Michiruブログ

バイク、ツーリング他 グルメ、日常生活などをつれづれに・・・(^^)

1.初コメ大歓迎です。コメ主様のブログのリンク機能がありませんので、コメント欄でurlをお教えいただけますと、お邪魔させていただきます。


2.TOP画面の「読者登録用QRコード」で登録していただけると、新着情報がLINEで通知されます。

奈良

2024春ツーリング 「関西・中部」VOL8 2日目(4/14)その5<東大寺>

前回記事の続きです。

興福寺に収蔵されている立派な仏像を拝観し、もう超感激~~~!!

時は、13時。

気温もどんどん上昇して、26~27℃はありそうな・・・。

重いライディングジャケットは手に持ち、ライディングパンツは風通し用のファスナーを開けてメッシュ地にしますが、やはり暑いっす。(T_T)

興福寺と奈良県庁を挟む大通りを北に向いて歩いていきます。

奈良公園のあちこちで、鹿さんと鹿せんべい売り場。(・∀・)
s2024-04-14DSC_4637a

鹿せんべいばかり食べて、喉が渇いたのか?
s2024-04-14DSC_4642

暑さにくわえ、朝からずいぶん歩いているので、歩くのがつらくなってきていました。

ちょうど そんな時。
s2024-04-14DSC_4646

s2024-04-14DSC_4645

誰でも利用できる無料休憩所の奥村記念館。

創業者の方の故郷の恩返しもあり、こちらを建設、開放されているようですね。 えらい!!

椅子もあるし、お水やお茶の無料給水機もありました。
s2024-04-14DSC_4644a

10分程休憩させていただき、受付のおねえさんと守衛の方に休憩のお礼を伝え再出発。


向かうは東大寺。

s2024-04-14DSC_4650a

s2024-04-14DSC_4648a

東大寺に近づくにつれ、鹿と観光客が多くなってきました。
s2024-04-14DSC_4651a

s2024-04-14DSC_4652a

この人の多さ。8~9割が海外からの観光客。 それも様々なお国から来られているようですね。

たしか四十数年前、京都の学生アパートからホンダCB50JX-Ⅰにのって、この辺を散策したことがあります。

”ひょうきん族”でさんまさんが「鹿の糞(ふ~~ん)♪ 鹿の糞(ふ~~ん)」って歌って、鹿の糞の形をしたお菓子が人気商品だったりした時期でしたが、今に比べると 全然人(観光客)は少なかったですね~~。

そういえば、CB50JX-ⅠからホークⅡに乗り換えて、嵐山・嵯峨野あたりもけっこうぶらつきましたが、今に比べると 全然のどかでした。

インバウンドで観光業界は盛り上がっているようですが、ホテル料金の高騰や、公共交通機関が利用しづらくなってきたりしていて、日本に住む多くの人は決していいことばかりでないような気がします。


南大門に近づいてきました。
s2024-04-14DSC_4653a

南大門 ズームアップ。
s2024-04-14DSC_4653zz

「大華厳寺」の扁額が!

調べてみると、<古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年(平成18年)10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたものである。>とありました。


さらに「華厳宗」とは?

華厳宗(けごんしゅう)は、中国大乗仏教の宗派のひとつであり、杜順を開祖とする。『大方広仏華厳経』(『華厳経』)を所依の経典として、独自の教学体系を立てた宗派である。日本、韓国、ベトナムにも広まった。
日本仏教における華厳宗は、審祥により736年に伝えられた。南都六宗の一つ。東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立された。
華厳宗の本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な毘盧遮那仏と一体になっている。菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」、善財童子の遍歴を描いた「入法界品」などが有名。東大寺の大仏も本経の教主・毘盧舎那仏であり、日本仏教の黎明期に重用されたが、大乗仏教の中でも独特の教学を持つため宗勢は徐々に衰えていった。

(ウィキペディアより)

東大寺は華厳宗の総本山の寺院なんですね。(・∀・)

南大門でお寺を守護する金剛力士像。
s2024-04-14DSC_4655

s2024-04-14DSC_4656

仏師を代表する運慶、快慶のほか定覚と湛慶が加わってつくられた金剛力士像!

この力強さは、他を圧倒しますよね~。 すごい!!


南大門を奥(北)にすすむと見えてきたのは「中門」。
s2024-04-14DSC_4660a


中門をくぐると大仏殿です。

拝観料800円。

s2024-04-14DSC_6473
s2024-04-14DSC_6474

東大寺は、奈良時代の中頃に聖武天皇の発願によって創建された。  大和の国分寺として建てられたが、盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)が本尊とされたために、大規模な伽藍が営まれた。 天下泰平・万民豊楽などを祈願する道場と教理研究所を兼ねる寺で、多くの学僧を輩出した。 

開山は良弁(ろうべん) 僧正。 現在は華厳宗の大本山である。 
本尊の盧舎那仏は 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)とも呼ばれ、華厳経の教主とされるが、この名は釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・光り輝く仏の意味である。  像は青銅で鋳造され鍍金が施されていた。 天平勝宝四年(752)に盛大な開眼供養が行われた。 その後度々損傷を蒙り、その都度修理されている。 両手は桃山時代、頭部は江戸時代のもの。 

大仏殿は創建以来、治承四年(1180) と永禄十年(1567) に兵火に罹っていて、今の建物は江戸時代に建て直された三度目のものである。 横幅が約三分の二に縮小されているが、それでも木造建造物としては世界最大級の規模を誇っている。


s2024-04-14DSC_4663

s2024-04-14DSC_4666

大仏殿! でっかいですね~~~.。゚+.(・∀・)゚+.゚

s2024-04-14DSC_4690

それでは大仏殿の中に。

おおお! ”奈良の大仏さん”で有名な盧舎那仏。

盧舎那仏坐像と虚空蔵菩薩坐像。
s2024-04-14DSC_4679


盧舎那仏坐像と如意輪観音坐像。
s2024-04-14DSC_4685

すごい!!  小学校の修学旅行の時の記憶は、ほとんどありませんが、その時も同じように思ったんでしょうかねぇ!? (゚∀゚)アヒャ

昨今の有名寺院では、堂内の仏像の撮影が禁止されているところがほとんどですが、こちら東大寺大仏殿では、・集団での記念撮影 ・三脚を使用した撮影 ・動画撮影他 廬舎那仏の真正面からの撮影以外の撮影はOKでした。

うれしかったです。('▽'*)ニパッ♪


しかしながら・・

ここでもちゃんとお参りせず(お賽銭を入れ、仏様に手を合わせる)、写真だけを撮る人の多いこと。

感覚ですが、ちゃんとお参りしている人は100人に一人程度かも・・。

手水舎からの作法は知らないでも、せめて手を合わせて祈願しましょうよ。

なんか間違っているよなぁ~(; ̄Д ̄)


大仏殿には、他にも これまた立派な広(廣)目天像。
s2024-04-14DSC_4680

多聞天像。
s2024-04-14DSC_4683a

大仏殿内をひとまわり・・。

おっちゃんが、柱から生まれていました。(゚∀゚)アヒャ
s2024-04-14DSC_4684a

東大寺大仏殿の拝観後、東大寺ミュージアム、春日大社まで歩いて見てまわるつもりでしたが、歩き疲れてギブアップ

まっすぐバイクをとめている駐車場に戻ります。

春日大社表参道を東にてく・てく。

飛火野(とびひの)と呼ばれる芝が東南に広がっていました。
s2024-04-14DSC_4691

いいいところだなあ~(*'-'*)

駐車場まで戻ってきました。
s2024-04-14DSC_6457zz-02

この日、薬師寺、唐招提寺、奈良公園周辺(P~浮御堂~興福寺~東大寺~P)を、朝9時から14時過ぎまで ほとんど歩きっぱなしなので、完全ギブアップ!!

東大寺ミュージアム、春日大社の他にも平城宮跡にも立ち寄るつもりでしたが、これ以上は無理っす。

pose_shirohata_man

宿に戻りましょ

このあと疲労困憊で思考能力が低下しているあたいに あんな悲劇が起こるなんて、この時は想像もしていませんでした。


-続く-

2024春ツーリング 「関西・中部」VOL7 2日目(4/14)その4<浮御堂と興福寺>

前回記事の続きです。

垂仁天皇 菅原伏見東陵をお参りし、西に8km弱。

奈良公園周辺でバイクをとめれる駐車場が意外に少なく(自動車専用)、事前に調べておいてよかったです。

s2024-04-14DSC_6457

駐車場に向かうのに、奈良公園に接する大街道を通ると、歩道には大勢の観光客であふれかえっていました。Σ(・ω・ノ)ノ  中心部の駐車場はいずこも「満車」で、駐車場を探す自動車がウロウロ・・。

あたいが探していた駐車場は奈良公園中心部から少し離れていたので、中心部駐車場程ではありませんでしたが、それでもけっこう混んでいました。(バイクの駐輪場は余裕でした.(・∀・))


バイクをとめ、てく・てく


奈良公園内の鷺池に浮かぶ「浮御堂」。

s2024-04-14DSC_4594


s2024-04-14DSC_4597

お天気もよく、お堂に腰掛け一休憩。

s2024-04-14DSC_4599

穏やかな日。ボートでデートなんて、青春ですね~~~。うらやまし~~~(⌒-⌒)

木立の中の遊歩道を1km近く歩くと、幹線道路に出てきました。

s2024-04-14DSC_4600

西に進み・・

鹿と外国からの観光客がいっぱい。(・∀・)

s2024-04-14DSC_4602

s2024-04-14DSC_4603a

s2024-04-14DSC_4605

着きましたぁ~~!

ここは興福寺。

まずは興福寺の国宝館。
s2024-04-14DSC_4608

s2024-04-14DSC_4609

s2024-04-14DSC_6454z

入場料 700円な~~り。

こちらも館内の撮影は禁止なので、興福寺さんのHPや私の持っている書籍を参照しますね。

<千手観音菩薩立像>
s2024-04-14DSC_4609_01千手観音菩薩立像01

s2024-04-14DSC_4609_01千手観音菩薩立像02
s2024-04-14DSC_4609_01千手観音菩薩立像03
(↑ 興福寺HPより)


<乾漆八部衆立像>
s2024-04-14DSC_4609_02乾漆八部衆立像01

s2024-04-14DSC_4609_02乾漆八部衆立像02
s2024-04-14DSC_4609_02乾漆八部衆立像03
(↑ 興福寺HPより)


<阿修羅像【八部衆】>

s2024-04-14DSC_4609_03阿修羅像【八部衆】01

s2024-04-14DSC_4609_03阿修羅像【八部衆】02
(↑ 興福寺HPより)


<迦楼羅像【八部衆】(かるらぞう)>

s2024-04-14DSC_4609_04迦楼羅増【八部衆】(かるらぞう)
(↑ 興福寺HPより)

 
<緊那羅像【八部衆】(きんならぞう)>
s2024-04-14DSC_4609_05緊那羅像【八部衆】(きんならぞう)
(↑ 興福寺HPより)


<鳩槃茶像【八部衆】(きばんだぞう)>

s2024-04-14DSC_4609_06鳩槃茶像【八部衆】(きばんだぞう)
(↑ 興福寺HPより)


<乾闥婆像【八部衆】(けんだつばぞう)>

s2024-04-14DSC_4609_07乾闥婆像【八部衆】(けんだつばぞう)
(↑ 興福寺HPより)


<五部浄像【八部衆】(ごぶじょうぞう)>
s2024-04-14DSC_4609_08五部浄像【八部衆】(ごぶじょうぞう)
(↑ 興福寺HPより)


<沙羯羅像【八部衆】(さからぞう)>
s2024-04-14DSC_4609_08沙羯羅像【八部衆】(さからぞう)
(↑ 興福寺HPより)


<畢婆迦羅像【八部衆】(ひばからぞう)>
s2024-04-14DSC_4609_09畢婆迦羅像【八部衆】(ひばからぞう)
(↑ 興福寺HPより)



s2024-04-14DSC_6459

s2024-04-14DSC_6460
(↑ MOOK本「一個人 仏像入門」より)



<乾漆十大弟子立像(じゅうだいでしりゅうぞう)>
s2024-04-14DSC_4609_10乾漆十大弟子立像(じゅうだいでしりゅうぞう)
s2024-04-14DSC_4609_10乾漆十大弟子立像(じゅうだいでしりゅうぞう)02
(↑ 興福寺HPより)


<迦旃延像【十大弟子】(かせんえんぞう)>

s2024-04-14DSC_4609_11迦旃延像【十大弟子】(かせんえんぞう)
(↑ 興福寺HPより)


<舎利弗像【十大弟子】(しゃりほつぞう)>
s2024-04-14DSC_4609_12舎利弗像【十大弟子】(しゃりほつぞう)
(↑ 興福寺HPより)


<須菩提像【十大弟子】(すぼだいぞう)>
s2024-04-14DSC_4609_13須菩提像【十大弟子】(すぼだいぞう)
(↑ 興福寺HPより)


<富楼那像【十大弟子】(ふるなぞう)>
s2024-04-14DSC_4609_14富楼那像【十大弟子】(ふるなぞう)
(↑ 興福寺HPより)


<目犍連像【十大弟子】(もくけんれんぞう)>
s2024-04-14DSC_4609_15目犍連像【十大弟子】(もくけんれんぞう)
(↑ 興福寺HPより)


<羅睺羅像【十大弟子】(らごらぞう)>
s2024-04-14DSC_4609_16羅睺羅像【十大弟子】(らごらぞう)

(↑ 興福寺HPより)



s2024-04-14DSC_6461

s2024-04-14DSC_6463
(↑ MOOK本「一個人 仏像入門」より)


<木造金剛力士立像(こんごうりきしりゅうぞう)>
s2024-04-14DSC_4609_17木造金剛力士立像(こんごうりきしりゅうぞう)00a
s2024-04-14DSC_4609_17木造金剛力士立像(こんごうりきしりゅうぞう)03
(↑ 興福寺HPより)


<木造天燈鬼・龍燈鬼立像(てんとうき・りゅうとうきりゅうぞう)>

s2024-04-14DSC_4609_18木造天燈鬼・龍燈鬼立像(てんとうき・りゅうとうきりゅうぞう)00a
s2024-04-14DSC_4609_18木造天燈鬼・龍燈鬼立像(てんとうき・りゅうとうきりゅうぞう)03
(↑ 興福寺HPより)


<銅造仏頭(旧東金堂本尊)(ぶっとう)>
s2024-04-14DSC_4609_19銅造仏頭(旧東金堂本尊)(ぶっとう)
(↑ 興福寺HPより)


<木造仏頭(釈迦如来像頭部)(ぶっとう)>

s2024-04-14DSC_4609_20木造仏頭(釈迦如来像頭部)(ぶっとう)00
s2024-04-14DSC_4609_20木造仏頭(釈迦如来像頭部)(ぶっとう)03
(↑ 興福寺HPより)


s2024-04-14DSC_6464

(↑ MOOK本「一個人 仏像入門」より)

国宝館に収蔵されている一部を紹介しました。

以前から仏像に興味があり、持っている書籍「一個人 仏像入門」に載っている仏像を直に見れて、感動しっぱなしでした。

特に千手観音菩薩像、阿修羅・楼羅増・ 五部浄をはじめとする八部衆、 木造金剛力士立像、運慶作といわれる木造仏頭(釈迦如来像頭部)(ぶっとう)諸々 。 

やはり実物は写真と違って、魂を感じますね。('▽'*)ニパッ♪


超満足して国宝館をあとにしました。


五重塔は・・
s2024-04-14DSC_4607

s2024-04-14DSC_4613
残念ながら工事中でした。

国宝館奥(西側)の中金堂。

こちらも拝観料が必要です。
s2024-04-14DSC_6456

周りはすごい大勢の人ですが、拝観料がかかるので中金堂に入場される人はわずか・・(^^;
s2024-04-14DSC_4615

こちらにも立派な仏像が収蔵されているので入場しました。

<木造四天王立像(中金堂所在)(してんのうりゅうぞう)>
s2024-04-14DSC_4615z_01木造四天王立像(中金堂所在)(してんのうりゅうぞう)00
s2024-04-14DSC_4615z_01木造四天王立像(中金堂所在)(してんのうりゅうぞう)05
(↑ 興福寺HPより)


<木造薬王・薬上菩薩立像(やくおう・やくじょうぼさつりゅうぞう)>
s2024-04-14DSC_4615z_02木造薬王・薬上菩薩立像(やくおう・やくじょうぼさつりゅうぞう)00
s2024-04-14DSC_4615z_02木造薬王・薬上菩薩立像(やくおう・やくじょうぼさつりゅうぞう)03
(↑ 興福寺HPより)


<木造吉祥天倚像(厨子入り)(きっしょうてんいぞう)>


s2024-04-14DSC_4615z_03木造吉祥天倚像(厨子入り)(きっしょうてんいぞう)

(↑ 興福寺HPより)


<木造大黒天立像(だいこくてんりゅうぞう)>
s2024-04-14DSC_4615z_04木造大黒天立像(だいこくてんりゅうぞう)
(↑ 興福寺HPより)

いやぁ~、こちらもすばらしかったです。(*´Д`*)

興福寺の収蔵仏像。 ほんとすごいです! 

↓ 中金堂の広場から東をみた風景。
s2024-04-14DSC_4633


↓ 中金堂 広場から西をみた風景。
s2024-04-14DSC_4619

中金堂をいったん出て、西に向かいます。 

↓は、西に向かい振り返った風景。
s2024-04-14DSC_4624

南円堂。
s2024-04-14DSC_4620

s2024-04-14DSC_4622a

ちゃんとお参りする人の少ないこと。

外国からの観光客さんは仕方ないのかもしれないけど、日本の方も・・。

お寺に来ているんだから、お賽銭を入れて、ちゃんとお参りしてほしいなあ~。

(お寺さん側も、参拝の仕方を外国語で表記しておいたほうがいいんじゃあないかなあ。)


ところが、南円堂横の納経所には御朱印を頂く人達の長い列。 御朱印を頂くことはいいことなんだけど、あわせてお参りして~~。(^^;
s2024-04-14DSC_4623a

北円堂。
s2024-04-14DSC_4625

北円堂奥(西)から見た中金堂。
s2024-04-14DSC_4630


北円堂奥(西)から見た五重塔。
s2024-04-14DSC_4626

こちらに咲く桜は?

調べてみましたが、奈良の固有品種の奈良九重桜(ならのここのえざくら)なのか奈良八重桜(ならのやえざくら)のどちらかのようです。 よくわかりましぇ~~ん(^^;


↓ 青線が駐車場から ここまで歩いてきたルート。

s2024-04-14DSC_6457zz-01


↓ 興福寺仏像の参照文献。 MOOK本「一個人 仏像入門」。
s2024-04-13DSC_6421


-続く-




2024春ツーリング 「関西・中部」VOL6 2日目(4/14)その3<垂仁天皇 菅原伏見東陵>

前回記事からの続きです。

唐招提寺から北東に1km弱。

とうちゃこ~~~!(・∀・)

s2024-04-14DSC_4581z

s2024-04-14DSC_4581z垂仁天皇 菅原伏見東陵 拝所

【垂仁天皇 菅原伏見東陵 拝所】
 陵(みささぎ)の名は菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)。宮内庁により奈良県奈良市尼辻西町にある遺跡名「宝来山古墳」に治定されている。墳丘長227メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。

s2024-04-14DSC_4591

地上からはわかりにくいですが、前方後円墳。

拝所。
s2024-04-14DSC_4583
こうべを垂れ、手を合わせました。

第10代天皇 崇神天皇の第3皇子として誕生した第11代天皇 垂仁天皇の陵です。
s2024-04-14DSC_6448

↑の書籍は、「歴史人 別冊 万世一系天皇125代系譜の謎(MOOK本)」
s2024-04-14DSC_6449

こちらに訪れる人はほとんどおらず、静かな時間が流れていました。

振り返ると・・
s2024-04-14DSC_4589
電車が!!

近鉄橿原線がすぐ近くをはしっていました。

陵と反対側の池には・・
s2024-04-14DSC_4592

亀さんが湧いていました。(゚∀゚)アヒャ


-続く―








2024春ツーリング 「関西・中部」VOL5 2日目(4/14)その2<唐招提寺>

前回記事の続きです。

薬師寺から1.4km程北に 

向かったのは、唐招提寺。

唐招提寺 南大門の南側に駐車場があります。

自動車は有料ですが、バイク、自転車は無料だとか。

どこから入ったらいいの??? 

前のお土産物屋さんに聞くと、駐車場ゲートの横の隙間から入り、ゲートすぐの駐輪所置き場にとめるといいそうな・・。

はじめてきた人はわからんよね~~(^^;


s2024-04-14DSC_4552

南大門で拝観料を支払います。
s2024-04-14DSC_4553zz

【唐招提寺】  Toshodaiji Temple, Nara 
古都奈良のお寺の中でも、唐招提寺は火災などの被害が比較的少なく、創建当初の建物が多く残っています。 金堂は奈良時代 (780年頃)に建立された現存する唯一の本格的な金堂遺構として、寺院建築の研究にも非常に貴重な存在です。 同様に、朝廷から朝集殿を移築した講堂は、現存している唯一の平城宮建築例です。 日本人僧侶を教育するために、そして国内で仏教をさらに広めるために、聖武天皇が唐から招待した中国人僧侶の鑑真和上が、唐招提寺を759年に建立しました。 仏教の導入に鑑真は多大なる影響を与え、唐招提寺における鑑真の教えは、その過程において重要であったと考えられます。 南大門を通り伽藍に入ると、参拝道が真っ直ぐ金堂に続き、落ち着いた色合いの大きくて延びやかな屋根が見えます。 均衡のとれたその美しい軒を支える太い8本の円柱は、アテネのパルテノン神殿に比べられるほどです。 素晴らしい外観とともに、金堂の中には仏教的な宇宙観を現す盧舎那仏坐像など、9体の仏像が安置されています。 その中でも1000本の腕を持つ千手観音像は、木造のものでは国内最大最古のひとつです。


拝観料1000円な~~り。

いいお値段しますね~~(^^;
s2024-04-14DSC_6442zz

【唐招提寺】 TOSHODAIJI-TEMPLE
唐招提寺は天平宝字三年(759)、唐の高僧鑑真大和上によって創建されました。 鑑真大和上は聖武天皇の願いに応えて来朝を決意されました。

井上靖の名作『天平の甍』 にもあるように、五度の失敗にも屈することなく来日してわが国に戒律を伝え、大和上の称号を賜りました。 その後、戒律を学ぶ道場として、当寺が創立されました。 以来千二百五十年、律宗総本山としてその法灯を今に伝えています。 金堂は代表的な天平建築です。


s2024-04-14DSC_6444

s2024-04-14DSC_6445

【鑑真大和上と唐招提寺】
鑑真和上は六八八年に中国揚州で誕生、十四歳の時、揚州の大雲寺で出家されました。 二十一歳で長安実際寺の戒壇で弘景律師に授戒を受けたのち、揚州大明寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽に並ぶ者のない律匠と称えられました。七四二年に日本からの熱心な招きに応じ渡日を決意されましたが、当時の航海は極めて難しいもので、鑑真和上は五度の失敗を重ね盲目の身となられました。 しかし和上の意志は堅く、七五三年十二月、六度目の航海で遂に来朝を果たされました。
翌年和上は東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武太上天皇をはじめ四百余人の僧俗に戒を授けました。これは日本初の正式授戒です。鑑真和上は東大寺で五年を過ごされたのち、七五八年大和上の称号を賜わりました。あわせて右京五条二坊の地、新田部 (にたべ)親王の旧宅地を賜わり、天平宝字三年(七五九) 八月戒律の専修道場を創建されました。これが 現在の律宗総本山唐招提寺のはじまりです。

<金堂> [国宝] 奈良時代(8世紀後半) 寄棟造・本瓦葺
南大門を入り参道の玉砂利を踏み締めて進むと、誰もが眼前に迫る金堂の偉容に圧倒されます。豊かな量感と簡素な美しさを兼ね備えた天平様式、正面に並ぶ八本のエンタシス列柱の吹き放ちは、遠くギリシャの神殿建築技法がシルクロードを越え、日本まで伝来したかのように感じさせます。会津八一は「大寺のまろき柱の月かげを土に踏みつつものをこそ思え」と詠み、井上靖は和上の生涯を『天平の甍』と題した小説に書き、その名を世に広めました。 内陣には像高三メートルに及ぶ盧舎那仏(るしゃなぶつ)を中央に巨大な三尊 [乾漆造(かんしつづくり) 国宝]が居並び、厳粛な空間を生み出しています。本尊・盧舎那仏坐像(大仏)は宇宙の中心、釈迦の本地仏として中尊に、その東方に現世の苦悩を救済する薬師如来立像、西方に理想の未来へ導く十一面千手観世音菩薩立像が配されています。本尊の脇士には等身の梵天・帝釈天立像 [木造 国宝]が従い、須弥壇 (しゅみだん) 四隅には四天王立像[木造 国宝]が諸尊を守護しています。創建以来の天平金堂と、内陣の九尊が織り なす曼荼羅世界は、参拝者を魅了せずにはおかないでしょう。

<講堂> [国宝]  奈良時代(8世紀後半) 入母屋造・本瓦葺
講堂は、和上が当寺を開創するにあたり平城宮東朝集殿を朝廷より賜り移築したもので、平城宮唯一の宮殿建築の遺構です。 本尊弥勒如来坐像 [鎌倉時代 木造 重要文化財] は釈迦牟尼仏の後継で、将来必ず如来として出現し法を説くとされます。そのため通常は菩薩像ですが、本像は如来像として表現され、金堂の三尊と合わせて顕教四仏となる古式で配列されています。持国・増長の二天[奈良時代 国宝]も講堂内部に共に配されます。

<鼓楼> [国宝]  鎌倉時代 仁治元年(一二四〇) 楼造入母屋造本瓦葺
瀟酒(しょうしゃ)な重層の建物で、本来は経楼とみられますが、鎌倉時代に再建されたのち鼓楼と呼称されたようです。一階に和上将来の三千粒の仏舎利を安置しているところから「舎利殿」とも称されます。毎年五月十九日には、鎌倉時代戒律を復興した大悲菩薩覚盛上人(かくじょうしょうにん)の中興忌(うちわまき会式)が行われ、法要後、楼上からハート型の宝扇がまかれます。この鼓楼と対をなす建造物として鐘楼があり、当初の建物は残っていませんが、梵鐘 [重要文化財]は平安初期の数少ない遺例でたいへん貴重なものです。

<礼堂・東室>  [重要文化財]  鎌倉時代 弘安七年(一二八四)  入母屋造・本瓦葺
南北に長い建物で、従来は僧侶の起居した僧坊でした。 講堂を中心に西と北にもそれぞれ建物があり、三面僧坊と呼ばれていましたが礼堂・東室のみが現存しています。 中央の馬道(めどう)と呼ばれる通路で南北に分けられ、南半分の礼堂は解脱上人貞慶(げだっしょうにんじょうけい)が始修された「釈迦念仏会」の会場に改められました。この法要では和上将来の仏舎利・金亀舎利塔(きんきしゃりとう) [国宝]が本尊として礼拝されますが、平素は清涼寺式釈迦如来立像[鎌倉時代 重要文化財]が安置されています。

<戒壇>  石段のみ鎌倉時代
金堂の西側にある戒壇は、僧となるための授戒が行われる場所です。創建時に築かれたとされていますが、中世に廃され、その後再興されたものの火災により建物は失われました。 現在は、三段の石段のみが残り、その上に昭和五十三年(一九七八)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれました。


<宝蔵・経蔵> [ともに国宝]  奈良時代(8世紀)  校倉・寄棟造・本瓦葺
礼堂の東側に並んで建つ校倉(あぜくら) 様式の建物で、北に位置し一回り大きい方が宝蔵です。南にある小さいほうの経蔵は、唐招提寺が創建されるより前にあった新田部親王邸 の米倉を改造したものといわれ、日本最古の校倉です。

<御影堂> [重要文化財]  江戸時代
もと興福寺別当寺院、一乗院の宸殿と殿上の遺構で、昭和三十八年(一九六三)に移築復元して鑑真和上坐像[国宝]を納め御影堂としたものです。昭和五十年には東山魁夷画伯による障壁画が揮毫奉献され、和上の像を奉安する静寂な宸殿に、一層の荘厳さをもたらしました。毎年六月六日の開山忌舎利会の際、前後三日間だけ御影堂内が公開され、鑑真和上像を参拝することができます。

<開山堂と鑑真大和上御身代り像>
開山堂は元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立され、その後明治十四年(一八八一)に鑑真大和上のお像を安置するため現在の位置へ移築されました。国宝の和上像が御影堂へ移されたのち、覚盛上人・聖武天皇・徳川家康を安置した本願殿として参拝されていましたが、 この度、御堂の老朽化をうけて改修工事を行い、鑑真大和上円寂から一二五〇年になる平成二十五年(二〇一三)、大和上のお姿を写した「御身代わり像」がつくられ、再び開山堂として落慶致しました。
御身代わり像(御影像)は、年間数日しか開扉しない国宝の和上像に代わって、毎日参拝していただく目的で製作したものです。この像は奈良時代の脱活乾漆技法(特に国宝和上像)を忠実に踏襲した模造で、平成十二年から始まった金堂の盧舎那仏修理時に得られた知見も生かされております。彩色は、国宝の和上坐像が江戸時代末期の火災で被った形跡を排除して、両頬や上衣、袈裟に残る当初の部分を再現し、正倉院に伝来する伎楽面と同様、荏胡麻(えごま)油を表面に塗布しました。これも今回の模造過程で国宝坐像を調査して判明した新知見です。
この平成御影像も国宝和上像と同じく、大和上の遺徳を永く伝えていく拠所となります。

s2024-04-14DSC_4555


南大門をくぐると見えてきたのが金堂。
s2024-04-14DSC_4556

s2024-04-14DSC_4580

<金堂> [国宝] 奈良時代(8世紀後半) 寄棟造・本瓦葺
南大門を入り参道の玉砂利を踏み締めて進むと、誰もが眼前に迫る金堂の偉容に圧倒されます。豊かな量感と簡素な美しさを兼ね備えた天平様式、正面に並ぶ八本のエンタシス列柱の吹き放ちは、遠くギリシャの神殿建築技法がシルクロードを越え、日本まで伝来したかのように感じさせます。会津八一は「大寺のまろき柱の月かげを土に踏みつつものをこそ思え」と詠み、井上靖は和上の生涯を『天平の甍』と題した小説に書き、その名を世に広めました。 内陣には像高三メートルに及ぶ盧舎那仏(るしゃなぶつ)を中央に巨大な三尊 [乾漆造(かんしつづくり) 国宝]が居並び、厳粛な空間を生み出しています。本尊・盧舎那仏坐像(大仏)は宇宙の中心、釈迦の本地仏として中尊に、その東方に現世の苦悩を救済する薬師如来立像、西方に理想の未来へ導く十一面千手観世音菩薩立像が配されています。本尊の脇士には等身の梵天・帝釈天立像 [木造 国宝]が従い、須弥壇 (しゅみだん) 四隅には四天王立像[木造 国宝]が諸尊を守護しています。創建以来の天平金堂と、内陣の九尊が織り なす曼荼羅世界は、参拝者を魅了せずにはおかないでしょう。


s2024-04-14DSC_4556_01盧舎那仏坐像
s2024-04-14DSC_4556_02千手観音菩薩立像
s2024-04-14DSC_4556_03持国天
s2024-04-14DSC_4556_04増長天
s2024-04-14DSC_4556_05多聞天
(↑唐招提HPより)

どの仏像(如来、菩薩、天の像)も直に見ると、ほんと ありがたみを感じます。


金堂奥(北側)の講堂。
s2024-04-14DSC_4559
<講堂> [国宝]  奈良時代(8世紀後半) 入母屋造・本瓦葺
講堂は、和上が当寺を開創するにあたり平城宮東朝集殿を朝廷より賜り移築したもので、平城宮唯一の宮殿建築の遺構です。 本尊弥勒如来坐像 [鎌倉時代 木造 重要文化財] は釈迦牟尼仏の後継で、将来必ず如来として出現し法を説くとされます。そのため通常は菩薩像ですが、本像は如来像として表現され、金堂の三尊と合わせて顕教四仏となる古式で配列されています。持国・増長の二天[奈良時代 国宝]も講堂内部に共に配されます。

↑と、ありましたが・・
s2024-04-14DSC_4560

Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン

帰ってから調べてみると・・

s2024-04-14DSC_4559_03唐招提寺X
(↑ 唐招提寺X(旧ツィッター)より)

仕方ありませんね。(;´Д`)


講堂奥(北)にすすみます。
s2024-04-14DSC_4561

開山堂。
s2024-04-14DSC_4562

s2024-04-14DSC_4562 鑑真大和上御影像
(↑唐招提HPより)

<開山堂と鑑真大和上御身代り像>
開山堂は元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立され、その後明治十四年(一八八一)に鑑真大和上のお像を安置するため現在の位置へ移築されました。国宝の和上像が御影堂へ移されたのち、覚盛上人・聖武天皇・徳川家康を安置した本願殿として参拝されていましたが、 この度、御堂の老朽化をうけて改修工事を行い、鑑真大和上円寂から一二五〇年になる平成二十五年(二〇一三)、大和上のお姿を写した「御身代わり像」がつくられ、再び開山堂として落慶致しました。
御身代わり像(御影像)は、年間数日しか開扉しない国宝の和上像に代わって、毎日参拝していただく目的で製作したものです。この像は奈良時代の脱活乾漆技法(特に国宝和上像)を忠実に踏襲した模造で、平成十二年から始まった金堂の盧舎那仏修理時に得られた知見も生かされております。彩色は、国宝の和上坐像が江戸時代末期の火災で被った形跡を排除して、両頬や上衣、袈裟に残る当初の部分を再現し、正倉院に伝来する伎楽面と同様、荏胡麻(えごま)油を表面に塗布しました。これも今回の模造過程で国宝坐像を調査して判明した新知見です。
この平成御影像も国宝和上像と同じく、大和上の遺徳を永く伝えていく拠所となります。


鑑真和上。 既述のとおり「七四二年に日本からの熱心な招きに応じ渡日を決意されましたが、当時の航海は極めて難しいもので、鑑真和上は五度の失敗を重ね盲目の身となられました。 しかし和上の意志は堅く、七五三年十二月、六度目の航海で遂に来朝を果たされました。」と。

仏教界ならず、日本人の倫理観にも大きな影響を与えたと言える人なのではないでしょうか。

それしにても、当時の渡航は命がけだったんですね。

入口の南大門から一番奥(北東)の奥まった場所に、鑑真和上の墓所となる鑑真和尚御廟(ごびょう)があるみたいです。

行ってみましょう。
s2024-04-14DSC_4566

s2024-04-14DSC_4567zz

s2024-04-14DSC_4576
東西にはしる土屏の奥にそれはあります。

門をくぐると、すばらしい苔がひろがっていました。
s2024-04-14DSC_4568a

s2024-04-14DSC_4570


開山御廟(かいざんごびょう)。
s2024-04-14DSC_4572

金堂、講堂他の伽藍の参拝者は大勢いらっしゃいましたが、こちらまでお参りされている方が少なかったのは残念です。

手を合わせ、南大門の方にもどります。

新寶(宝)蔵。
s2024-04-14DSC_4577

s2024-04-14DSC_4578

唐招提寺拝観料1000円とは別に、200円の拝観料がいるのね。(;´Д`)

パス!! (^^;


そして宝蔵、経蔵。

s2024-04-14DSC_4579

<宝蔵・経蔵> [ともに国宝]  奈良時代(8世紀)  校倉・寄棟造・本瓦葺
礼堂の東側に並んで建つ校倉(あぜくら) 様式の建物で、北に位置し一回り大きい方が宝蔵です。南にある小さいほうの経蔵は、唐招提寺が創建されるより前にあった新田部親王邸 の米倉を改造したものといわれ、日本最古の校倉です。

駐車場まで戻ってきて、次に向かいます。

薬師寺、唐招提寺を見終わり、この時am10時半過ぎ。 徐々に気温が高くなってきました。Σ(´д`;)


-続く-


2024春ツーリング 「関西・中部」VOL4 2日目(4/14)その1<薬師寺>

さて、この旅の二日目です。

宿のある天理市から北に30分程 Vストちゃんを走らせます。

”大池”越しに見える二つの塔!  
s2024-04-14DSC_4488a

この日 最初の目的地。 薬師寺の駐車場にとうちゃこ~~~ヾ(´ω`=´ω`)ノ

駐車料金、バイクは100円。 安くって d( ̄◇ ̄)b グッ♪

駐車場から、てく・てく・てく
s2024-04-14DSC_4489


s2024-04-14DSC_4490

 ( *゚ェ゚)ン? 薬師寺の前にこちらを参拝するのがマナーとか!?
s2024-04-14DSC_4492

s2024-04-14DSC_4491

s2024-04-14DSC_4493

【薬師寺休ヶ岡八幡宮縁起】
日本人は奈良時代より仏菩薩本地とし諸神を垂迹として、両者が表裏一体となり、互に利益を施しながら衆生済度されるものとする信仰に生きてきた。

薬師寺は寛平年中(八八九~八九八)に、別当の栄紹大法師が寺の鎮守としてこの八幡宮の祭神である憎形八幡神・神功皇后・仲津姫命(いずれも国宝)を勧請した。

現在の社殿(重要文化財)は、幾度かの天災・人災により破壊・焼失 された後、慶長八年(一六〇三)に豊臣秀頼によって新造されたものである。他に端垣門・楼門・中門等も新造されたが地震で崩壊した。
本殿は三間社流造で、両脇に脇殿が接続している。脇殿は十九明神の板絵(宝蔵殿に安置)が祀られている。

南北の細長い建物は座小屋と呼ばれ寺僧の加行場としても使用されたが、本来は古くから存した客座の座衆が座すところで、明治以後残っている例は少ない。また両脇に脇殿が付属する社殿は少なく、しかも座小屋まで残っている点で歴史的に重要な建物とされているのみならず、明治以後は神仏が分離され、一寺院が神社を管理している例は少ない。

将来はさらに神域を整備し、楼門などの復興を含め、本地垂迹・神仏習合の日本古来の信仰の姿にかえすよき信仰の道場として復興したいと念願している。


ちゅうことで、お賽銭をチャリ~~ン。 
ペコペコ・パンパン・ペコ(二礼二拍手一礼)。

薬師寺南門にやってきました。

左手側に朱が綺麗な西塔。 右手側に趣きのある東塔が見えてきましたよ。(☆゚∀゚)

s2024-04-14DSC_4496

s2024-04-14DSC_4495


s2024-04-14DSC_4497

【法相宗大本山 藥師寺】
当寺は第四十代天武天皇の発願によって飛鳥の地、藤原京に建立(六八〇)され、その後 平城遷都に伴って養老二年 (七二八) 平城京六条二坊 (現在地)へ移された。

金堂本尊薬師如来像に、日光・月光菩薩像、東院堂本尊聖観世音菩薩像と、何れも円満相好な美しさを白鳳時代の優雅な鋳金技法で表現している。 これらは比類なき佛像と仰がれ、全て国宝である。また金堂本尊薬師如来台座は珍重な図様彫刻として名高く国宝に指定されている。

東塔は創建当時からの唯一の遺構で頂の水煙は実に美しい。 

インド渡来で日本最古の佛足石と、萬葉仮名三十八文字からなる二十一首の歌が鮮明に刻まれた佛足跡歌碑は修正会本尊である吉祥天女画像と共に天平時代各分野の典雅である。


s2024-04-14DSC_4500

s2024-04-14DSC_4498

こちらの拝観料1000円な~~り。

s2024-04-14DSC_6441

s2024-04-14DSC_6439
【薬師寺縁起】
薬師寺は天武九年(六八〇)天武天皇により発願され、持統十一年(六九七) 持統天皇によって本尊を開眼、さらに文武天皇の御代に至り、飛鳥藤原京において堂宇の完成をみました。
その後和銅三年(七一〇)の平城遷都に伴い、養老二年(七一八)、平城京右京に移されました。

東西両塔を有する薬師寺式伽藍は我が国随一の壮美を誇っていました。 しかし、度重なる災害によって諸堂が灰燼に帰し、昭和初期に至っては辛うじて難を逃れた東塔だけが、往古のたたずまいを偲ばせておりました。失われた堂宇の再建は、薬師寺の大悲願でした。

昭和四十二年(一九六七) 高田好胤管主により、お写経勧進による白鳳伽藍の復興が発願され、金堂、西塔、中門、回廊、大講堂、食堂を再建。 白鳳伽藍の壮麗な美しさがよみがりました。

お写経によるご結縁を頂戴し、その尊い功徳 徳によって建立された堂塔は、まさに浄らかな心の結晶です。この壮麗な大伽藍の美しさは「龍宮造り」と呼ばれ、千三百年という長い歴史の時空を超え、今なお信仰と美術が見事に調和し息づいています。

平成十七年(一九九八) 十二月には世界遺産に登録されました。現代においては、伝統を生かして次世代に継承することと人々の心の復興が大きな課題です。迷い多い世の中に悩む人々が浄らかな心・感謝の心を持ち、身心安楽を得られることを、薬師寺は願っております。

s2024-04-14DSC_6432

<金堂  昭和51年(1976) 再建>
薬師如来の浄瑠璃世界を彷彿とさせる堂塔は龍宮造りと呼ばれましたが、 享禄元年(1528) 焼失し、 慶長5年 (1600) に仮金堂が建立されました。 その後、宮大工の名工である西岡常一棟梁により、昭和46年(1971) から5年の歳月をかけて、創建当初の姿で再建されました。

<大講堂   平成15年(2003)再建>
多くの学僧が仏教の教学を学んだ古代の伽藍では、金堂よりも講堂が大規模でした。 平成15年(2003)に再建され、伝統工法による復元建築としては史上最大級です。本尊は弥勒三尊像(重要文化財・奈良時代)、 後堂には仏足石と仏足跡歌碑 (共に国宝・奈良時代)を安置し、仏足石の両脇には中村晋也氏による釈迦十大弟子が祀られています。

<西塔   昭和56年(1981) 再建>
享禄元年(1528) に創建以来の建物は焼失したため、昭和の東塔への綿密な調査に基づいて設計され、伝統的な木造建築の工法で再建されました。 屋根の勾配をゆるくし、また、青に塗った連子窓を設ける点は、創建当時の形式によります。内陣には、中村晋也氏による釈迦八相像のうち、成道・ 転法輪・涅槃・分舎利の果相四相が祀られています。

<東塔    国宝・白鳳時代>
創建当時から残る唯一の建物。各層に裳階をつけているため六重に見えますが、三重の塔。 この特異な形が、全体として律動的な美しさを保ち、“凍れる音楽”と称され親しまれています。 平成21年から12年をかけて、初の全面解体大修理が行われ、その姿を未来に伝えます。 これを機に1300年の年月を経た水煙は役目を終え、平成の水煙に取り換えられています。 内陣には、中村晋也氏による釈迦八相像のうち、入胎・受生・受楽・苦行の因相四相が祀られています。

<薬師三尊像   国宝・白鳳時代 金堂安置>
中央に薬師如来、向かって右が日光菩薩、左が月光菩薩、合わせて薬師三尊といいます。薬師如来は東方浄瑠璃浄土の教主で、私たちの身と心の健康を護る仏様です。 脇侍の日光・月光菩薩は、動きのある美しい姿で、理想的な写実美を完成した仏様といわれています。 また、本尊台座の文様は当時の東西文化交流を伝える貴重なものです。

<東院堂   国宝・鎌倉時代>
東院堂は養老年間に吉備内親王が、元明天皇の冥福を祈り、発願し建立されました。現在の建物は、弘安8年(1285) に再建され、享保18年(1733) に西向きにされています。 奈良時代は土間が通常ですが、再建にあたり板床に造り変えられています。鎌倉時代の建築様式を巧みに残しており、日本最古の禅堂として知られています。

<聖観世音菩薩立像   国宝・白鳳時代  東院堂安置>
さまざまな観世音菩薩の中で、変化されてない本来のお姿なので 「聖(しょう)観世音菩薩」と呼ばれます。 肩のあたりまで幾筋かに分かれて下がる垂髪、 二重の首飾り、透きとおるよ うな衣服、花びらのような繊細で美しい指の動き、そして直線的な姿勢。 これらは、インドのグプタ王朝の影響を強く受けています。 本像を囲むように四天王像 (重要文化財 鎌倉時代)が祀られています。


中門を守る二体の像。
s2024-04-14DSC_4501

金剛力士像ではありませんでした。

四天王のうちの二天が門を守護していました。

右手(東)の天。
s2024-04-14DSC_4503

s2024-04-14DSC_4504


左手(西)の天。
s2024-04-14DSC_4507

s2024-04-14DSC_4508
ともに邪鬼を踏みつけています。(・∀・)

なかなか足元まで目がいきませんが、四天王像を見るときは、邪鬼の表情まで目をやると楽しいですよ。(^_-)-☆

持国天、増長天、広目天、多聞天からなる四天王。

後の説明にも出てくるように、薬師寺の大部分が安土桃山時代の享禄元年(1582)に発生した兵火によって焼失しており、その際にこちらの天像も焼失したようです。

今の二天像は、平成3年(1991年)には発掘調査などの結果に基づき、復元されたものだとか。

今 設置されている二天像ですが、右手側(東側)は三鈷杵を持っており増長天なのかな?

左手側(西側)は、持国天なのか、広目天なのか??? わかりましぇん(^^;


中門をくぐると、白鳳伽藍が目にとびこんできます。

中央には存在感ある金堂が!!

s2024-04-14DSC_4510

s2024-04-14DSC_4527

s2024-04-14DSC_4531

【金堂緣起】
薬師寺は天武九年(六八〇)に藤原京に造営され、平城遷都に伴い養老二年(七一八)に平城京六条二坊(現在地)に移された。 

享禄元年(一五二八)の兵火により堂宇の殆どを焼亡し、僅か東塔・東院堂を余すのみであったが、幸いにも諸佛は辛うじて猛火に耐えて、漆黒の尊容はかえって輝きを増したのであった。

慶長五年(一六〇〇)、本尊薬師三尊の雨露を凌ぐ仮堂が建てられた。しかし約四百年の時間の流れにより老朽破損が進み、本尊を祀る金堂をなんとしても復興したいという願いから、昭和四十三年に般若心経の百巻写経による金堂復興勧進を開始した。

当時の高田好胤管主を盟主とする一山僧侶による挺身的な勧進が行われ、その傍ら各界の協賛をも得て昭和四十六年に起工式を迎え、昭和五十年末、遂に百石巻の大目標を達成すると共に、翌昭和五十一年の春、金堂の落慶を見るに至った。

建築は古社寺建築の碩学の周到な調査研究に基づいた設計により、昭和の名匠たちが古代の工法に則って建立したものである。白鳳様式の二重二閣、五間四面で内陣には仏像・お写経の防災の為の鉄筋コンクリートの耐火構造、外陣には数千年を経た台湾の桧材を用い、往古の遺構としての木造建築として復興された。 屋根瓦は白風時代の出土瓦を忠実に模し、鴟尾や風鐸も同時代の参考史料に基づいて制作された。全ての飾金具は古代のものに倣った。 また内部の荘厳、特に美麗を極める天井絵は東塔のそれに倣って復元されたものである。

全国から納経された百万巻写経は、本尊の頭上高く設えに納経蔵に整然と納められ、永代にわたり薬師如来の御宝前に供えられている。 

経済的繁栄の陰にとかく心の荒廃が夏慮される現代において、この金堂に凝縮された浄菩提心は千年の後代までも不滅の光彩を放つことを信ずるものである。


s2024-04-14DSC_4510金堂薬師三尊像HP01
(↑ 薬師寺HPより)


s2024-04-14DSC_6440
(↑ MOOK本「一個人 仏像入門」より)

この薬師如来像と菩薩像を直に見れただけで、大満足です。v( ̄∇ ̄)v


金堂の左側(西側)に建つ西塔。
s2024-04-14DSC_4518

s2024-04-14DSC_4512


s2024-04-14DSC_4511

【西塔緣起】
塔はインドの古い言葉でストゥーパといい、本来釋尊の舎利(御遺骨)を祀る墓を示した。中国ではそれが卒塔婆と音訳され、やがて日本にも「卒塔婆」として伝来した。その後一般には墓標を「塔婆」と呼び慣わし寺では「塔」とのみ呼称するようになった。

白鳳時代に薬師寺が日本で初めて二基の塔を相対し配置する伽藍様式にて建立した。以後この様式を「薬師寺式伽藍配置」と呼称するようになった。 

西塔は享禄元年(一五二八)、金堂・ 講堂・中門等とともに兵火によって焼亡し、以来数百年にわたり礎石のみが虚しく往古の壮美を偲ばせる有様であった。 
近年に至り般若心経の百万巻写経勧進呼応して、全国より寄せられた佛心がここに凝集され昭和五十六年、遂に白鳳時代きながらの塔が復元された。 

西塔建築は塔高三十六米、総桧造りで 東塔の綿密な調査と古記録の研究に基づいた設計による完全復元であって、東塔に並ぶ美しい諧調に加えて鮮やかな丹青が施されている。塔の心礎には平山郁夫画伯の請来された佛舎利が奉安されている。

創建時は内陣に釋尊のご生涯(仏伝) の内、後半生の果相(成道・転法輪・涅槃・分舎利)を表す塑像群が祀られていたが、塔と共に焼失した。 平成二十七年、彫刻家 中村晋也氏が、往時の仏伝を金銅製によって、現代に蘇らせた。


昭和56年に復元されたものなので、まだ朱が綺麗ですね~~。(*´∇`*)


金堂の右手側(東側)に建つ東塔。

s2024-04-14DSC_4526

s2024-04-14DSC_4524

s2024-04-14DSC_4521
【東塔縁起】
薬師寺東塔は白鳳様式を伝える数少ない建物の一つであり、卓抜な意匠を示す日本建築の至宝として最高の讃辞を捧げても、なお足りることを知らぬと賞されている。

塔とは釋尊の舎利(御遺骨)を祈りの対象としてお祀りする重要な建物である。

東塔は大小の屋根が交互に出入りする、裳階(もこし)がつけられた特異な構造形式で、その幻想的なさまから「凍れる音楽」と称されている。

東塔の平面は一辺一〇.五一米、高さ三四.一三米あり、三重塔としては稀にみる大きさと高さである。

最頂部にある水煙には衣を翻し飛翔する二十四の天人が透かし彫りされており、それぞれが軽快な律動感を表出、その意匠は極めて優れている。また、擦管には薬師寺創建の縁起が刻文されている。

長い歴史上で部分的な修理が幾度となく施され護られて来たが、近年の調査により心柱脚部の傷みが顕著であることが判明、文化庁及び奈良県の指導のもと、平成二十一年(二〇〇九)より各匠の技を結集し、史上初の全面解体による保存修理事業が行われた。

解体作業中、心柱の最頂部より佛舎利が 発見され、再び同所へ戻すに際し五重(玻璃、純金、青磁、籃胎漆器、紬織)の入れ子式の新たな舎利容器が、平成の名工の技により誂えられ奉安なされた。

令和三年(二〇二一)春、全国から納められたお写経・お浄財等が佛心として凝集、全面解体修理は無事に完了、東塔は壮麗な姿と共に、千三百年の歴史を今に伝えている。


西塔に比べて地味やなあと思っていたら・・

創建当時から残る唯一の建物!! シツレイシマシタ・・('д` ;)

そういえば時代を経てきた趣きのある塔ですね~~。(^^;


金堂の奥にすすんでいきます。

金堂奥から振り返った図。↓
s2024-04-14DSC_4538


金堂奥にあるのが・・大講堂!
s2024-04-14DSC_4536

s2024-04-14DSC_4532

s2024-04-14DSC_4534
【大講堂緣起】
大講堂は、平成十五年(二〇〇三)の復興。裳階付の薬師寺独自の様式である。幅四十一米 奥行二十米、高さは約十七米あり、伽藍最大の建造物である。基本設計は西岡常一棟梁によるもので伝統工法による復元建築でありながら、現在の建築基準法に合わせ現代の技法も取り入れられている。

大講堂が大規模なのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ、講堂に大勢の学僧が参集して経論を講讃することに由来する。 特に薬師寺では、天七年(八三〇)に南京三会の一つである最勝会の道場となり、勅使を迎えた法会が毎年盛大に営まれていた。

大講堂の焼失と共に最勝会も途絶えていたが 平成十五年の大講堂復興に伴い再興されている。 

大講堂の本尊は弥勒三尊(重文・奈良時代) 。基壇には四天王と阿僧・伐蘇畔度をまつる。 

徒堂に祀られている仏足石(国宝・奈良時代) は釈尊の足跡を石に刻んだものであり、インド鹿野苑より唐長安を経て、遣唐使により平城京へ伝えられ造立されたとされる。また、仏足跡歌碑(国宝・奈良時代)は万葉仮名による仏足跡讃歌が刻まれており、国文学の上でも大変貴重なものである。

大講堂復興の慶賛として、文化勲章受章者である彫刻家、中村晋也氏の手により平成十五年 釈迦十大弟子が仏足石の両側に安置された。


s2024-04-14DSC_4532大講堂三尊像HP01zz
(↑ 薬師寺HPより)

s2024-04-14DSC_4532大講堂仏足石HP01
(↑ 薬師寺HPより)


s2024-04-14DSC_4532大講堂仏足足歌碑HP01zz
(↑ 薬師寺HPより)


s2024-04-14DSC_4532大講堂釈迦十大弟子HP
(↑ 薬師寺HPより)

圧倒的存在感の大講堂。

写真で見るより、現地で見てほしいです。 そりゃあすごかったですよ~~。.。゚+.(・∀・)゚+.゚


大講堂奥には・・

西僧坊。
s2024-04-14DSC_4539


食堂。
s2024-04-14DSC_4540

s2024-04-14DSC_4541
【食堂緣起】
平成二十七年三月起工、平成二十九年五月落慶

食堂は僧侶が斎食をするための建物で「薬師寺縁起」によるとその規模は、九間四面、東西十四丈(約四十二米)、 南北五丈四尺五寸(約二十米)、柱の高さ二丈五寸 (約十七米)で、東大寺、大安寺に次ぐ大きさとされた。 
今回行われた発掘調査によりその記録がほぼ裏付けられ、僧侶約三百人が一堂に会する規模であったことが判明している。

ご本尊には金銅製半丈六の阿弥陀如来と、脇侍に観音・勢至菩薩が祀られていたとされる。創建当初の食堂は天禄四年(九七三年)に焼失し、寛弘二年 (一〇〇五年)に再建されたものの、再び焼失(年代不明)した。

平成二十九年(二〇一七年)の再建にあたり、外観は鈴木嘉吉氏によって設計され、創建当初の様式を復元しつつも、内観は多目的に使用することを目指し、伊東豊雄氏の設計により広く使用するため、柱をできる限り減らした現代的な工法で建てられた。 

ご本尊「阿弥陀三尊浄土図」及び、東西七面に中国から日本までの風景を描いた、全長約五十米にわたる平成最大の大壁画「仏教伝来の道と薬師寺」 田渕俊夫画伯により奉納された。

尚、後堂には阿弥陀如来のお姿を浮彫(原型制作 北郷悟氏)にした「千体阿弥陀仏」が祀られており、日々の勤行で奉納者各家・各位の永代供養が勤められている。


東僧坊/朱印所/授与所。
s2024-04-14DSC_4542


白鳳伽藍の奥にある玄奘三蔵院伽藍にも行ってきましょ。

北拝観受付で最初に購入した拝観券を見せ、玄奘三蔵院伽藍に通じる大門へ。

s2024-04-14DSC_4544

s2024-04-14DSC_4545

玄奘三蔵院伽藍のメインの玄奘塔が拝観できないので、ほとんど訪れる人もおらず、白鳳伽藍に比べて寂しいかぎり・・。

s2024-04-14DSC_4549

s2024-04-14DSC_4547

玄奘三蔵院伽藍の礼門は閉ざされていて、中に入ることはできませんでした。

とりあえずここからの写真をパチリ。
s2024-04-14DSC_4548

こちら薬師寺には、拝観オープンの9時には一番のりでやってきました。 この時はまだ人もまばらでしたが、やってきた道を戻りVストちゃんをとめている駐車場に戻る頃には、大勢の参拝客。

そして昨日以上に気温が上昇・・(; ̄Д ̄)

さて、お次に向かいましょう


-続く-




記事検索
カテゴリー
アーカイブ
最新コメント
読者登録
LINE読者登録QRコード
PVアクセスランキング にほんブログ村
  • ライブドアブログ