前回記事の続きです。
薬師寺から1.4km程北に
向かったのは、唐招提寺。
唐招提寺 南大門の南側に駐車場があります。
自動車は有料ですが、バイク、自転車は無料だとか。
どこから入ったらいいの???
前のお土産物屋さんに聞くと、駐車場ゲートの横の隙間から入り、ゲートすぐの駐輪所置き場にとめるといいそうな・・。
はじめてきた人はわからんよね~~(^^;
南大門で拝観料を支払います。
拝観料1000円な~~り。
いいお値段しますね~~(^^;
どの仏像(如来、菩薩、天の像)も直に見ると、ほんと ありがたみを感じます。
金堂奥(北側)の講堂。
薬師寺から1.4km程北に
向かったのは、唐招提寺。
唐招提寺 南大門の南側に駐車場があります。
自動車は有料ですが、バイク、自転車は無料だとか。
どこから入ったらいいの???
前のお土産物屋さんに聞くと、駐車場ゲートの横の隙間から入り、ゲートすぐの駐輪所置き場にとめるといいそうな・・。
はじめてきた人はわからんよね~~(^^;
南大門で拝観料を支払います。
【唐招提寺】 Toshodaiji Temple, Nara
古都奈良のお寺の中でも、唐招提寺は火災などの被害が比較的少なく、創建当初の建物が多く残っています。 金堂は奈良時代 (780年頃)に建立された現存する唯一の本格的な金堂遺構として、寺院建築の研究にも非常に貴重な存在です。 同様に、朝廷から朝集殿を移築した講堂は、現存している唯一の平城宮建築例です。 日本人僧侶を教育するために、そして国内で仏教をさらに広めるために、聖武天皇が唐から招待した中国人僧侶の鑑真和上が、唐招提寺を759年に建立しました。 仏教の導入に鑑真は多大なる影響を与え、唐招提寺における鑑真の教えは、その過程において重要であったと考えられます。 南大門を通り伽藍に入ると、参拝道が真っ直ぐ金堂に続き、落ち着いた色合いの大きくて延びやかな屋根が見えます。 均衡のとれたその美しい軒を支える太い8本の円柱は、アテネのパルテノン神殿に比べられるほどです。 素晴らしい外観とともに、金堂の中には仏教的な宇宙観を現す盧舎那仏坐像など、9体の仏像が安置されています。 その中でも1000本の腕を持つ千手観音像は、木造のものでは国内最大最古のひとつです。
いいお値段しますね~~(^^;
【唐招提寺】 TOSHODAIJI-TEMPLE
唐招提寺は天平宝字三年(759)、唐の高僧鑑真大和上によって創建されました。 鑑真大和上は聖武天皇の願いに応えて来朝を決意されました。
井上靖の名作『天平の甍』 にもあるように、五度の失敗にも屈することなく来日してわが国に戒律を伝え、大和上の称号を賜りました。 その後、戒律を学ぶ道場として、当寺が創立されました。 以来千二百五十年、律宗総本山としてその法灯を今に伝えています。 金堂は代表的な天平建築です。
【鑑真大和上と唐招提寺】
鑑真和上は六八八年に中国揚州で誕生、十四歳の時、揚州の大雲寺で出家されました。 二十一歳で長安実際寺の戒壇で弘景律師に授戒を受けたのち、揚州大明寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽に並ぶ者のない律匠と称えられました。七四二年に日本からの熱心な招きに応じ渡日を決意されましたが、当時の航海は極めて難しいもので、鑑真和上は五度の失敗を重ね盲目の身となられました。 しかし和上の意志は堅く、七五三年十二月、六度目の航海で遂に来朝を果たされました。
翌年和上は東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武太上天皇をはじめ四百余人の僧俗に戒を授けました。これは日本初の正式授戒です。鑑真和上は東大寺で五年を過ごされたのち、七五八年大和上の称号を賜わりました。あわせて右京五条二坊の地、新田部 (にたべ)親王の旧宅地を賜わり、天平宝字三年(七五九) 八月戒律の専修道場を創建されました。これが 現在の律宗総本山唐招提寺のはじまりです。
<金堂> [国宝] 奈良時代(8世紀後半) 寄棟造・本瓦葺
南大門を入り参道の玉砂利を踏み締めて進むと、誰もが眼前に迫る金堂の偉容に圧倒されます。豊かな量感と簡素な美しさを兼ね備えた天平様式、正面に並ぶ八本のエンタシス列柱の吹き放ちは、遠くギリシャの神殿建築技法がシルクロードを越え、日本まで伝来したかのように感じさせます。会津八一は「大寺のまろき柱の月かげを土に踏みつつものをこそ思え」と詠み、井上靖は和上の生涯を『天平の甍』と題した小説に書き、その名を世に広めました。 内陣には像高三メートルに及ぶ盧舎那仏(るしゃなぶつ)を中央に巨大な三尊 [乾漆造(かんしつづくり) 国宝]が居並び、厳粛な空間を生み出しています。本尊・盧舎那仏坐像(大仏)は宇宙の中心、釈迦の本地仏として中尊に、その東方に現世の苦悩を救済する薬師如来立像、西方に理想の未来へ導く十一面千手観世音菩薩立像が配されています。本尊の脇士には等身の梵天・帝釈天立像 [木造 国宝]が従い、須弥壇 (しゅみだん) 四隅には四天王立像[木造 国宝]が諸尊を守護しています。創建以来の天平金堂と、内陣の九尊が織り なす曼荼羅世界は、参拝者を魅了せずにはおかないでしょう。
<講堂> [国宝] 奈良時代(8世紀後半) 入母屋造・本瓦葺
講堂は、和上が当寺を開創するにあたり平城宮東朝集殿を朝廷より賜り移築したもので、平城宮唯一の宮殿建築の遺構です。 本尊弥勒如来坐像 [鎌倉時代 木造 重要文化財] は釈迦牟尼仏の後継で、将来必ず如来として出現し法を説くとされます。そのため通常は菩薩像ですが、本像は如来像として表現され、金堂の三尊と合わせて顕教四仏となる古式で配列されています。持国・増長の二天[奈良時代 国宝]も講堂内部に共に配されます。
<鼓楼> [国宝] 鎌倉時代 仁治元年(一二四〇) 楼造入母屋造本瓦葺
瀟酒(しょうしゃ)な重層の建物で、本来は経楼とみられますが、鎌倉時代に再建されたのち鼓楼と呼称されたようです。一階に和上将来の三千粒の仏舎利を安置しているところから「舎利殿」とも称されます。毎年五月十九日には、鎌倉時代戒律を復興した大悲菩薩覚盛上人(かくじょうしょうにん)の中興忌(うちわまき会式)が行われ、法要後、楼上からハート型の宝扇がまかれます。この鼓楼と対をなす建造物として鐘楼があり、当初の建物は残っていませんが、梵鐘 [重要文化財]は平安初期の数少ない遺例でたいへん貴重なものです。
<礼堂・東室> [重要文化財] 鎌倉時代 弘安七年(一二八四) 入母屋造・本瓦葺
南北に長い建物で、従来は僧侶の起居した僧坊でした。 講堂を中心に西と北にもそれぞれ建物があり、三面僧坊と呼ばれていましたが礼堂・東室のみが現存しています。 中央の馬道(めどう)と呼ばれる通路で南北に分けられ、南半分の礼堂は解脱上人貞慶(げだっしょうにんじょうけい)が始修された「釈迦念仏会」の会場に改められました。この法要では和上将来の仏舎利・金亀舎利塔(きんきしゃりとう) [国宝]が本尊として礼拝されますが、平素は清涼寺式釈迦如来立像[鎌倉時代 重要文化財]が安置されています。
<戒壇> 石段のみ鎌倉時代
金堂の西側にある戒壇は、僧となるための授戒が行われる場所です。創建時に築かれたとされていますが、中世に廃され、その後再興されたものの火災により建物は失われました。 現在は、三段の石段のみが残り、その上に昭和五十三年(一九七八)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれました。
<宝蔵・経蔵> [ともに国宝] 奈良時代(8世紀) 校倉・寄棟造・本瓦葺
礼堂の東側に並んで建つ校倉(あぜくら) 様式の建物で、北に位置し一回り大きい方が宝蔵です。南にある小さいほうの経蔵は、唐招提寺が創建されるより前にあった新田部親王邸 の米倉を改造したものといわれ、日本最古の校倉です。
<御影堂> [重要文化財] 江戸時代
もと興福寺別当寺院、一乗院の宸殿と殿上の遺構で、昭和三十八年(一九六三)に移築復元して鑑真和上坐像[国宝]を納め御影堂としたものです。昭和五十年には東山魁夷画伯による障壁画が揮毫奉献され、和上の像を奉安する静寂な宸殿に、一層の荘厳さをもたらしました。毎年六月六日の開山忌舎利会の際、前後三日間だけ御影堂内が公開され、鑑真和上像を参拝することができます。
<開山堂と鑑真大和上御身代り像>
開山堂は元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立され、その後明治十四年(一八八一)に鑑真大和上のお像を安置するため現在の位置へ移築されました。国宝の和上像が御影堂へ移されたのち、覚盛上人・聖武天皇・徳川家康を安置した本願殿として参拝されていましたが、 この度、御堂の老朽化をうけて改修工事を行い、鑑真大和上円寂から一二五〇年になる平成二十五年(二〇一三)、大和上のお姿を写した「御身代わり像」がつくられ、再び開山堂として落慶致しました。
御身代わり像(御影像)は、年間数日しか開扉しない国宝の和上像に代わって、毎日参拝していただく目的で製作したものです。この像は奈良時代の脱活乾漆技法(特に国宝和上像)を忠実に踏襲した模造で、平成十二年から始まった金堂の盧舎那仏修理時に得られた知見も生かされております。彩色は、国宝の和上坐像が江戸時代末期の火災で被った形跡を排除して、両頬や上衣、袈裟に残る当初の部分を再現し、正倉院に伝来する伎楽面と同様、荏胡麻(えごま)油を表面に塗布しました。これも今回の模造過程で国宝坐像を調査して判明した新知見です。
<金堂> [国宝] 奈良時代(8世紀後半) 寄棟造・本瓦葺
南大門を入り参道の玉砂利を踏み締めて進むと、誰もが眼前に迫る金堂の偉容に圧倒されます。豊かな量感と簡素な美しさを兼ね備えた天平様式、正面に並ぶ八本のエンタシス列柱の吹き放ちは、遠くギリシャの神殿建築技法がシルクロードを越え、日本まで伝来したかのように感じさせます。会津八一は「大寺のまろき柱の月かげを土に踏みつつものをこそ思え」と詠み、井上靖は和上の生涯を『天平の甍』と題した小説に書き、その名を世に広めました。 内陣には像高三メートルに及ぶ盧舎那仏(るしゃなぶつ)を中央に巨大な三尊 [乾漆造(かんしつづくり) 国宝]が居並び、厳粛な空間を生み出しています。本尊・盧舎那仏坐像(大仏)は宇宙の中心、釈迦の本地仏として中尊に、その東方に現世の苦悩を救済する薬師如来立像、西方に理想の未来へ導く十一面千手観世音菩薩立像が配されています。本尊の脇士には等身の梵天・帝釈天立像 [木造 国宝]が従い、須弥壇 (しゅみだん) 四隅には四天王立像[木造 国宝]が諸尊を守護しています。創建以来の天平金堂と、内陣の九尊が織り なす曼荼羅世界は、参拝者を魅了せずにはおかないでしょう。
(↑唐招提HPより)
どの仏像(如来、菩薩、天の像)も直に見ると、ほんと ありがたみを感じます。
<講堂> [国宝] 奈良時代(8世紀後半) 入母屋造・本瓦葺
講堂は、和上が当寺を開創するにあたり平城宮東朝集殿を朝廷より賜り移築したもので、平城宮唯一の宮殿建築の遺構です。 本尊弥勒如来坐像 [鎌倉時代 木造 重要文化財] は釈迦牟尼仏の後継で、将来必ず如来として出現し法を説くとされます。そのため通常は菩薩像ですが、本像は如来像として表現され、金堂の三尊と合わせて顕教四仏となる古式で配列されています。持国・増長の二天[奈良時代 国宝]も講堂内部に共に配されます。
↑と、ありましたが・・
Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン
帰ってから調べてみると・・
仕方ありませんね。(;´Д`)
講堂奥(北)にすすみます。
開山堂。
<開山堂と鑑真大和上御身代り像>
唐招提寺拝観料1000円とは別に、200円の拝観料がいるのね。(;´Д`)
パス!! (^^;
そして宝蔵、経蔵。
駐車場まで戻ってきて、次に向かいます。
薬師寺、唐招提寺を見終わり、この時am10時半過ぎ。 徐々に気温が高くなってきました。Σ(´д`;)
-続く-
・
↑と、ありましたが・・
Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン
帰ってから調べてみると・・
(↑ 唐招提寺X(旧ツィッター)より)
仕方ありませんね。(;´Д`)
講堂奥(北)にすすみます。
開山堂。
(↑唐招提HPより)
<開山堂と鑑真大和上御身代り像>
開山堂は元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立され、その後明治十四年(一八八一)に鑑真大和上のお像を安置するため現在の位置へ移築されました。国宝の和上像が御影堂へ移されたのち、覚盛上人・聖武天皇・徳川家康を安置した本願殿として参拝されていましたが、 この度、御堂の老朽化をうけて改修工事を行い、鑑真大和上円寂から一二五〇年になる平成二十五年(二〇一三)、大和上のお姿を写した「御身代わり像」がつくられ、再び開山堂として落慶致しました。
御身代わり像(御影像)は、年間数日しか開扉しない国宝の和上像に代わって、毎日参拝していただく目的で製作したものです。この像は奈良時代の脱活乾漆技法(特に国宝和上像)を忠実に踏襲した模造で、平成十二年から始まった金堂の盧舎那仏修理時に得られた知見も生かされております。彩色は、国宝の和上坐像が江戸時代末期の火災で被った形跡を排除して、両頬や上衣、袈裟に残る当初の部分を再現し、正倉院に伝来する伎楽面と同様、荏胡麻(えごま)油を表面に塗布しました。これも今回の模造過程で国宝坐像を調査して判明した新知見です。
この平成御影像も国宝和上像と同じく、大和上の遺徳を永く伝えていく拠所となります。
鑑真和上。 既述のとおり「七四二年に日本からの熱心な招きに応じ渡日を決意されましたが、当時の航海は極めて難しいもので、鑑真和上は五度の失敗を重ね盲目の身となられました。 しかし和上の意志は堅く、七五三年十二月、六度目の航海で遂に来朝を果たされました。」と。
仏教界ならず、日本人の倫理観にも大きな影響を与えたと言える人なのではないでしょうか。
それしにても、当時の渡航は命がけだったんですね。
入口の南大門から一番奥(北東)の奥まった場所に、鑑真和上の墓所となる鑑真和尚御廟(ごびょう)があるみたいです。
行ってみましょう。
東西にはしる土屏の奥にそれはあります。
門をくぐると、すばらしい苔がひろがっていました。
開山御廟(かいざんごびょう)。
金堂、講堂他の伽藍の参拝者は大勢いらっしゃいましたが、こちらまでお参りされている方が少なかったのは残念です。
手を合わせ、南大門の方にもどります。
新寶(宝)蔵。鑑真和上。 既述のとおり「七四二年に日本からの熱心な招きに応じ渡日を決意されましたが、当時の航海は極めて難しいもので、鑑真和上は五度の失敗を重ね盲目の身となられました。 しかし和上の意志は堅く、七五三年十二月、六度目の航海で遂に来朝を果たされました。」と。
仏教界ならず、日本人の倫理観にも大きな影響を与えたと言える人なのではないでしょうか。
それしにても、当時の渡航は命がけだったんですね。
入口の南大門から一番奥(北東)の奥まった場所に、鑑真和上の墓所となる鑑真和尚御廟(ごびょう)があるみたいです。
行ってみましょう。
東西にはしる土屏の奥にそれはあります。
門をくぐると、すばらしい苔がひろがっていました。
開山御廟(かいざんごびょう)。
金堂、講堂他の伽藍の参拝者は大勢いらっしゃいましたが、こちらまでお参りされている方が少なかったのは残念です。
手を合わせ、南大門の方にもどります。
唐招提寺拝観料1000円とは別に、200円の拝観料がいるのね。(;´Д`)
パス!! (^^;
そして宝蔵、経蔵。
<宝蔵・経蔵> [ともに国宝] 奈良時代(8世紀) 校倉・寄棟造・本瓦葺
礼堂の東側に並んで建つ校倉(あぜくら) 様式の建物で、北に位置し一回り大きい方が宝蔵です。南にある小さいほうの経蔵は、唐招提寺が創建されるより前にあった新田部親王邸 の米倉を改造したものといわれ、日本最古の校倉です。
駐車場まで戻ってきて、次に向かいます。
薬師寺、唐招提寺を見終わり、この時am10時半過ぎ。 徐々に気温が高くなってきました。Σ(´д`;)
-続く-
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