「屋島へおでかけ」の最終回ざんす。
長々とお付き合いいただき、ありがとうございます。
やっとみつけた「屋島城跡 城門」の案内板。
屋島を北嶺から反時計まわりに周ったので、ここが最後になっちゃった(^^;
矢印方向に進むと・・。
また、源平合戦のとき檀の浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため、 池の水が赤くなり血の池とも呼ばれるようになりました。
この池が血で真っ赤に染まったかと思うと・・・。 Σ( ̄ロ ̄|||)オトロシヤ
背筋がゾクゾク・・・。
さらに (((( ;゚д゚)))
は、廃墟・・・。
たしか、昔はこのあたりが屋島一番の景勝地やったんちゃうかったっけ?
この廃墟が屋島で一番大きな観光ホテルやったような・・。
向こう側のお土産物屋さん(これまた閉鎖)の「イイダコのおでん」が旨かった覚えがありまんねやわ。
軒下には、たしか ヤマハの2st原付スクーター「チャンプ」!
38年前 黒色のチャンプを足にしてました(^^;
つ、ついた~~~~。
屋島城城門!!
「ありし日のたかまつ」
古くはこの屋島の南側の辺りが「たかまつ」と呼ばれた地域で、様々な記録によれば、ありし日の屋島周辺は「たかまつ」の玄関口 だったことが分かります。
飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。
白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇(=中大兄皇子)は防衛網の再構築および強化に着手した。百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、岡山など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。
で、ですよ。
ちょっとひっかかっていたところがあるんよね・・。
白村江での敗戦を機に、国防目的にこれだけ多くの古代山城を築いたと記されているんやけど、天智天皇は白村江での敗戦以降 唐に使者を何回も遣わして友好関係を築こうとしてるんよね。
片や唐・新羅の防衛策をとりながら、唐への友好関係・・・。 どこか腑におちないんよね。
で、いろいろ調べてみると、従来の説に異を唱える記事をみつけました。
以下 ブログ「なかちゃんの断腸亭日常」からの抜粋、引用です。
「・・・(略)・・・
そしてもう一つの烽火は、わが国最初の燈台とも云われる。山頂で数カ所に分けて火を焚き、その光点の数で信号の意味を伝え合った。昼間は煙を出し、夜は炎を上げることで航海進路の目標にした。信号は四六時中出され、オオカミの糞を乾燥させて火に投じると白煙がよく立つことから、「狼煙」と書いて「のろし」と云われるようになった。
そして国内政治として、敗戦の不満をつのらせた豪族たちに、私有民を認める甲子の宣(かっしのせん)を出し、さらに都を大和から琵琶湖畔の大津に遷都した。この地で中大兄皇子は天智天皇として即位し、672年にこの地で病死している(享年46歳)。白村江の戦いからわずか10年、彼の後半生は戦後処理と対唐・対新羅外交、そして国内政治の安定化に費やされている。
618年に隋を滅ぼした高祖によって建国された唐、領土は西方のアラル海から朝鮮半島まで拡がり、世界史上稀にみる一大帝国だ。国家の基礎となる律令体制を完成させ、周辺の異民族にはこの羈縻支配体制を実行していった。
氏は次のように説明する。
しかしこの同盟関係は長続きしなかった。新羅は唐に反旗を翻し、唐の勢力をも一掃し朝鮮半島を統一した(676)。唐による旧百済の羈縻支配体制は崩壊し、それと同時に日本からの撤退も余儀なくされた。こういう経過で、都督庁として築かれた朝鮮式山城は早々と廃城になったのだ。
その後、唐の羈縻政策から解放された天智天皇は、遷都された大津京で律令体制の基礎となる「近江令」を発布し中央集権化を推し進めた。強力なリーダーシップで戦後を乗りきろうとした天智は、太平洋戦争後の吉田茂のような存在だったのかもしれない。
10年間の天智朝(662~671)は、戦争と戦後処理に終始した激動の時代だった。唐の支配に屈しながらも、大和民族の生き残りをかけ、悪戦苦闘した天智天皇の姿が浮かびあがってくる。
うん、なるほど~~~。
何かひっかかていたものが、これだと理屈が合う気がしましたが、真実は・・・???
お勉強になりました
これは、城内への侵入を妨げるのに加えて、この周辺で警備する兵士が敵に横(死角)から攻撃するのに適した構造【甕城】になっています。
ちかれたび~~~ (´;ω;`)
屋島って、見所いっぱい!
古代山城、源平合戦、絶景 瀬戸内風景、四国八十八ヶ所八十四番札所 屋島寺+スーパー狸さんの蓑山大明神 屋島太三郎狸、水族館、登山道、・・・
あらためて屋島の魅力に触れました。
残念なことは、これだけいろんな魅力あるコンテンツを持ちながら、現地にこれらを知らせる情報が乏しいこと。
山上駐車場横に、情報発信のホールがあればいいのに・・・。
それとあちこちにある案内板の整合性がとれていないこと。
一度見直した方がいいのになあ・・。
14時30分までお昼ご飯も食べず、歩きまわっていました。
腹減ったあ・・・('A`|||)
下山し、ひさしぶりに横浜家系ラーメンを食べに行ったら定休日・・・。
しかたなく目の前のうどん屋さんで。
「肉ぶっかけうどん+生卵」。
満足、満足の1日でやんした
長々とお付き合いいただき、ありがとうございます。
やっとみつけた「屋島城跡 城門」の案内板。
屋島を北嶺から反時計まわりに周ったので、ここが最後になっちゃった(^^;
矢印方向に進むと・・。
「瑠璃宝の池(血の池)」
屋島寺伽監草創のおり弘法大師が「遍照金剛、三密行所、当都率天、 内院管門」と書き、宝珠とともにおさめ周囲を池としました。ところが 竜神が宝珠を奪いに来ると伝えられ瑠璃宝の池の名があります。
また、源平合戦のとき檀の浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため、 池の水が赤くなり血の池とも呼ばれるようになりました。
この池が血で真っ赤に染まったかと思うと・・・。 Σ( ̄ロ ̄|||)オトロシヤ
背筋がゾクゾク・・・。
さらに (((( ;゚д゚)))
は、廃墟・・・。
たしか、昔はこのあたりが屋島一番の景勝地やったんちゃうかったっけ?
この廃墟が屋島で一番大きな観光ホテルやったような・・。
向こう側のお土産物屋さん(これまた閉鎖)の「イイダコのおでん」が旨かった覚えがありまんねやわ。
軒下には、たしか ヤマハの2st原付スクーター「チャンプ」!
38年前 黒色のチャンプを足にしてました(^^;
つ、ついた~~~~。
屋島城城門!!
「ありし日のたかまつ」
屋島が島だったことを皆さんはご存知でしょうか。
今からは想像もできませんが、ここから見える景色は入海でした。
右手のサンポート高松から南東方向に海が湾入し、琴電長尾線の林道駅のあたりから東に向かって海岸線が走っていたと考えられています。
古くはこの屋島の南側の辺りが「たかまつ」と呼ばれた地域で、様々な記録によれば、ありし日の屋島周辺は「たかまつ」の玄関口 だったことが分かります。
きっと屋島の麓を様々な船が行き 交っていたことでしょう。
皆さんも、いにしえの人々が見た古・高松湾の情景を想像してみてください。
「屋島城(やしまのき)とは」
663年の白村江の戦いでの敗戦後、国防の危機に際して、 中大兄皇子は倭国(当時の日本の呼称)を守るために、九州から瀬戸内海にかけて山城を築かせました。屋嶋城はその一つで、日本の 史書である『日本書紀』にその名が記されています。
先般の古代山城 城山をおとずれた際に「古代山城」について調べたこと。
先般の古代山城 城山をおとずれた際に「古代山城」について調べたこと。

広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。
狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。
当時、朝鮮半島では唐・新羅が連合軍を組み、百済を攻めた時代。
百済は友好国の日本(当時は倭国)に援軍を求め、軍事衝突。 白村江の戦いで、百済・倭国連合軍は大敗をきし、百済滅亡。
百済は友好国の日本(当時は倭国)に援軍を求め、軍事衝突。 白村江の戦いで、百済・倭国連合軍は大敗をきし、百済滅亡。

で、ですよ。
ちょっとひっかかっていたところがあるんよね・・。
白村江での敗戦を機に、国防目的にこれだけ多くの古代山城を築いたと記されているんやけど、天智天皇は白村江での敗戦以降 唐に使者を何回も遣わして友好関係を築こうとしてるんよね。
片や唐・新羅の防衛策をとりながら、唐への友好関係・・・。 どこか腑におちないんよね。
で、いろいろ調べてみると、従来の説に異を唱える記事をみつけました。

「・・・(略)・・・
帰還した中大兄皇子らは、対馬などに防人(さきもり)と烽火(とぶひ)を置き、筑紫に水城を築いた。
戦いで多くの西国兵が戦死したため、防人は主に遠い東国の兵が派遣された。任期は3年、往復の移動費や食料は自己調達だったため多くの民を苦しめたらしい。
そしてもう一つの烽火は、わが国最初の燈台とも云われる。山頂で数カ所に分けて火を焚き、その光点の数で信号の意味を伝え合った。昼間は煙を出し、夜は炎を上げることで航海進路の目標にした。信号は四六時中出され、オオカミの糞を乾燥させて火に投じると白煙がよく立つことから、「狼煙」と書いて「のろし」と云われるようになった。
しかしこの二つのシステムが、国防のために設置されたとするには無理がある。国防のためなら対馬・壱岐・筑紫ではなく、長門・吉備・難波など瀬戸内海から大和への経由地に設置すべきだろう。当時の日本は敗戦国である。兵力や船団はほとんど失い、国力は衰え、朝鮮半島と北九州間の通信システムなどは全く必要ない。戦いの前であれば、このシステムは戦略上充分価値のあるものだろう。ましてや莫大な費用と人足をかけて築城するなんて余裕はない。
そして国内政治として、敗戦の不満をつのらせた豪族たちに、私有民を認める甲子の宣(かっしのせん)を出し、さらに都を大和から琵琶湖畔の大津に遷都した。この地で中大兄皇子は天智天皇として即位し、672年にこの地で病死している(享年46歳)。白村江の戦いからわずか10年、彼の後半生は戦後処理と対唐・対新羅外交、そして国内政治の安定化に費やされている。
このように屋嶋城は、下と上で二重に防御された城になっている。近年の発掘調査では早々に廃城になった形跡もあり、1350年の積年にもかかわらず、築城時の遺構がよく残された城跡になっている。
短期間で廃城になったのはその必要性がなくなったのであろう。日本書紀によると、戦後まもなく唐や新羅の要人は何度も渡来し、また日本の使者も渡海している。両国間の関係には改善がみられ、特に2年後にはもう遣唐使が送られていて、国防のための築城は考えにくい。しかし実際は戦いの4年後に築城されている。
〈その5 朝鮮式山城の真相〉
そもそもの疑問、屋嶋城(やしまのき)はなぜ築城され、なぜ早々と廃城されたのか?
その回答を出してくれたのが『天智朝と東アジア』(中村修也著/NHKブックス)。
まず中村氏は唐の「羈縻支配体制」を指摘する。「羈縻(きび)」とは広辞苑によると、「馬の手綱と牛の引綱をつなぎとめること」、転じて「中国王朝が周辺の弱小民族に対する支配政策として、その有力者を懐柔し自治を許して間接統治したことをいう」となっている。
618年に隋を滅ぼした高祖によって建国された唐、領土は西方のアラル海から朝鮮半島まで拡がり、世界史上稀にみる一大帝国だ。国家の基礎となる律令体制を完成させ、周辺の異民族にはこの羈縻支配体制を実行していった。
氏は次のように説明する。
「唐は戦争で勝利していった周辺諸国に羈縻支配体制を敷く際に、都督府を設置する。外国に設置する都督府であるから、当然、防衛機能を持たせた施設となる。そのためには、自然地形を利用して、高所に築き、在地の抵抗勢力を監視する機能を持たせなければならない。おそらく日本各地の朝鮮式山城もそのような目的で築城が始まったと思われる。」
白村江の戦いは、百済救援のための対外戦争だったが、結果は多くの兵と船を失い惨敗した。それは太平洋戦争の敗戦にも似た国家的存亡の危機へと追い込まれた。国力は衰え、民は疲弊し、戦勝国・唐の支配からは免れなかった。戦後のGHQに占領されたように、唐の羈縻政策に従うほかなかった。従って、敗戦はしたが占領は受けず、唐と友好関係を保ち、律令体制を導入して国力を高めていったという定説は、願望的な楽観論でしかない。
そして古代山城が早々に廃城されたという理由は、朝鮮半島の情勢にあった。
唐の半島政策は、終止国境を接する強国の高句麗を滅ぼすことにあった。そして新羅は百済を滅ぼし半島を統一することにあった。そのため両国は連合し、まず百済を滅ぼし(660)、そして高句麗を滅ぼした(668)。
しかしこの同盟関係は長続きしなかった。新羅は唐に反旗を翻し、唐の勢力をも一掃し朝鮮半島を統一した(676)。唐による旧百済の羈縻支配体制は崩壊し、それと同時に日本からの撤退も余儀なくされた。こういう経過で、都督庁として築かれた朝鮮式山城は早々と廃城になったのだ。
この屋嶋城は唐の支持で造られ、在地の監督機関だったと考えれば、多くの疑問の辻褄が合ってくる。
半島と日本の経由地である対馬や壱岐に、防人や烽火が設置されたのは、唐や新羅の要人が安全に渡海するためであり、高所に築かれた朝鮮式山城は、地元の抵抗勢力から守るための防御施設だった。決して国防のための情報ネットワークでもなければ、海外からの敵を撃退するための城でもなかったのだ。考えれば、オオカミのフンを火に入れれば白煙が立ちやすいという発想は、どこか広大な中国大陸のにおいがする。
そして豪族らの強い抵抗に合いながらも、強引になされた大津遷都。おそらく都にはGHQのようなコントロール機関が置かれたのだろう。
中村氏は「実体は近江遷都ではなく、飛鳥京の譲渡であり、近江への強制移動だったと考えられる」と説明している。
唐の羈縻政策を受け入れた天智天皇は、次々と出される唐の支持に従わざるを得なかった。そんな天智の姿勢が弱腰外交とも受け取られ、反対勢力を生みだし、壬申の乱(672)へと発展したとも考えられる。一時的ではあったが、唐の支配を受けたのは間違いないだろう。白村江で大敗しておきながら、何の国家賠償もなく友好関係を復活させることは考えにくい。ただ、新羅が朝鮮半島から唐を追いだしたのは、日本側にとって幸運だった。
その後、唐の羈縻政策から解放された天智天皇は、遷都された大津京で律令体制の基礎となる「近江令」を発布し中央集権化を推し進めた。強力なリーダーシップで戦後を乗りきろうとした天智は、太平洋戦争後の吉田茂のような存在だったのかもしれない。
10年間の天智朝(662~671)は、戦争と戦後処理に終始した激動の時代だった。唐の支配に屈しながらも、大和民族の生き残りをかけ、悪戦苦闘した天智天皇の姿が浮かびあがってくる。
うん、なるほど~~~。
何かひっかかていたものが、これだと理屈が合う気がしましたが、真実は・・・???

お勉強になりました

「屋島城城門」
屋鳴城の実在を確定させたのは城門の発見でした。
正面に見える城門の外側には2.5mの段差【懸門】があり、敵が容易に侵入できなくなっています。
さらに、城門の扉から城内へと入ってくると手前の岩盤に行く手を阻まれ、向かって右側へと向かうしかありません。
これは、城内への侵入を妨げるのに加えて、この周辺で警備する兵士が敵に横(死角)から攻撃するのに適した構造【甕城】になっています。
このような防御に優れた構造は当時の朝鮮半島にあった城づくりの技術を用いたもので、百済の人たちが城づくりに関わったことを伝えてくれるものです。
角柱を設置している箇所が、門の柱穴が見つかった場所です。城門の構造を示す遺構は多くが流失しており、具体的な門の扉の位置や構造を明らかにすることはできませんでした。そのため、発掘調査で確認できた柱穴や想定される城壁の高さ、城門の幅、床面の構造をもとに、大野城跡(福岡県 太宰府市・大野城市・宇美町)、金田城跡(長崎県対馬市)や鬼ノ城(岡山県総社市)等の他の古代山城との比較から、往時の姿を想像しました。
本来は柵の辺りに出入りのための扉があったと考えています。また、斜め左前方には一辺約1.2mの隅丸方形状に掘られた用途不明の穴も見つかりました。
「甦る屋島城(やしまのき)」
「日本書紀」にその名が記されていたにも関わらず、長らくその実態が不明で、幻の城でした。
1998年1月、屋嶋城を探索していた平岡岩夫氏がこの場所で正面の石積みを発見されました。
この発見を契機に、高松市教育委員会による発掘調査が開始され、2002年、城門遺構の発見によって
ついに屋嶋城が実在したことが証明されたのです。
発掘調査によって、高さ6メートルにも及ぶ巨大な城壁も築かれていたことが分かりました。
左手に見える階段を設置している箇所が城門で、2.5mの段差を設けて敵の侵入を阻む構造となっています。
当時は、梯子などで出入りをして、有事の際には梯子をはずしていたと考えられます。 城門の石積みの真ん中ほどに開いた穴(水口)からは雨が降ると水が流れ出ます。
2007年から開始した整備工事により往時の姿を取り戻した屋嶋城は、国防の危機に瀕し、城づくりに携わった人々、防衛を担った人々の住時の思いを我々に語りかけてくれるでしょう。
「修復」
石積みは、1,350年という長い年月によって、大部分が崩落し、かろうじて残っていた箇所も非常に
危険な状態でした。そのため、城門と城壁の保存のため修復に着手しました。
まず、石工さんが丁寧に石積みを一石ずつとりはず かしていきましたした①。
その後、石積み方法を研究するため、実験的に城壁の一部を復元し②、
当時の城壁の形や施工技術の検討を重ねました。そして、古代の石積み修復にとりかかりましたが、試行錯誤の日々で③、
特に城門の角の石は慎重に据えていきました④。
城門の床下には石組みの排水溝があり、 城門前面の真ん中ほどに開いた穴は水口(排 水溝の出口)を復元したものです。
崩落していたため当時の姿を想定し、何度もやり直し 最も苦心した箇所です。
石積みの石材は安山岩で、淡い茶色の石が石 積みに利用されていたもので、黒もしくは灰色の石が新たに加工して補ったものです⑤。
ちかれたび~~~ (´;ω;`)
屋島って、見所いっぱい!
古代山城、源平合戦、絶景 瀬戸内風景、四国八十八ヶ所八十四番札所 屋島寺+スーパー狸さんの蓑山大明神 屋島太三郎狸、水族館、登山道、・・・
あらためて屋島の魅力に触れました。
残念なことは、これだけいろんな魅力あるコンテンツを持ちながら、現地にこれらを知らせる情報が乏しいこと。
山上駐車場横に、情報発信のホールがあればいいのに・・・。
それとあちこちにある案内板の整合性がとれていないこと。
一度見直した方がいいのになあ・・。
14時30分までお昼ご飯も食べず、歩きまわっていました。
腹減ったあ・・・('A`|||)
下山し、ひさしぶりに横浜家系ラーメンを食べに行ったら定休日・・・。
しかたなく目の前のうどん屋さんで。
「肉ぶっかけうどん+生卵」。
満足、満足の1日でやんした
