造っています。 古墳を造る場所を決めるにあたっては、その材料となる石材の取りやすさも大きく影響したと思われますが、 野田院古墳の北東のある尾根付近には石材の露頭地があり、尾根伝いに運び降ろしたものと考えられます。 前方部は土でできていますが、 くびれ部でその断面を見ると後円部の1段目の高さで前方部側にゆっくり下る面が確認できます。 墳丘 (後円部) へと石材を運びやすくするための坂道が造られていたようです。 この作業道を利用して重い石材を運び上げたようです。
二段目は一段目よりひとまわり小さくし、まわりに平坦な段を造っています。 造り方は一段目と同じで、石室の四方の壁が完全に積み上がった高さで後円部の二段目が完成しています。
<作業工程5>
ここで石室に巨大な石で蓋をします。 この蓋石を覆い隠すため、この上には更に多くの石が積まれていたようですが、 後円部の三段目は完全に崩れていたためもとの形は不明です。
最後に作業道としての使用が終わった前方部を完成させ、その表面に石を葺き古墳が完成します。
後円部の北西側は不安定な斜面にはみ出ています。後円部を作る場所をここから少し南東に移せば、 全体を平坦な場所に作ることができたはずです。 傾斜部に造られた後円部の側面はとても高い壁になっていて、しかも平野の方に向いています。 皆が生活する場所からよく目立つように考えたようです。
【積石塚】
古墳の中には土の代わりに川原石(かわらいし)や山石を積み上げて造った「積石塚」と呼ばれるものがあります。 瀬戸内海沿岸部には香川県を中心に、古墳発生期から前期にかけて造られた数多くの積石塚が分布していることが知られています。
この他には長野県を中心に分布する古墳時代後期から終末期にかけて造られた積石塚が知られている程度で、 全国的には分布していません。
朝鮮半島にも同様の積石塚が認められることから、渡来人が伝えたとする「外来説」と、日本で独自に発生したとする「自生説」 がありますが、香川県では白鳥町の成重遺跡 (弥生時代中期)や善通寺市の稲木遺跡 (弥生時代後期)で集石墓が確認されており、 積石塚は古代の讃岐で発生したのではないかと考えられています。 これは讃岐地方に古式の積石塚が多く残ることとも符合します。
野田院古墳では保存整備工事に伴う墳丘積石内部の発掘調査によって、優れた土木技術を用いて構築していたことが判明しました。 讃岐地方の積石塚で内部構造が明らかになったのは初めてのことです。 弥生時代の集石墓は平地にあります。 また、川原石(かわらいし)を積み上げた簡単な構造であり、短時間で技術が発達するとは考えにくいことから、 自生説とともに高句麗の積石塚の構築技術の伝来も考える必要があるかも知れません。
前回記事の王墓山古墳では、九州や大和政権との交流(人流)も書かれていましたが、王墓山古墳よりさらに時代がさかのぼるこちらの野田院古墳の時代に、朝鮮半島との技術の伝来が書かれているって、当時のことを考えるだけでワクワクしてきますよね。(´∀`*)
前回記事の王墓山古墳では、九州や大和政権との交流(人流)も書かれていましたが、王墓山古墳よりさらに時代がさかのぼるこちらの野田院古墳の時代に、朝鮮半島との技術の伝来が書かれているって、当時のことを考えるだけでワクワクしてきますよね。(´∀`*)
【古墳時代 Kofun Period (ca.300-700AD) 】
善通寺市は瀬戸内海に面し、 温暖な環境で生活しやすい場所であったことから、古くから大勢の人が住み、 独自の文化を育んできました。 少なくとも旧石器時代の終わり頃 (2~3万年前)には人々の生活が始まり、弥生時代には大きな集落が誕生していたことが明らかになっています。
弥生時代の終わり頃 (3世紀後半) になると集落はさらに発展し、政治的に人々をまとめる有力者が登場します。 この有力者は豪族と呼ばれ、人々は豪族が亡くなると大きな墓を造って葬るようになりました。
やがて各地の国は大和の大王家を中心に統合され、 前方後円墳という大王墓にならった墓を造るようになります。 大きな墓は仏教が伝わり火葬が始まる7世紀初め頃まで造られました。 この大きな墓を古墳と呼び、古墳が造られた時代が古墳時代です。
古墳の墳丘や石室を調べると、驚くほどすぐれた土木技術があったことがわかります。また、 死者にそなえられた副葬品からは当時の生活の様子や、どのような工芸技術があったのかがわかります。
3世紀末頃の古墳時代発生期につくられた野田院古墳。
立派に復元されたこの姿は圧巻でした!! やや来づらい場所なので、あまり知られていないような気もしますが、宮が尾古墳、王墓山古墳同様に一度は訪れて欲しい古墳ですね。(*゚∀゚)っ
こんなステキな場所でしたが、静かにキャンプを楽しまれている方がいた一方・・・
なにか見たことのない楽器を鳴らしていた女性二人組。
いくら昼間とはいえ、自然を楽しみに来られているキャンプ場で、楽器を演奏するってどうなんでしょうね!?
周囲にも聞こえる音量で、ラジオやプレーヤーで音楽他を鳴らすのも、他人迷惑っしょ。
楽器を奏でている本人たちは、悦に入って自然と同化している気分なんでしょうが、マナー違反に気づいていないんでしょうかねえ。(`ε´)ぶーぶー
この二人組がいなければ、もう少しここに居たかったのですが、早々に退散っす

グーグルマップのストリートビューで、この先(琴平方面)は行き止まりになっていたのは確認済みですが、行ってみました。
走り出して1.5kmほどで・・
フェンスが設置されて、この先通行止めです。
この横から登山道がのびていて、徒歩だと象頭山(ぞうずざん)、そして金刀比羅宮奥社~本宮に抜けれるみたいです。
しかたなく来た道を引き返します。
途中から脇道に入り、さらに細い山道をクネクネ。
この先 幹線道路に戻って帰路に

途中、こちらに立ち寄りましたよ。
【たかはた】さん
香川県綾歌郡綾川町羽床上133−4
たこ焼き屋さんですが、あたいがここでいただくのが・・
”たこ判”!!
たこ判!! みなさん、知ってる?
大判焼きの形をしていながら、中身はタコの入ったお好み焼きっす。
もともとは、香川県西部の仁尾町の「小前(こまえ)」さんが発祥の食べ物。
40年以上前にはじめて小前さんに行って、このたこ判を頂いた時は、それは感激でした。
美味しいのはもちろんのこと、小前さんのお母さんの心温まる接客が最高でした。 しかもボリュームがあって、めちゃ安かった覚えがあります。
お店は昔のままですが、今は代も変わって雰囲気は全然かわってしまいました。
さて、話を戻して ここ「たかはた」さんも、このたこ判を提供してくれるお店です。
焼き上がりというわけにはいきませんが、大きなタコはもちろんのこと、具材がたっぷりでめちゃ美味しいです。(*゚▽゚*)
これで250円って、サイコ~~でしょ!! .。゚+.(・∀・)゚+.゚
香川県のグルメといえば、讃岐うどん、骨付鳥が有名ですが、実は この”たこ判”が まだ世に認知されていない讃岐のソウルフードやと思いまんねやわ。 v( ̄∇ ̄)v
香川に来られた際は、”うどん”だけでなく”たこ判”も食べてみてね。

ちゅうことで、3月初旬のこの日のクロスカブ子ちゃんでのお出かけは、さぬきうどんを食べて、朝日山でお勉強して、三つ古墳巡りをして、たこ判でしめた 充実したツーリングでやんした。
お家到着時の走行距離:8521km。 ちゅうことで・・走行距離は、ほぼ100kmでやんした。(・∀・)