昨日の記事の続きざんす 

古代山城 城山(きやま)で、木陰で優しい風に吹かれながら眼下の風景を楽しみました。

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いい時間を過ごせました (*゚▽゚*)

城山を下り、さらに西に向かいます。

お昼前なので、ここでお昼ご飯にしましょ 

この看板にひかれました 

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おじゃましまんねやわ 

メニューだす。

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表の看板にも書いてた 海老天丼390円 

これはお得ちゃうん (゚∀゚)アヒャヒャ

海老天丼ちょう~~だい 

ジャ~~ン  

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ご飯に天丼のタレがかかっておらず、天ぷらを端っこによけて、自分でかけやした。

390円で文句を言ったらバチが当たります(^^;

ごちそうさまでした。  しゅっぱ~~つ 



城山から約25km。 目的地にとうちゃこ 

お寺でおまっ 

「屛風ヶ浦 海岸寺(びょうぶがうら かいがんじ)」


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山門には、金剛力士像ならぬ お相撲さん 

これは珍しいっす。

案内板がありました。

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二王門(二カ士門)

正式には金剛力士といい、仁王という。但し、昔朝鮮に王(ワン)と いう兄弟があり、佛門の警固に当たったことに因み二王とも。当門 は、その故事による。

貧寺として、後世に残る像を造る資力なく、郷土出身の力士の顕彰を兼ねて造立。多度津町内の彫刻家 神原象峰氏により一旦 造象されるも象徴的すぎるなどとの申し出があり、琴ヶ浜の親友であった観音寺市 松本三郎氏が再彫刻。 大豪については、なかなか資料がいただけず、ただ入手した写真により横から見るにはそっくり。

場所中、杉山家を訪れたことがあるが、たて長い顔はお父さん、横幅はお母さんそっくり。 お母さんは取り組み中目を伏せていられたが、勝ったあとのビデオを安心してみていたのが印象的。

本山寺(重文)八脚門をモデルに庭瀬文部技官の設計により 昭和四十年落慶。


お金がなくって、金剛力士像が作れなかったんだって(笑)  ホンマイカイナ

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  ことが はまさだお
 琴ヶ濱 貞雄(佐渡ヶ嶽部屋)
●本名 宇草貞雄   
●生年月日 昭和2年10月10日  
●出 身 地 香川県観音寺市観音寺町

体は決して大きくはなかったが、けいこで鍛え上げた赤銅色の体は、四国出身から,南海の黒豹 と呼ばれた。琴ヶ濱といえば、内掛けと言われたほど。そのタイミングがよく、一発で相手を倒した内掛けの切れ味は、まさに名人芸と言える。 また腰を振って相手のまわしを切るのも独特のうまさがあった。 大関在位五年二十九場所、朝潮と優勝決定戦をやり、柏戸と優勝を争ったこともあった。 佐渡ヶ嶽親方(元琴櫻)のよき相談役であった。

●四股名 宇草→琴ケ濱→年寄名 尾車 
●所属部屋 二所ノ閔→佐渡獄 
●初土俵 昭和20年11月場所 
●十両昇進 昭和24年10月場所 
●入幕 昭和25年5月場所 
●最終場所 昭和37年11月場所 
●最高位 大関
●幕内在位59場所 
●幕内成績 441勝352敗92休 
●勝率 0.556 
●三賞 殊勳章2回、敢闘賞1回 技能買5回 
●身長177cm 
●体 重 117kg 
●得意手左四つ、内掛け、上手投げ 
●没年月日 昭和56年6月7日


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  だいごうひさてる
 大豪久照(花籠部屋)
●本名 杉山昇
●生年月日 昭和2年9月3日
●出身地 香川県丸亀市土居町

体に恵まれ、早くから大器と言われ、事実三十五年夏には平幕優勝を飾ったりしたが、関脇で終わったのは彼の場合もの足りない。左四っからの寄り、優勝したはなかなかいい突っ張りを見せたが「バンザイ三杉」と言われるほどわきが甘かったのが欠点で、突っ張りもいつの間にか消えてしま った。 有名な汗かきでもあった。由緒ある三杉磯を名乗 ったこともあり本名の杉山、若三杉など改名七回。 元若乃花の妹と結婚した。

●四股名 杉山→国風→三杉磯→杉山→若三杉→大豪→年寄名 荒磯 
●所属部屋 花籠部屋 
●初土俵  昭和30年3月場所 
●十両昇進 昭和33年5月場所 
●入幕 昭和33年11月場所 
●最終場所 昭和42年5月場所 
●最高位 関脇
●幕内在位 51場所 
●幕内成績387勝374敗4休 
●勝率 0.509 
●三賞 殊勳章2回、敢闘賞3回、優勝1回 
●身長188cm 
●体 重 133kg 
●得意手左四つ、上手投け、寄り切り 
●没年月日 昭和58年11月2日

改名が7回!!(^^;    でも幕内765戦で4休ってすごくない !?  


今の大相撲で香川出身の幕内力士は、琴勇輝関。 ガンバレ~~ 

コロナの影響で大相撲が中止されれいますが、7月場所は開催されるといいなあ~


さて本坊に入って参拝。

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何故、ここに訪れたかというと、ここは弘法大師様こと空海生誕の寺院なんです。

 「屛風ヶ浦 海岸寺(びょうぶがうら かいがんじ)」 

海岸寺(かいがんじ)は香川県仲多度郡多度津町西白方に所在する真言宗醍醐派の寺院。詳しくは経納山 迦毘羅衛院(かびらえいん) 海岸寺と称する。

寺院本尊は聖観世音菩薩。大師堂は奥之院と呼ばれ弘法大師誕生仏が本尊で、それぞれに納経所があり、それぞれの本尊の納経をしてもらえる。

<歴史>
寺伝によれば、ここは空海(弘法大師)の母親である玉依御前の出身地とされる。更に空海は奈良時代後期の宝亀5年(774年)に当寺奥之院で生まれたとされており、弘法大師出化初因縁(しゅっけしょいんねん)の霊跡と言われる。

平安時代初期の大同2年(807年)空海が本堂を建立して正観音ないし弥勒菩薩を安置したのが当寺院の開創と伝えられている。弘仁6年(816年)には空海が自身の像を刻み、大師堂を建てたことにより奥之院が開かれたとされる。

戦国時代には土佐の戦国大名・長宗我部元親の進攻に遭い天正11年(1583年)には伽藍が焼亡し、天正18年(1590年)より随時再建がなされた。

文化年間(1804年から1818年)には、白方屏風浦が空海の誕生地とし当寺が誕生所と名乗ることを不服とした善通寺との間で誕生所争いが勃発し、ついには江戸幕府の寺社奉行をも巻き込んで、文化13年(1816年)に嵯峨御所の「善通寺は誕生所で当寺は弘法大師出化初因縁の霊跡と称する」との裁決を受ける事態が生じた。

明治16年(1884年)琴平松尾寺多聞院より当寺と合寺の依頼があり、その後、多門院は廃し当寺と合寺した。

明治38年(1905年)本坊の裏の海岸にロシア兵捕虜収容所(善通寺俘虜収容所)が造られ約千名が翌年まで収容された。


ちゅうことです。

「善通寺は誕生所で当寺は弘法大師出化初因縁の霊跡と称する」って、結局どっちやねん!?(笑)


空海:父 佐伯直田公(さえき あたいのたぎみ)、母 玉寄御前(たまよりごぜん)の間に生まれた空海は幼名・真魚(まお)と名付けられました。

幼少の頃より優れ、後には遣唐使として現在の中国に渡ります。西安にあった青龍寺で恵果(けいか、746年~805年)の下で、真言密教を修めました。

「善通寺」の“誕生院”とも呼ばれる“西院”は空海が誕生した佐伯家の邸宅地にあたると伝わっているところが、善通寺が空海誕生所とする由縁のようです。

一方で、ここ海岸寺こそが空海誕生の地とする理由を海岸寺のHPで見つけました。

「その理由は、海岸寺に残されている出産にまつわる様々な痕跡とお大師様自らが残された文字などから海岸寺が大師誕生の産屋跡と考えられるからです。

周辺の情景からみていくと近隣には母・玉寄御前のお住まいの跡として確定している「仏母院」や産土神社にあたる「熊手八幡宮」があり、出生の場所として昔から“讃岐国多度郡屏風ヶ浦”とよくいわれますように古い道標の「屏風浦」をしめすものは海岸寺へ向いております。

なにより海岸寺大師堂本尊が日本で唯一、赤ちゃんのお姿の大師像を祀る寺であることをはじめ海岸寺に残る寺宝の数々がそれを物語っています。

しかしながら様々な説・諸事情があるため現代では海岸寺は「知る人ぞ知る」霊跡となっています。」


弘法大師様の生誕の地をお参りするには、ここ「海岸寺」と「善通寺」 両方参拝すれば、間違いなしってことでえ~いんちゃう  ガハハ

本坊から屛風ヶ浦へ。

しばし海風にあたり、帰路につきました。

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弘法大師様と同じ風にあたったかも~~~ 

古代山城 城山~空海生誕の海岸寺のプチ・ツーリング。

身近な歴史と優しい瀬戸内の風を感じるツーリングになりました~~~