2024春ツーリングの出発です。

4月の2週明けからスタートするつもりでいましたが、週前半は雨。

週中ごろにはお天気もよくなりましたが、今回のツーリング計画の3日目の宿泊先が名古屋市内。

3日目となる週末に名古屋市内で宿がとれず、結局4月13日(土)出発となりました。


旅の相棒は、Vストちゃん。

出発時点の走行距離5485kmな~~り。
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忘れないように出発前日にETCカードをセット。

お家を出発! 高速にのり、淡路島南PAで最初の休憩。

5000kmを越えたVストちゃん。 しわかった(重かった)中~高回転域が、だいぶんスムーズに回るようになってきました。
(・∀・)

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コンビニで買っておいた おにぎりで朝食っす。(・∀・)
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続いて淡路SAで2度目の休憩。

1時間~1時間半毎に休憩とらないと、腰がダメダメなんです・・・(TДT)

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明石海峡大橋がド~~ン!

ゴリラ・ナビちゃんに従い、高速道路を繋いで走っていたら・・・

えっ!?  目的地でないところで高速道路が途切れちゃった・・・Σ(゚д゚;)

あとで調べてわかったのが、阪神高速14号線松原線が工事で「喜連瓜破(きれうりわり)」でおろされちゃったみたい・・(;´Д`)


ナビちゃんの指示どおり、下道を少し走り、再度高速にのり・・

目的地近くの駐車場に とうちゃこ.。゚+.(・∀・)゚+.゚

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バイクの駐車料金は100円! 安いっ('▽'*)ニパッ♪

ここから てくてく

やってきましたよ。 最初の訪問地は「法隆寺」です。

小学校だったか中学校の時に、修学旅行で来たかもわかりませんが、まったく覚えていません・・(^^;

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【史跡 法隆寺境内】
法隆寺は聖徳太子創立、およそ一千四百年の伝統をもつ大伽藍である。
金堂、塔を中心とする西院伽藍は、よく上代寺院の相貌を伝え、わが国現存最古の寺院建築として、極めて価値が高い。その寺地は天平十九年の当寺資財帳に「方一百丈」とあり、また鎌倉時代の古今目録抄などによれば、現地域とほぼ合致している。

夢殿を中心とする東院伽藍は、天平十一年行信により聖徳太子の斑鳩官故地に創立されたが、天平宝字五年の東院資財帳に示される寺域は、現東院境内に現中宮寺をあわせた地域とみられる。
すなわち東西両院をふくむ、法隆寺伽藍の全城は、わが国上代寺院史上各種の重要史料を内包し、また斑鳩宮跡、若草伽藍などの重要遺跡もあわせて、その歴史的並びに宗教的価値はきわめて高いものである。


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【法隆寺縁起】
法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られています。 その創建の由来は「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や 『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747) の縁起文によって知ることができます。

それによりますと、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されましたが、その実現をみないままに崩御されたといいます。 そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、推古15年 (607) に寺とその本尊「薬師如来」 を造られたのがこの法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれています) であると伝えています。

現在、 法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。 広さ約18万7千平方メートルの境内には、飛鳥時代を始めとする各時代の粋を集めた建築物が軒をつらね、 たくさんの宝物類が伝来しています。 国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして約3000点に及んでいます。 このように法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶかがやかしい伝統を今に誇り、とくに1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めています。

①南大門 (室町時代) 法隆寺の玄関にあたるこの門は、永享10年 (1438) に再建されたものです。

②中門及び廻廊 (飛鳥時代)  
深く覆いかぶさった軒、その下の組物や勾欄(こうらん)、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の粋を集めたものです。重厚な扉と左右に立つ塑像の金剛力士像(奈良時代)は、東西にのびた廻廊の連子窓と対照的な組み合わせで、並列して建つ塔と金堂を壮麗に包み込んでいます。

③金堂(飛鳥時代) 
法隆寺のご本尊を安置する聖なる殿堂が金堂です。 威風堂々としたこの建物の中には、聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像 (飛鳥時代)、 太子の父君用明天皇のために造られた金銅薬師如来座像(飛鳥時代)、 母君穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために造られた金銅阿弥陀如来座像 (鎌倉時代)、それを守護するように、樟(くす)で造られたわが国最古の四天王像(白鳳時代)が、 邪鬼の背に静かに立っています。 そのほか木造吉祥天立像・毘沙門天立像(平安時代)が安置されています。

また天井には、天人と鳳凰が飛び交う西域色豊かな天蓋(てんかい)が吊され、周囲の壁面には、世界的に有名な壁画 (昭和24年焼損、現在はパネルに画かれた再現壁画がはめ込まれています)が描かれ、創建当初の美しさが偲ばれます。

④五重塔 (飛鳥時代) 
塔はストゥーパともいわれ、釈尊の遺骨を奉安するためのものであり、仏教寺院において最も重要な建物とされています。 高さは約32.5メートル(基壇上より)で、わが国最古の五重塔として知られています。

この最下層の内陣には、奈良時代のはじめに造られた塑像群があり、東面は維摩居士(ゆいまこじ)と文殊菩薩が問答、北面は釈尊が入滅、西面は釈尊遺骨 (舎利)の分割、 南面は弥勒菩薩の説法などの場面が表現されています。

⑤大講堂(平安時代) 
このお堂は仏教の学問を研鑽(けんさん)したり、法要を行う施設として建立されましたが、鐘楼とともに延長3年(925) に落雷によって焼失しました。 幸い正暦元年(990)には再建され、ご本尊の薬師三尊像及び四天王像もその時に作られています。

⑥経蔵(きょうぞう)(奈良時代) 
この建物は経典を納める施設として建立されましたが、現在は、天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、観勒僧正と伝える座像(平安時代) を安置しています。

⑦鐘楼 (平安時代) 
この鐘楼の中に吊されている白鳳時代の梵鐘は、今なお当時の音色を響かせています。

⑧上御堂(かみのみどう) (鎌倉時代) 
このお堂は奈良時代、天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)の発願によって建立したと伝えていますが、現在の建物は鎌倉時代に再建されたものです。その堂内には平安時代の釈迦三尊像と室町時代の四天王像が安置されています。

⑨西円堂(鎌倉時代) 
拝観コースからはずれた西院伽藍北西の小高い丘に八角造りの円堂があります。
その創建は奈良時代に橘夫人の発願によって行基菩薩が建立したと伝えていますが、現在の建物は鎌倉時代に再建されたものです。 そのお堂の中央には、わが国最大級の乾漆像として知られるご本尊薬師如来座像 (奈良時代)が安置されています。

⑩聖霊院(しょうりょういん) (鎌倉時代) 
東西の廻廊の外側には、それぞれ東室・西室という南北に細長い建物があります。 それらは僧侶の住居でありましたから僧房と呼んでいます。 とくに鎌倉時代に聖徳太子信仰の高揚にともなって、聖徳太子の尊像 (平安末期) を安置するために、東室の南端部を改造したのがこの聖霊院です。

⑪大宝蔵院 
聖霊院から東に進むと宝物庫である綱封蔵(こうふうぞう) (平安時代)があります。 その手前を北に進むと、食堂(奈良時代)や細殿(鎌倉時代)などの建物の奥に新しい伽藍が見えてきます。 ここが平成10年に落成した百済観音堂を中心とする大宝蔵院です。 建物の内部には、 有名な夢直観音像 (白黒時代)・ 推古天皇御所持の仏殿と伝える玉虫厨子 (飛鳥時代) ・蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子 (白鳳時代) をはじめ百万塔・中国から伝えられた白檀造りの九面観音像天人の描かれた金堂小壁画など、わが国を代表する宝物類を多数安置しています。 飛鳥時代から近世に至るこれらの宝物は、1400年に及ぶ法隆寺の信仰の遺産であり、法隆寺の歩んだ道のりをうかがわせる貴重な宝物と言えましょう。

⑫百済観音堂 
法隆寺に伝わる百済観音像 (飛鳥時代)は、わが国の仏教美術を代表する仏像として世界的に有名であります。
また日本の仏像には珍しい八頭身のすらりとした姿と、優美で慈悲深いその表情は多くの人びとを魅了しています。 法隆寺では、この百済観音の安住の殿堂をお造りすることが永年の悲願でありました。その夢がついに平成10年秋に実現いたしました。 それがこの百済観音堂であります。

⑬東大門 (奈良時代)
大宝蔵院を出て夢殿へ向かう途中に建っているこの門は、珍しい三棟造りという奈良時代を代表する建物の一つです。

⑭夢殿(奈良時代) 
西暦601年に造営された斑鳩宮跡に、行信僧都(ぎょうしんそうず)という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739) に建てた伽藍を上宮王院といいます。 その中心となる建物がこの夢殿です。 八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身の秘仏救世観音像 (飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像 (平安時代)、 聖徳太子の孝養像(鎌倉時代)、乾漆の行信僧都像 (奈良時代)、 平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像 (平安時代) なども安置しています。 この夢殿は中門を改造した礼堂 (鎌倉時代) と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を、供養するための殿堂としてふさわしい神秘的な雰囲気を漂わせています。

⑮舎利殿・絵殿 (鎌倉時代) 
舎利殿は聖徳太子が2才の春に、合掌された掌中から出現したという舎利を安置する建物で、絵殿には聖徳太子一代の事蹟を描いた障子絵が納められています。

⑯伝法堂 (奈良時代) 
このお堂は聖武天皇の夫人でありました橘古那可智の住宅を仏堂に改造したものです。堂内には三組の乾漆阿弥陀三尊像 (奈良時代)をはじめ多数の仏像が安置されています。

⑰東院鐘楼 (鎌倉時代) 
この鐘楼は袴腰と呼ばれる形式の建物で、内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊されています。



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【南大門】 (室町時代 国宝)
法隆寺の玄関にあたる総門。 三間一戸の八脚門で、当初は中門前の石段上に建っていたが、寺域の拡張により現在の場所に移され た。法隆寺の伽藍への主たる入口であり、門前の松並木からこの門
を潜り抜けると幅広い参道に出る。永享7年 (1435)に焼失し、現在の建物は、永享10年 (1438) の再建である。 組入天井を張り、 木鼻や花肘木が用いられ、軒は中央から大きく反り上がっている。


それでは、南大門をくぐり境内に入っていきますね。(・∀・)
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広い境内にいろいろな建物があるので、事前に効率のいい拝観順を調べていました。
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最初に境内西側の三経院・西室から。
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【三経院・西室】(鎌倉時代 国宝)
西室は西院伽藍回廊の西に位置する僧房で、かつては僧侶が居住していた。 しかし承暦年間(1077~1081)に焼失、現在の建物は寛喜3年 (1231) に再建されたもので、北側十二間を西室、南側七間を三経院とする。 西室は扉口と連子窓を設け二間で1房をなす僧房で、内部は小部室に区分されていたが、
現在は間仕切のない広間とする。 一方、三経院は蔀戸や側面に板扉がある住宅風仏堂で、聖霊院とよく似た外観である。 三経院の名称は聖徳太子が著された 『三経義疏』 (勝鬘経・維摩経・法華経の3つの経典の注釈書)にちなむものである。 毎年5月16日から8月15日までの夏安居の3カ月間、後方の西室では太子の遺言によって、寺僧が三経の講義を行っている。


三経院・西室の奥にある西円堂。
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【西円堂】(鎌倉時代 国宝)
光明皇后の母、橘夫人が建立を発願し、行基菩薩が養老2年 (718) に建立したと伝える。 八角円堂で、現在の建物は建長2年(1250)の再建であるが、凝灰岩の礎石や二重の須弥壇に天平の創建当初の名残がみられる。堂内中央には薬師如来像を安置し、 その周りを十二神将が囲む。 また東面に千手観音像、北面に不動明王像が祀られる。 西円堂では毎年2月1日から3日まで、弘長元年(1261) から続く修二会 (薬師悔過) が厳修される。 また3日目の結願法要に続いて追儺会(鬼追式)が行われ、3匹の鬼が基壇の上から松明を投げ、毘沙門天がその悪鬼を追い払う。

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(↑ 法隆寺HPより)
【薬師如来像】(奈良時代 国宝)
本尊の薬師如来像は、奈良時代に造られた丈六の大きな脱活乾漆造で「峯の薬師」と呼ばれて親しまれている。 光背は鎌倉時代の後補で、七仏薬師と千体仏が取り付けられている。 八角形の裳懸座に結跏趺坐する大らかな像容で、左手には薬壺を持ち、病を治してくださる仏として、今も篤い信仰を集めている。また本尊には、自分が大事にする刀や弓、鏡や櫛など、数多くの品々が各地から奉納されており、今も1万点を超える品々が保管されている。


この時、ちょうどお昼の12時。 西円堂横の鐘楼で時の鐘を鳴らしだしました。

ゴォ~~ン、ゴォ~~~ン・・・

余韻のある鐘の音色に感激でした。('▽'*)ニパッ♪
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朝の間は、ひんやりした気温でしたが、お昼からはライディングジャケットを着たままでは汗ばむほど気温が上昇・・('A`|||)

さて、法隆寺のメインの西院伽藍に。
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五重塔
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金堂
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(↑ *1「一個人 仏像入門」より)

大講堂
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s2024-04-13DSC_4393大講堂HPより
(↑ 法隆寺HPより)

建物もさるものの、様々な仏像も圧巻でした。拝観料1500円も納得です。(゚∀゚)アヒャ

構内の仏像関連は撮影禁止。 仕方ないですね。(ノд・。) グスン


西院伽藍の東側の聖霊院。
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【聖霊院】 (鎌倉時代 国宝) Shoryoin
法隆寺を創建した聖徳太子の尊像を安置する殿堂で、聖徳太子が薨去されて五百年に当たる保安2年(1121) に、僧房東室の南端三房分が御堂とされ、弘安7年(1284) に建て替えられて現在の姿となった。

聖霊院内陣の奥にある唐破風を付けた厨子は三部屋に区切られ、その中央には、保安2年に開眼された等身大の聖徳太子像、向かって右側の厨子には、太子の仏教の師である高句麗僧の恵慈法師と太子の弟君にあたる卒末呂王 、背後に地蔵菩薩像、向かって左側の厨子には、太子の長子である山背大兄王と太子の弟君にあたる殖栗王、背後に如意輪観音像が祀られている。

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(↑ 法隆寺HPより)


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(↑ *1「一個人 仏像入門」より)

【聖徳太子像】 (平安時代 国宝)
聖徳太子 (574~622) は、6世紀半ばに中国大陸から日本に伝来した仏教の普及において、中心的な役割を果たした人物で、本像は推古天皇の御前で勝鬘経を講説された35歳または46歳の時、あるいは摂政の姿とされる。毎年3月22日には厨子の扉を開いて、太子の御命日法要であるお会式が営まれる。このとき大山立と言われる供物などで堂内が荘厳される。


聖霊院に隣接する東室と妻室
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【東室】(飛鳥時代 国宝) Higashi Muro
西院伽藍回廊の東に位置する僧房で、天平19年(747) の『法隆寺資財帳』 に記された4棟の僧房のうち、創建以来の遺構を伝える唯一の建物である。 扉口と連子窓の南北二間分で1房を示し、本来9房であったが、南側の3房が聖霊院に改められ6房分が残る。保安年間(1120~1124) に旧材を用いた再建に近い大修理がなされ、以来、度重なる大修理や改造によって僧房としての機能は失われていった。 しかし現在の建物は北側の第2、第3房が白鳳創建当初に近い形式に復されている。 また、大梁が全体に円弧形で回廊の虹梁によく似ていることから、回廊とともに造営されたと考えられる。 なお東側の軒には丸垂木が使われており、創建当初の面影が遺っている。

【妻室】(平安時代 重要文化財) Tsumamuro
東室に付属する建物で、東側に並行して建つ。 平安時代の建立と考えられ、正式には「東室小子房」と称し、小子房としては現在唯一残る建物である。 慶長6年(1601)の改造の際に、南北の長さが約3分の2に縮小され、南半分が聖霊院の御供所、北半分が東室の台所にされた。 現在は当初の9房の姿に復元されている。各房は三間を1房とし、南寄りの一間は扉口のある前室、北寄りの二間は窓のない居室となっている。 そして東室の各房と中庭を挟んで1組として使われ、中庭も房ごとに仕切られていた。


東室と妻室の東に隣接する食堂
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【食堂】(奈良時代 国宝)  Jikido Refectory
奈良時代に創建され、もとは政屋と呼ばれる建物であったが、平安時代になって食堂として使われるようになった。 内部は土間で、全体が吹き放しの広い一室となっており、中央の厨子に奈良時代の塑像、薬師如来座像が安置されている。 建物は食堂の南側にある細殿と軒を接して建つ双堂で、奈良時代の建築様式をよく残している。なお現在は4月8日にお釈迦さまの生誕を祝う仏生会の法要が営まれる。


食堂の奥には大宝蔵院
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(↑ 法隆寺HPより)


参道に戻り東に進みます。
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【東大門】(奈良時代 国宝)
西院伽藍から東院伽藍へ通じる参道途中に建つ。 門の来歴は不明だが、昭和9年(1934) の解体修理の際に発見された部材の番付墨書から、食堂の南方あたりに南向きに建っていた門を平安時代に移築し、東西に通り抜ける門としたと推測されている。 南北に通る棟木が、両脇と中央の合計3本ある三棟造という建築様式で、奈良時代の姿を伝える貴重な門である。


東大門をくぐり東院伽藍へ。

桜が綺麗ですね~~.。゚+.(・∀・)゚+.゚
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【夢殿】(奈良時代 国宝)
西院の東大門をくぐると、広い参道の正面に東院伽藍が現われて、夢の上には見事な夢殿の宝珠が輝いています。 ここは聖徳太子の斑鳩の宮の跡で、朝廷の信任厚かった高僧行信 (ぎょうしん) が宮跡の荒廃ぶりを嘆いて太子供養の伽藍の建立を発願し、天平20年(748) に聖霊会 (しょうりょうえ) を始行したとされる太子信仰の聖地であります。

高い基壇の上に立つ八角円堂の夢殿は東院の本堂で、 天平創建の建築でありますが、 鎌倉期の寛喜 2年 (1230) に大改造を受け、 高さや軒の出、 組み物などが大きく改変されているものの、古材から天 平の姿に復元することもできるほど古様を残しています。


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(↑ 法隆寺HPより)


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(↑ *1「一個人 仏像入門」より)

【救世観音像】(飛鳥時代 国宝)
クスノキの一材から彫出された像で、像高が約179cmあり、聖徳太子の等身像と伝えられる。 慈悲に満ちた面長な顔立ちで、大きな宝冠をいただき、火焔付の宝珠を両手で胸前に捧げ、 二重反花の台座に立つ。 そのお姿は太子を意識したとも考えられる。 久しく秘仏として厨子の扉が閉ざされていたが、明治17年 (1884) に法隆寺を訪れたフェノロサらは反対する僧侶たちを説き伏せて厨子を開扉した。 現在では毎年2回、春と秋に特別開扉が行われる。


夢殿の奥の絵殿・舎利殿
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【絵殿・舎利殿】(鎌倉時代 重要文化財)
創建時は『東院縁起』に「七間御経蔵」と記された建物で、聖徳太子ゆかりの品々を保管する蔵であったが、承久元年(1219) の建て替えで改造され、東側三間分を舎利殿、西側三間分を絵殿、中央一間を馬道とした。 舎利殿中央の仏壇上には貞治3年 (1364) 造立の春日厨子が置かれ、「南無仏舎利」が納められた。 この南無仏舎利は、太子が2歳の春に東に向かって合掌し、南無仏と唱えられた時に、その掌中から出現したと伝えられる。 毎年1月1日から3日間厳修される舎利講で奉出 (ご開帳) される。 また絵殿には、平安時代の延久元年(1069) に、秦致貞によって聖徳太子の生涯の事蹟が描かれた障子絵が納められていた。 後方には聖霊会の本尊である太子像をお祀りする相殿が設けられ、承久元年の建て替えで現在の姿になった。 なお、障子絵は「聖徳太子絵伝」 と言われ、明治11年(1878) に皇室に献納され、現在は天明7年 (1787) の模写となっている。


この東側には中宮寺。

中宮寺の半跏思惟像を拝見したかったのですが・・
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大工事中・・

やってきた参道を戻ります。
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法隆寺。  いや~~~、想像以上に良かったです。

このあとのスケジュールがあったので、駆け足で見て回りましたが、もっと時間をかけてのんびり拝観したかったなあ。

*注1:文中の参照文献はこちら↓
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-続く-


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