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駐車場

2024春ツーリング 「関西・中部」VOL5 2日目(4/14)その2<唐招提寺>

前回記事の続きです。

薬師寺から1.4km程北に 

向かったのは、唐招提寺。

唐招提寺 南大門の南側に駐車場があります。

自動車は有料ですが、バイク、自転車は無料だとか。

どこから入ったらいいの??? 

前のお土産物屋さんに聞くと、駐車場ゲートの横の隙間から入り、ゲートすぐの駐輪所置き場にとめるといいそうな・・。

はじめてきた人はわからんよね~~(^^;


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南大門で拝観料を支払います。
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【唐招提寺】  Toshodaiji Temple, Nara 
古都奈良のお寺の中でも、唐招提寺は火災などの被害が比較的少なく、創建当初の建物が多く残っています。 金堂は奈良時代 (780年頃)に建立された現存する唯一の本格的な金堂遺構として、寺院建築の研究にも非常に貴重な存在です。 同様に、朝廷から朝集殿を移築した講堂は、現存している唯一の平城宮建築例です。 日本人僧侶を教育するために、そして国内で仏教をさらに広めるために、聖武天皇が唐から招待した中国人僧侶の鑑真和上が、唐招提寺を759年に建立しました。 仏教の導入に鑑真は多大なる影響を与え、唐招提寺における鑑真の教えは、その過程において重要であったと考えられます。 南大門を通り伽藍に入ると、参拝道が真っ直ぐ金堂に続き、落ち着いた色合いの大きくて延びやかな屋根が見えます。 均衡のとれたその美しい軒を支える太い8本の円柱は、アテネのパルテノン神殿に比べられるほどです。 素晴らしい外観とともに、金堂の中には仏教的な宇宙観を現す盧舎那仏坐像など、9体の仏像が安置されています。 その中でも1000本の腕を持つ千手観音像は、木造のものでは国内最大最古のひとつです。


拝観料1000円な~~り。

いいお値段しますね~~(^^;
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【唐招提寺】 TOSHODAIJI-TEMPLE
唐招提寺は天平宝字三年(759)、唐の高僧鑑真大和上によって創建されました。 鑑真大和上は聖武天皇の願いに応えて来朝を決意されました。

井上靖の名作『天平の甍』 にもあるように、五度の失敗にも屈することなく来日してわが国に戒律を伝え、大和上の称号を賜りました。 その後、戒律を学ぶ道場として、当寺が創立されました。 以来千二百五十年、律宗総本山としてその法灯を今に伝えています。 金堂は代表的な天平建築です。


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【鑑真大和上と唐招提寺】
鑑真和上は六八八年に中国揚州で誕生、十四歳の時、揚州の大雲寺で出家されました。 二十一歳で長安実際寺の戒壇で弘景律師に授戒を受けたのち、揚州大明寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽に並ぶ者のない律匠と称えられました。七四二年に日本からの熱心な招きに応じ渡日を決意されましたが、当時の航海は極めて難しいもので、鑑真和上は五度の失敗を重ね盲目の身となられました。 しかし和上の意志は堅く、七五三年十二月、六度目の航海で遂に来朝を果たされました。
翌年和上は東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武太上天皇をはじめ四百余人の僧俗に戒を授けました。これは日本初の正式授戒です。鑑真和上は東大寺で五年を過ごされたのち、七五八年大和上の称号を賜わりました。あわせて右京五条二坊の地、新田部 (にたべ)親王の旧宅地を賜わり、天平宝字三年(七五九) 八月戒律の専修道場を創建されました。これが 現在の律宗総本山唐招提寺のはじまりです。

<金堂> [国宝] 奈良時代(8世紀後半) 寄棟造・本瓦葺
南大門を入り参道の玉砂利を踏み締めて進むと、誰もが眼前に迫る金堂の偉容に圧倒されます。豊かな量感と簡素な美しさを兼ね備えた天平様式、正面に並ぶ八本のエンタシス列柱の吹き放ちは、遠くギリシャの神殿建築技法がシルクロードを越え、日本まで伝来したかのように感じさせます。会津八一は「大寺のまろき柱の月かげを土に踏みつつものをこそ思え」と詠み、井上靖は和上の生涯を『天平の甍』と題した小説に書き、その名を世に広めました。 内陣には像高三メートルに及ぶ盧舎那仏(るしゃなぶつ)を中央に巨大な三尊 [乾漆造(かんしつづくり) 国宝]が居並び、厳粛な空間を生み出しています。本尊・盧舎那仏坐像(大仏)は宇宙の中心、釈迦の本地仏として中尊に、その東方に現世の苦悩を救済する薬師如来立像、西方に理想の未来へ導く十一面千手観世音菩薩立像が配されています。本尊の脇士には等身の梵天・帝釈天立像 [木造 国宝]が従い、須弥壇 (しゅみだん) 四隅には四天王立像[木造 国宝]が諸尊を守護しています。創建以来の天平金堂と、内陣の九尊が織り なす曼荼羅世界は、参拝者を魅了せずにはおかないでしょう。

<講堂> [国宝]  奈良時代(8世紀後半) 入母屋造・本瓦葺
講堂は、和上が当寺を開創するにあたり平城宮東朝集殿を朝廷より賜り移築したもので、平城宮唯一の宮殿建築の遺構です。 本尊弥勒如来坐像 [鎌倉時代 木造 重要文化財] は釈迦牟尼仏の後継で、将来必ず如来として出現し法を説くとされます。そのため通常は菩薩像ですが、本像は如来像として表現され、金堂の三尊と合わせて顕教四仏となる古式で配列されています。持国・増長の二天[奈良時代 国宝]も講堂内部に共に配されます。

<鼓楼> [国宝]  鎌倉時代 仁治元年(一二四〇) 楼造入母屋造本瓦葺
瀟酒(しょうしゃ)な重層の建物で、本来は経楼とみられますが、鎌倉時代に再建されたのち鼓楼と呼称されたようです。一階に和上将来の三千粒の仏舎利を安置しているところから「舎利殿」とも称されます。毎年五月十九日には、鎌倉時代戒律を復興した大悲菩薩覚盛上人(かくじょうしょうにん)の中興忌(うちわまき会式)が行われ、法要後、楼上からハート型の宝扇がまかれます。この鼓楼と対をなす建造物として鐘楼があり、当初の建物は残っていませんが、梵鐘 [重要文化財]は平安初期の数少ない遺例でたいへん貴重なものです。

<礼堂・東室>  [重要文化財]  鎌倉時代 弘安七年(一二八四)  入母屋造・本瓦葺
南北に長い建物で、従来は僧侶の起居した僧坊でした。 講堂を中心に西と北にもそれぞれ建物があり、三面僧坊と呼ばれていましたが礼堂・東室のみが現存しています。 中央の馬道(めどう)と呼ばれる通路で南北に分けられ、南半分の礼堂は解脱上人貞慶(げだっしょうにんじょうけい)が始修された「釈迦念仏会」の会場に改められました。この法要では和上将来の仏舎利・金亀舎利塔(きんきしゃりとう) [国宝]が本尊として礼拝されますが、平素は清涼寺式釈迦如来立像[鎌倉時代 重要文化財]が安置されています。

<戒壇>  石段のみ鎌倉時代
金堂の西側にある戒壇は、僧となるための授戒が行われる場所です。創建時に築かれたとされていますが、中世に廃され、その後再興されたものの火災により建物は失われました。 現在は、三段の石段のみが残り、その上に昭和五十三年(一九七八)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれました。


<宝蔵・経蔵> [ともに国宝]  奈良時代(8世紀)  校倉・寄棟造・本瓦葺
礼堂の東側に並んで建つ校倉(あぜくら) 様式の建物で、北に位置し一回り大きい方が宝蔵です。南にある小さいほうの経蔵は、唐招提寺が創建されるより前にあった新田部親王邸 の米倉を改造したものといわれ、日本最古の校倉です。

<御影堂> [重要文化財]  江戸時代
もと興福寺別当寺院、一乗院の宸殿と殿上の遺構で、昭和三十八年(一九六三)に移築復元して鑑真和上坐像[国宝]を納め御影堂としたものです。昭和五十年には東山魁夷画伯による障壁画が揮毫奉献され、和上の像を奉安する静寂な宸殿に、一層の荘厳さをもたらしました。毎年六月六日の開山忌舎利会の際、前後三日間だけ御影堂内が公開され、鑑真和上像を参拝することができます。

<開山堂と鑑真大和上御身代り像>
開山堂は元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立され、その後明治十四年(一八八一)に鑑真大和上のお像を安置するため現在の位置へ移築されました。国宝の和上像が御影堂へ移されたのち、覚盛上人・聖武天皇・徳川家康を安置した本願殿として参拝されていましたが、 この度、御堂の老朽化をうけて改修工事を行い、鑑真大和上円寂から一二五〇年になる平成二十五年(二〇一三)、大和上のお姿を写した「御身代わり像」がつくられ、再び開山堂として落慶致しました。
御身代わり像(御影像)は、年間数日しか開扉しない国宝の和上像に代わって、毎日参拝していただく目的で製作したものです。この像は奈良時代の脱活乾漆技法(特に国宝和上像)を忠実に踏襲した模造で、平成十二年から始まった金堂の盧舎那仏修理時に得られた知見も生かされております。彩色は、国宝の和上坐像が江戸時代末期の火災で被った形跡を排除して、両頬や上衣、袈裟に残る当初の部分を再現し、正倉院に伝来する伎楽面と同様、荏胡麻(えごま)油を表面に塗布しました。これも今回の模造過程で国宝坐像を調査して判明した新知見です。
この平成御影像も国宝和上像と同じく、大和上の遺徳を永く伝えていく拠所となります。

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南大門をくぐると見えてきたのが金堂。
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<金堂> [国宝] 奈良時代(8世紀後半) 寄棟造・本瓦葺
南大門を入り参道の玉砂利を踏み締めて進むと、誰もが眼前に迫る金堂の偉容に圧倒されます。豊かな量感と簡素な美しさを兼ね備えた天平様式、正面に並ぶ八本のエンタシス列柱の吹き放ちは、遠くギリシャの神殿建築技法がシルクロードを越え、日本まで伝来したかのように感じさせます。会津八一は「大寺のまろき柱の月かげを土に踏みつつものをこそ思え」と詠み、井上靖は和上の生涯を『天平の甍』と題した小説に書き、その名を世に広めました。 内陣には像高三メートルに及ぶ盧舎那仏(るしゃなぶつ)を中央に巨大な三尊 [乾漆造(かんしつづくり) 国宝]が居並び、厳粛な空間を生み出しています。本尊・盧舎那仏坐像(大仏)は宇宙の中心、釈迦の本地仏として中尊に、その東方に現世の苦悩を救済する薬師如来立像、西方に理想の未来へ導く十一面千手観世音菩薩立像が配されています。本尊の脇士には等身の梵天・帝釈天立像 [木造 国宝]が従い、須弥壇 (しゅみだん) 四隅には四天王立像[木造 国宝]が諸尊を守護しています。創建以来の天平金堂と、内陣の九尊が織り なす曼荼羅世界は、参拝者を魅了せずにはおかないでしょう。


s2024-04-14DSC_4556_01盧舎那仏坐像
s2024-04-14DSC_4556_02千手観音菩薩立像
s2024-04-14DSC_4556_03持国天
s2024-04-14DSC_4556_04増長天
s2024-04-14DSC_4556_05多聞天
(↑唐招提HPより)

どの仏像(如来、菩薩、天の像)も直に見ると、ほんと ありがたみを感じます。


金堂奥(北側)の講堂。
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<講堂> [国宝]  奈良時代(8世紀後半) 入母屋造・本瓦葺
講堂は、和上が当寺を開創するにあたり平城宮東朝集殿を朝廷より賜り移築したもので、平城宮唯一の宮殿建築の遺構です。 本尊弥勒如来坐像 [鎌倉時代 木造 重要文化財] は釈迦牟尼仏の後継で、将来必ず如来として出現し法を説くとされます。そのため通常は菩薩像ですが、本像は如来像として表現され、金堂の三尊と合わせて顕教四仏となる古式で配列されています。持国・増長の二天[奈良時代 国宝]も講堂内部に共に配されます。

↑と、ありましたが・・
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Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン

帰ってから調べてみると・・

s2024-04-14DSC_4559_03唐招提寺X
(↑ 唐招提寺X(旧ツィッター)より)

仕方ありませんね。(;´Д`)


講堂奥(北)にすすみます。
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開山堂。
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s2024-04-14DSC_4562 鑑真大和上御影像
(↑唐招提HPより)

<開山堂と鑑真大和上御身代り像>
開山堂は元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立され、その後明治十四年(一八八一)に鑑真大和上のお像を安置するため現在の位置へ移築されました。国宝の和上像が御影堂へ移されたのち、覚盛上人・聖武天皇・徳川家康を安置した本願殿として参拝されていましたが、 この度、御堂の老朽化をうけて改修工事を行い、鑑真大和上円寂から一二五〇年になる平成二十五年(二〇一三)、大和上のお姿を写した「御身代わり像」がつくられ、再び開山堂として落慶致しました。
御身代わり像(御影像)は、年間数日しか開扉しない国宝の和上像に代わって、毎日参拝していただく目的で製作したものです。この像は奈良時代の脱活乾漆技法(特に国宝和上像)を忠実に踏襲した模造で、平成十二年から始まった金堂の盧舎那仏修理時に得られた知見も生かされております。彩色は、国宝の和上坐像が江戸時代末期の火災で被った形跡を排除して、両頬や上衣、袈裟に残る当初の部分を再現し、正倉院に伝来する伎楽面と同様、荏胡麻(えごま)油を表面に塗布しました。これも今回の模造過程で国宝坐像を調査して判明した新知見です。
この平成御影像も国宝和上像と同じく、大和上の遺徳を永く伝えていく拠所となります。


鑑真和上。 既述のとおり「七四二年に日本からの熱心な招きに応じ渡日を決意されましたが、当時の航海は極めて難しいもので、鑑真和上は五度の失敗を重ね盲目の身となられました。 しかし和上の意志は堅く、七五三年十二月、六度目の航海で遂に来朝を果たされました。」と。

仏教界ならず、日本人の倫理観にも大きな影響を与えたと言える人なのではないでしょうか。

それしにても、当時の渡航は命がけだったんですね。

入口の南大門から一番奥(北東)の奥まった場所に、鑑真和上の墓所となる鑑真和尚御廟(ごびょう)があるみたいです。

行ってみましょう。
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東西にはしる土屏の奥にそれはあります。

門をくぐると、すばらしい苔がひろがっていました。
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開山御廟(かいざんごびょう)。
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金堂、講堂他の伽藍の参拝者は大勢いらっしゃいましたが、こちらまでお参りされている方が少なかったのは残念です。

手を合わせ、南大門の方にもどります。

新寶(宝)蔵。
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唐招提寺拝観料1000円とは別に、200円の拝観料がいるのね。(;´Д`)

パス!! (^^;


そして宝蔵、経蔵。

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<宝蔵・経蔵> [ともに国宝]  奈良時代(8世紀)  校倉・寄棟造・本瓦葺
礼堂の東側に並んで建つ校倉(あぜくら) 様式の建物で、北に位置し一回り大きい方が宝蔵です。南にある小さいほうの経蔵は、唐招提寺が創建されるより前にあった新田部親王邸 の米倉を改造したものといわれ、日本最古の校倉です。

駐車場まで戻ってきて、次に向かいます。

薬師寺、唐招提寺を見終わり、この時am10時半過ぎ。 徐々に気温が高くなってきました。Σ(´д`;)


-続く-


2024春ツーリング 「関西・中部」VOL4 2日目(4/14)その1<薬師寺>

さて、この旅の二日目です。

宿のある天理市から北に30分程 Vストちゃんを走らせます。

”大池”越しに見える二つの塔!  
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この日 最初の目的地。 薬師寺の駐車場にとうちゃこ~~~ヾ(´ω`=´ω`)ノ

駐車料金、バイクは100円。 安くって d( ̄◇ ̄)b グッ♪

駐車場から、てく・てく・てく
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 ( *゚ェ゚)ン? 薬師寺の前にこちらを参拝するのがマナーとか!?
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【薬師寺休ヶ岡八幡宮縁起】
日本人は奈良時代より仏菩薩本地とし諸神を垂迹として、両者が表裏一体となり、互に利益を施しながら衆生済度されるものとする信仰に生きてきた。

薬師寺は寛平年中(八八九~八九八)に、別当の栄紹大法師が寺の鎮守としてこの八幡宮の祭神である憎形八幡神・神功皇后・仲津姫命(いずれも国宝)を勧請した。

現在の社殿(重要文化財)は、幾度かの天災・人災により破壊・焼失 された後、慶長八年(一六〇三)に豊臣秀頼によって新造されたものである。他に端垣門・楼門・中門等も新造されたが地震で崩壊した。
本殿は三間社流造で、両脇に脇殿が接続している。脇殿は十九明神の板絵(宝蔵殿に安置)が祀られている。

南北の細長い建物は座小屋と呼ばれ寺僧の加行場としても使用されたが、本来は古くから存した客座の座衆が座すところで、明治以後残っている例は少ない。また両脇に脇殿が付属する社殿は少なく、しかも座小屋まで残っている点で歴史的に重要な建物とされているのみならず、明治以後は神仏が分離され、一寺院が神社を管理している例は少ない。

将来はさらに神域を整備し、楼門などの復興を含め、本地垂迹・神仏習合の日本古来の信仰の姿にかえすよき信仰の道場として復興したいと念願している。


ちゅうことで、お賽銭をチャリ~~ン。 
ペコペコ・パンパン・ペコ(二礼二拍手一礼)。

薬師寺南門にやってきました。

左手側に朱が綺麗な西塔。 右手側に趣きのある東塔が見えてきましたよ。(☆゚∀゚)

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【法相宗大本山 藥師寺】
当寺は第四十代天武天皇の発願によって飛鳥の地、藤原京に建立(六八〇)され、その後 平城遷都に伴って養老二年 (七二八) 平城京六条二坊 (現在地)へ移された。

金堂本尊薬師如来像に、日光・月光菩薩像、東院堂本尊聖観世音菩薩像と、何れも円満相好な美しさを白鳳時代の優雅な鋳金技法で表現している。 これらは比類なき佛像と仰がれ、全て国宝である。また金堂本尊薬師如来台座は珍重な図様彫刻として名高く国宝に指定されている。

東塔は創建当時からの唯一の遺構で頂の水煙は実に美しい。 

インド渡来で日本最古の佛足石と、萬葉仮名三十八文字からなる二十一首の歌が鮮明に刻まれた佛足跡歌碑は修正会本尊である吉祥天女画像と共に天平時代各分野の典雅である。


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こちらの拝観料1000円な~~り。

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【薬師寺縁起】
薬師寺は天武九年(六八〇)天武天皇により発願され、持統十一年(六九七) 持統天皇によって本尊を開眼、さらに文武天皇の御代に至り、飛鳥藤原京において堂宇の完成をみました。
その後和銅三年(七一〇)の平城遷都に伴い、養老二年(七一八)、平城京右京に移されました。

東西両塔を有する薬師寺式伽藍は我が国随一の壮美を誇っていました。 しかし、度重なる災害によって諸堂が灰燼に帰し、昭和初期に至っては辛うじて難を逃れた東塔だけが、往古のたたずまいを偲ばせておりました。失われた堂宇の再建は、薬師寺の大悲願でした。

昭和四十二年(一九六七) 高田好胤管主により、お写経勧進による白鳳伽藍の復興が発願され、金堂、西塔、中門、回廊、大講堂、食堂を再建。 白鳳伽藍の壮麗な美しさがよみがりました。

お写経によるご結縁を頂戴し、その尊い功徳 徳によって建立された堂塔は、まさに浄らかな心の結晶です。この壮麗な大伽藍の美しさは「龍宮造り」と呼ばれ、千三百年という長い歴史の時空を超え、今なお信仰と美術が見事に調和し息づいています。

平成十七年(一九九八) 十二月には世界遺産に登録されました。現代においては、伝統を生かして次世代に継承することと人々の心の復興が大きな課題です。迷い多い世の中に悩む人々が浄らかな心・感謝の心を持ち、身心安楽を得られることを、薬師寺は願っております。

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<金堂  昭和51年(1976) 再建>
薬師如来の浄瑠璃世界を彷彿とさせる堂塔は龍宮造りと呼ばれましたが、 享禄元年(1528) 焼失し、 慶長5年 (1600) に仮金堂が建立されました。 その後、宮大工の名工である西岡常一棟梁により、昭和46年(1971) から5年の歳月をかけて、創建当初の姿で再建されました。

<大講堂   平成15年(2003)再建>
多くの学僧が仏教の教学を学んだ古代の伽藍では、金堂よりも講堂が大規模でした。 平成15年(2003)に再建され、伝統工法による復元建築としては史上最大級です。本尊は弥勒三尊像(重要文化財・奈良時代)、 後堂には仏足石と仏足跡歌碑 (共に国宝・奈良時代)を安置し、仏足石の両脇には中村晋也氏による釈迦十大弟子が祀られています。

<西塔   昭和56年(1981) 再建>
享禄元年(1528) に創建以来の建物は焼失したため、昭和の東塔への綿密な調査に基づいて設計され、伝統的な木造建築の工法で再建されました。 屋根の勾配をゆるくし、また、青に塗った連子窓を設ける点は、創建当時の形式によります。内陣には、中村晋也氏による釈迦八相像のうち、成道・ 転法輪・涅槃・分舎利の果相四相が祀られています。

<東塔    国宝・白鳳時代>
創建当時から残る唯一の建物。各層に裳階をつけているため六重に見えますが、三重の塔。 この特異な形が、全体として律動的な美しさを保ち、“凍れる音楽”と称され親しまれています。 平成21年から12年をかけて、初の全面解体大修理が行われ、その姿を未来に伝えます。 これを機に1300年の年月を経た水煙は役目を終え、平成の水煙に取り換えられています。 内陣には、中村晋也氏による釈迦八相像のうち、入胎・受生・受楽・苦行の因相四相が祀られています。

<薬師三尊像   国宝・白鳳時代 金堂安置>
中央に薬師如来、向かって右が日光菩薩、左が月光菩薩、合わせて薬師三尊といいます。薬師如来は東方浄瑠璃浄土の教主で、私たちの身と心の健康を護る仏様です。 脇侍の日光・月光菩薩は、動きのある美しい姿で、理想的な写実美を完成した仏様といわれています。 また、本尊台座の文様は当時の東西文化交流を伝える貴重なものです。

<東院堂   国宝・鎌倉時代>
東院堂は養老年間に吉備内親王が、元明天皇の冥福を祈り、発願し建立されました。現在の建物は、弘安8年(1285) に再建され、享保18年(1733) に西向きにされています。 奈良時代は土間が通常ですが、再建にあたり板床に造り変えられています。鎌倉時代の建築様式を巧みに残しており、日本最古の禅堂として知られています。

<聖観世音菩薩立像   国宝・白鳳時代  東院堂安置>
さまざまな観世音菩薩の中で、変化されてない本来のお姿なので 「聖(しょう)観世音菩薩」と呼ばれます。 肩のあたりまで幾筋かに分かれて下がる垂髪、 二重の首飾り、透きとおるよ うな衣服、花びらのような繊細で美しい指の動き、そして直線的な姿勢。 これらは、インドのグプタ王朝の影響を強く受けています。 本像を囲むように四天王像 (重要文化財 鎌倉時代)が祀られています。


中門を守る二体の像。
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金剛力士像ではありませんでした。

四天王のうちの二天が門を守護していました。

右手(東)の天。
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左手(西)の天。
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ともに邪鬼を踏みつけています。(・∀・)

なかなか足元まで目がいきませんが、四天王像を見るときは、邪鬼の表情まで目をやると楽しいですよ。(^_-)-☆

持国天、増長天、広目天、多聞天からなる四天王。

後の説明にも出てくるように、薬師寺の大部分が安土桃山時代の享禄元年(1582)に発生した兵火によって焼失しており、その際にこちらの天像も焼失したようです。

今の二天像は、平成3年(1991年)には発掘調査などの結果に基づき、復元されたものだとか。

今 設置されている二天像ですが、右手側(東側)は三鈷杵を持っており増長天なのかな?

左手側(西側)は、持国天なのか、広目天なのか??? わかりましぇん(^^;


中門をくぐると、白鳳伽藍が目にとびこんできます。

中央には存在感ある金堂が!!

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【金堂緣起】
薬師寺は天武九年(六八〇)に藤原京に造営され、平城遷都に伴い養老二年(七一八)に平城京六条二坊(現在地)に移された。 

享禄元年(一五二八)の兵火により堂宇の殆どを焼亡し、僅か東塔・東院堂を余すのみであったが、幸いにも諸佛は辛うじて猛火に耐えて、漆黒の尊容はかえって輝きを増したのであった。

慶長五年(一六〇〇)、本尊薬師三尊の雨露を凌ぐ仮堂が建てられた。しかし約四百年の時間の流れにより老朽破損が進み、本尊を祀る金堂をなんとしても復興したいという願いから、昭和四十三年に般若心経の百巻写経による金堂復興勧進を開始した。

当時の高田好胤管主を盟主とする一山僧侶による挺身的な勧進が行われ、その傍ら各界の協賛をも得て昭和四十六年に起工式を迎え、昭和五十年末、遂に百石巻の大目標を達成すると共に、翌昭和五十一年の春、金堂の落慶を見るに至った。

建築は古社寺建築の碩学の周到な調査研究に基づいた設計により、昭和の名匠たちが古代の工法に則って建立したものである。白鳳様式の二重二閣、五間四面で内陣には仏像・お写経の防災の為の鉄筋コンクリートの耐火構造、外陣には数千年を経た台湾の桧材を用い、往古の遺構としての木造建築として復興された。 屋根瓦は白風時代の出土瓦を忠実に模し、鴟尾や風鐸も同時代の参考史料に基づいて制作された。全ての飾金具は古代のものに倣った。 また内部の荘厳、特に美麗を極める天井絵は東塔のそれに倣って復元されたものである。

全国から納経された百万巻写経は、本尊の頭上高く設えに納経蔵に整然と納められ、永代にわたり薬師如来の御宝前に供えられている。 

経済的繁栄の陰にとかく心の荒廃が夏慮される現代において、この金堂に凝縮された浄菩提心は千年の後代までも不滅の光彩を放つことを信ずるものである。


s2024-04-14DSC_4510金堂薬師三尊像HP01
(↑ 薬師寺HPより)


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(↑ MOOK本「一個人 仏像入門」より)

この薬師如来像と菩薩像を直に見れただけで、大満足です。v( ̄∇ ̄)v


金堂の左側(西側)に建つ西塔。
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【西塔緣起】
塔はインドの古い言葉でストゥーパといい、本来釋尊の舎利(御遺骨)を祀る墓を示した。中国ではそれが卒塔婆と音訳され、やがて日本にも「卒塔婆」として伝来した。その後一般には墓標を「塔婆」と呼び慣わし寺では「塔」とのみ呼称するようになった。

白鳳時代に薬師寺が日本で初めて二基の塔を相対し配置する伽藍様式にて建立した。以後この様式を「薬師寺式伽藍配置」と呼称するようになった。 

西塔は享禄元年(一五二八)、金堂・ 講堂・中門等とともに兵火によって焼亡し、以来数百年にわたり礎石のみが虚しく往古の壮美を偲ばせる有様であった。 
近年に至り般若心経の百万巻写経勧進呼応して、全国より寄せられた佛心がここに凝集され昭和五十六年、遂に白鳳時代きながらの塔が復元された。 

西塔建築は塔高三十六米、総桧造りで 東塔の綿密な調査と古記録の研究に基づいた設計による完全復元であって、東塔に並ぶ美しい諧調に加えて鮮やかな丹青が施されている。塔の心礎には平山郁夫画伯の請来された佛舎利が奉安されている。

創建時は内陣に釋尊のご生涯(仏伝) の内、後半生の果相(成道・転法輪・涅槃・分舎利)を表す塑像群が祀られていたが、塔と共に焼失した。 平成二十七年、彫刻家 中村晋也氏が、往時の仏伝を金銅製によって、現代に蘇らせた。


昭和56年に復元されたものなので、まだ朱が綺麗ですね~~。(*´∇`*)


金堂の右手側(東側)に建つ東塔。

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【東塔縁起】
薬師寺東塔は白鳳様式を伝える数少ない建物の一つであり、卓抜な意匠を示す日本建築の至宝として最高の讃辞を捧げても、なお足りることを知らぬと賞されている。

塔とは釋尊の舎利(御遺骨)を祈りの対象としてお祀りする重要な建物である。

東塔は大小の屋根が交互に出入りする、裳階(もこし)がつけられた特異な構造形式で、その幻想的なさまから「凍れる音楽」と称されている。

東塔の平面は一辺一〇.五一米、高さ三四.一三米あり、三重塔としては稀にみる大きさと高さである。

最頂部にある水煙には衣を翻し飛翔する二十四の天人が透かし彫りされており、それぞれが軽快な律動感を表出、その意匠は極めて優れている。また、擦管には薬師寺創建の縁起が刻文されている。

長い歴史上で部分的な修理が幾度となく施され護られて来たが、近年の調査により心柱脚部の傷みが顕著であることが判明、文化庁及び奈良県の指導のもと、平成二十一年(二〇〇九)より各匠の技を結集し、史上初の全面解体による保存修理事業が行われた。

解体作業中、心柱の最頂部より佛舎利が 発見され、再び同所へ戻すに際し五重(玻璃、純金、青磁、籃胎漆器、紬織)の入れ子式の新たな舎利容器が、平成の名工の技により誂えられ奉安なされた。

令和三年(二〇二一)春、全国から納められたお写経・お浄財等が佛心として凝集、全面解体修理は無事に完了、東塔は壮麗な姿と共に、千三百年の歴史を今に伝えている。


西塔に比べて地味やなあと思っていたら・・

創建当時から残る唯一の建物!! シツレイシマシタ・・('д` ;)

そういえば時代を経てきた趣きのある塔ですね~~。(^^;


金堂の奥にすすんでいきます。

金堂奥から振り返った図。↓
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金堂奥にあるのが・・大講堂!
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【大講堂緣起】
大講堂は、平成十五年(二〇〇三)の復興。裳階付の薬師寺独自の様式である。幅四十一米 奥行二十米、高さは約十七米あり、伽藍最大の建造物である。基本設計は西岡常一棟梁によるもので伝統工法による復元建築でありながら、現在の建築基準法に合わせ現代の技法も取り入れられている。

大講堂が大規模なのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ、講堂に大勢の学僧が参集して経論を講讃することに由来する。 特に薬師寺では、天七年(八三〇)に南京三会の一つである最勝会の道場となり、勅使を迎えた法会が毎年盛大に営まれていた。

大講堂の焼失と共に最勝会も途絶えていたが 平成十五年の大講堂復興に伴い再興されている。 

大講堂の本尊は弥勒三尊(重文・奈良時代) 。基壇には四天王と阿僧・伐蘇畔度をまつる。 

徒堂に祀られている仏足石(国宝・奈良時代) は釈尊の足跡を石に刻んだものであり、インド鹿野苑より唐長安を経て、遣唐使により平城京へ伝えられ造立されたとされる。また、仏足跡歌碑(国宝・奈良時代)は万葉仮名による仏足跡讃歌が刻まれており、国文学の上でも大変貴重なものである。

大講堂復興の慶賛として、文化勲章受章者である彫刻家、中村晋也氏の手により平成十五年 釈迦十大弟子が仏足石の両側に安置された。


s2024-04-14DSC_4532大講堂三尊像HP01zz
(↑ 薬師寺HPより)

s2024-04-14DSC_4532大講堂仏足石HP01
(↑ 薬師寺HPより)


s2024-04-14DSC_4532大講堂仏足足歌碑HP01zz
(↑ 薬師寺HPより)


s2024-04-14DSC_4532大講堂釈迦十大弟子HP
(↑ 薬師寺HPより)

圧倒的存在感の大講堂。

写真で見るより、現地で見てほしいです。 そりゃあすごかったですよ~~。.。゚+.(・∀・)゚+.゚


大講堂奥には・・

西僧坊。
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食堂。
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【食堂緣起】
平成二十七年三月起工、平成二十九年五月落慶

食堂は僧侶が斎食をするための建物で「薬師寺縁起」によるとその規模は、九間四面、東西十四丈(約四十二米)、 南北五丈四尺五寸(約二十米)、柱の高さ二丈五寸 (約十七米)で、東大寺、大安寺に次ぐ大きさとされた。 
今回行われた発掘調査によりその記録がほぼ裏付けられ、僧侶約三百人が一堂に会する規模であったことが判明している。

ご本尊には金銅製半丈六の阿弥陀如来と、脇侍に観音・勢至菩薩が祀られていたとされる。創建当初の食堂は天禄四年(九七三年)に焼失し、寛弘二年 (一〇〇五年)に再建されたものの、再び焼失(年代不明)した。

平成二十九年(二〇一七年)の再建にあたり、外観は鈴木嘉吉氏によって設計され、創建当初の様式を復元しつつも、内観は多目的に使用することを目指し、伊東豊雄氏の設計により広く使用するため、柱をできる限り減らした現代的な工法で建てられた。 

ご本尊「阿弥陀三尊浄土図」及び、東西七面に中国から日本までの風景を描いた、全長約五十米にわたる平成最大の大壁画「仏教伝来の道と薬師寺」 田渕俊夫画伯により奉納された。

尚、後堂には阿弥陀如来のお姿を浮彫(原型制作 北郷悟氏)にした「千体阿弥陀仏」が祀られており、日々の勤行で奉納者各家・各位の永代供養が勤められている。


東僧坊/朱印所/授与所。
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白鳳伽藍の奥にある玄奘三蔵院伽藍にも行ってきましょ。

北拝観受付で最初に購入した拝観券を見せ、玄奘三蔵院伽藍に通じる大門へ。

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玄奘三蔵院伽藍のメインの玄奘塔が拝観できないので、ほとんど訪れる人もおらず、白鳳伽藍に比べて寂しいかぎり・・。

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玄奘三蔵院伽藍の礼門は閉ざされていて、中に入ることはできませんでした。

とりあえずここからの写真をパチリ。
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こちら薬師寺には、拝観オープンの9時には一番のりでやってきました。 この時はまだ人もまばらでしたが、やってきた道を戻りVストちゃんをとめている駐車場に戻る頃には、大勢の参拝客。

そして昨日以上に気温が上昇・・(; ̄Д ̄)

さて、お次に向かいましょう


-続く-




2024春ツーリング「関西・中部」 VOL3  初日(4/13)その3<法起寺他>

前回記事の続きです。

古墳にねむるのは誰なのか?と古代ロマンに思いをはせつつ・・

Vストちゃんにまたがり、10分程 トコトコ

着きましたよ。(・∀・)
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駐車場はここで合ってるのか??

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ポツ~~~ン 

屏の周りを歩き・・・

入口発見!!
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ここは、法起寺さん。
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【法起寺】
法起寺は別名、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺と呼ばれ、法隆寺や四天王寺、中宮寺などとともに、聖徳太子御建立七ヵ寺の1つに数えられる。

鎌倉時代に著された 『聖徳太子伝私記』に、かつて法起寺三重塔の露盤銘に創建の由来が刻まれていたという「塔露盤銘文」が 掲載されている。 それによると、太子は推古30年 (622)2月22日、薨去にあたって、長子の山背大兄王に岡本宮を寺院とすることを勅したとある。 発掘調査においても法起寺の前身建物の遺構が確認されており、聖徳太子が推古14年(606) に法華経を講説した岡本宮であると考えられている。 また舒明10年 (638) に福亮僧正が、太子のために弥勒像1軀と金堂を造立、さらに天武14年(685) には、恵施僧正が宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706) に塔の露盤を造ったという。 寺は盛衰を繰り返し、その後江戸時代、17世紀後半には真政圓忍とその弟子達が塔を修復し、講堂を再建した。 また文久3年(1863) には聖天堂も造営された。 講堂の本尊であった木造十一面観音菩薩立像はスギの一材から造られ、10世紀後半の作と考えられており、現在は収蔵庫に安置されている。 法起寺は平成5年(1993) 法隆寺とともに「法隆寺地域の仏教建造物」として世界文化遺産に登録された。


おじゃましま~~す♪

拝観料300円。安い!!

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<法起寺の由来>
法起寺は、聖徳太子の建立にかかる七寺の一にして、「岡本尼寺」「池後尼寺」 とも呼ばれ、もとは太子の岡本の宮があったところと伝える。 創建当時は七堂伽藍も整った大寺院であったが、中古のころより衰徴の一路をたどったと云う。 しかし幸いにも、三重塔だけが当時の姿そのままに、いまもいかるがの空に高く聳え立っている。 とくに1993年12月にはユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録された。

<国宝三重塔 (飛鳥時代)>
塔の規模は方 6.42米、高さ約24.5米で三重塔としては最大最古である。 一重基壇の上に立ち、屋根の勾配緩く、軒深く、雲形肘木、井籠組の構架法など何れも飛鳥時代の様式を伝えている。 遠くより見る安定感、なだらかないかるがの里に調和した美しさをただよわせている。

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■法起寺(ほうきじ)の沿革
法起寺は奈良県生駒郡斑鳩町大字岡本にあり、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺と呼ばれている。

この寺は、推古十四年(六〇六)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝え、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられている。

創建の由来については『聖徳太子伝私記』に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘によって判明する。それによると、推古三十年(六二二)二月二十二日、聖徳太子はその薨去に臨み、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて寺とすることを遺命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したという。

その後、舒明十年(六三八)に福亮僧正が聖徳太子のために、弥勒像一軀と金堂を造立し、天武十四年(六八五)には恵施僧正が宝塔の構立を発願し、 慶雲三年(七〇六) 三月に塔の露盤を作ったと している。

この露盤銘に記すように近年境内の発掘調査の結果、前身建物の遺構の一部が確認されており、法起寺の建立以前に岡本宮と見られる宮殿が存在していたことが明らかとなった。同時に、中門を入って右に三重塔、左に金堂、中央正面奥に講堂があり、廻廊は中門左右から堂塔を囲み、講堂の左右に接続する様式の伽藍であったと推測されている。

当寺のことは、『正倉院文書』や『日本霊異記』にも見え、奈良時代には相当栄えていたらしいが、平安時代から法隆寺の指揮下に入り、寺運も徐々に衰微したが、鎌倉時代には講堂や三重塔が修復されている。しかし、室町時代に再び衰え、江戸時代のはじめごろには三重塔のみを残すのみであったという。

その荒廃を憂い、当寺の再興を発願した寺僧の真政圓忍とその弟子たちは、延宝六年(一六七八)に三重塔を修復した。それ以降も、寺僧たちの努力によって浄財を集め、元禄七年(一六九四)に講堂を再建、文久三年(一八六三)に聖天堂を建立し、現在の寺観が整えられている。

明治維新後は、本寺法隆寺と共に真言宗の所轄となったが、明治十五年(一八八二) 法隆寺が興福寺と共に法相宗に独立したのにともない、法相宗の小本山となった。
しかし、昭和二十五年(一九五〇) 法隆寺が聖徳宗を開宗したため、 当寺も聖徳宗の本山の一つになっている。
昭和四十七年(一九七二)には三重塔の解体修理に着手し、五十年に完成したのに続いて、五十三年には講堂の修理を行い、五十七年には重要文化財の十一面観音菩薩像を安置する収蔵庫を新設している。

<三重塔(国宝)>
一重の石壇上に立つ、三間四方三層、高さ二十三・九メートルの塔婆で、慶雲三年(七〇六)に建立されたとする現存する我国最古の三重塔として名高い。

<木造十一面観音菩薩立像(重要文化財) >
像高三五0・0cm
この像は講堂(観音堂・本堂ともいう)の本尊であったが、現在は収蔵庫に安置している。造像形式は通常の十一面観音菩薩像で、幹部は杉の一材から彫出しており、十世紀後半ごろの作といわれている。

<造菩薩立像(重要文化財)>
像高二0・0cm
寺伝では虚空蔵菩薩と呼ばれており、全身に火をかぶった形跡がみられる。その形式上、七世紀後半の作といわれている。 現在本像は奈良国立博物館に出陳中である。

・・幾度となく衰退しながらも、頑張って再建されてきたんですね~。



境内に入ると、
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【三重塔】 (飛鳥時代 国宝)
慶雲3年(706)に建立された現存する日本最古の三重塔で、高さは約24m。
初重の円柱の胴張り、雲形組み物などに飛鳥時代の仏教建築様式がみられる。 また塔の柱間は、法隆寺五重塔の初重、三重、五重とそれぞれ同じ寸法で、模したと考えられている。 初重内部は土間で、法隆寺五重塔にみられる塑像群などはなく、四天柱と八角の心柱が見える。 建立以来修理を重ね、昭和47年(1972) から50年(1975) にかけての解体修理では、改造されていた三重目の柱間が三間から二間へと創建時の姿に復元された。

・・法隆寺の五重塔と比べると小ぶりですが、趣きがありました。


収蔵庫に行ってみましょ。
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(↑画像:法起寺HPより)


【十一面觀音菩薩像】(平安時代 重要文化財)
元講堂の本尊であったが、現在は収蔵庫に安置されている。十世紀後半頃の作と考えられており、頭・体の幹部は、杉一材から彫出されている。
また、自然木の根を利用した岩座に立っていたことから、立木仏の代表作として知られているが、岩座は昭和55年に現収蔵庫に移動された際、現在の台座に取り換えられた。


聖天堂。
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【聖天堂】(江戸時代)  Shoten-do
聖天堂は、歓喜天像を安置するお堂である。 法起寺創建時、この場所には金堂があったとされるが、いつ頃、聖天堂が創建されたかは不明である。
現在の御堂は、文久3年(1863) に法起寺僧順光によって再建されたものである。


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こちらの法起寺。コンパクトな敷地なので歩き回らなくてもすんだのですが、いかんせん季節外れの暑さのなか 法隆寺から藤ノ木古墳でしこたま歩きまわったので疲労困憊・・('A`|||)

境内に東屋?屋根付きのベンチがあったので、しばし三重塔を眺めながら休憩させてもらいました。
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さてと・・

宿に向かいましょう

斑鳩にも近く、翌日は奈良公園界隈を周る予定なので、天理市内の安宿を予約しておきました。

ナビの先導で・・この先の角を曲がったところが宿のはず。
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駐車場にVストちゃんをとめ・・
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ホテル?? (^^;

おじゃましまんねやわ。

お部屋は・・
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キャンプよりはいい!! ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

こちらで連泊です。

この日は土曜日で税込み4500円。 翌日曜日は税込み4000円っす。

7年間プー太郎無収入のボンビーなあたいは、出ていくお金は抑えないとねっ(^^;

それにしても、キャンプ場の高いこと。 一泊2000円を超えるところがザラ。 これで日帰り温泉とか探して行ってたら、安宿と変わらない料金になっちゃう。

ちゅうことで、今回のツーリングはツーリング先が市街地が半分以上だったこともあって、キャンプ泊はしないで安宿泊まりにすることにしました。

晩飯は、近くのコンビニに買い出しに行って・・

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外見はオムライスっぽいですが、お好み焼きです。(゚∀゚)アヒャ

テレビでは、ひこにゃんが4月13日で18才になったとかのニュースが流れていました。
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この旅の最終日前日に、彦根城にも立ち寄るつもりなので楽しみです。(* ̄∇ ̄*)エヘヘ

この日の走行距離 255kmな~~り。
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高速道路の運転と歩きまわって疲れたので、夜9時には床につきました。(^^;

<この日の走行MAP>
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<この日のお会計>
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-明日へと続く-




2024春ツーリング 「関西・中部」VOL1  初日(4/13)その1<法隆寺>

2024春ツーリングの出発です。

4月の2週明けからスタートするつもりでいましたが、週前半は雨。

週中ごろにはお天気もよくなりましたが、今回のツーリング計画の3日目の宿泊先が名古屋市内。

3日目となる週末に名古屋市内で宿がとれず、結局4月13日(土)出発となりました。


旅の相棒は、Vストちゃん。

出発時点の走行距離5485kmな~~り。
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忘れないように出発前日にETCカードをセット。

お家を出発! 高速にのり、淡路島南PAで最初の休憩。

5000kmを越えたVストちゃん。 しわかった(重かった)中~高回転域が、だいぶんスムーズに回るようになってきました。
(・∀・)

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コンビニで買っておいた おにぎりで朝食っす。(・∀・)
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続いて淡路SAで2度目の休憩。

1時間~1時間半毎に休憩とらないと、腰がダメダメなんです・・・(TДT)

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明石海峡大橋がド~~ン!

ゴリラ・ナビちゃんに従い、高速道路を繋いで走っていたら・・・

えっ!?  目的地でないところで高速道路が途切れちゃった・・・Σ(゚д゚;)

あとで調べてわかったのが、阪神高速14号線松原線が工事で「喜連瓜破(きれうりわり)」でおろされちゃったみたい・・(;´Д`)


ナビちゃんの指示どおり、下道を少し走り、再度高速にのり・・

目的地近くの駐車場に とうちゃこ.。゚+.(・∀・)゚+.゚

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バイクの駐車料金は100円! 安いっ('▽'*)ニパッ♪

ここから てくてく

やってきましたよ。 最初の訪問地は「法隆寺」です。

小学校だったか中学校の時に、修学旅行で来たかもわかりませんが、まったく覚えていません・・(^^;

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【史跡 法隆寺境内】
法隆寺は聖徳太子創立、およそ一千四百年の伝統をもつ大伽藍である。
金堂、塔を中心とする西院伽藍は、よく上代寺院の相貌を伝え、わが国現存最古の寺院建築として、極めて価値が高い。その寺地は天平十九年の当寺資財帳に「方一百丈」とあり、また鎌倉時代の古今目録抄などによれば、現地域とほぼ合致している。

夢殿を中心とする東院伽藍は、天平十一年行信により聖徳太子の斑鳩官故地に創立されたが、天平宝字五年の東院資財帳に示される寺域は、現東院境内に現中宮寺をあわせた地域とみられる。
すなわち東西両院をふくむ、法隆寺伽藍の全城は、わが国上代寺院史上各種の重要史料を内包し、また斑鳩宮跡、若草伽藍などの重要遺跡もあわせて、その歴史的並びに宗教的価値はきわめて高いものである。


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【法隆寺縁起】
法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られています。 その創建の由来は「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や 『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747) の縁起文によって知ることができます。

それによりますと、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されましたが、その実現をみないままに崩御されたといいます。 そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、推古15年 (607) に寺とその本尊「薬師如来」 を造られたのがこの法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれています) であると伝えています。

現在、 法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。 広さ約18万7千平方メートルの境内には、飛鳥時代を始めとする各時代の粋を集めた建築物が軒をつらね、 たくさんの宝物類が伝来しています。 国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして約3000点に及んでいます。 このように法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶかがやかしい伝統を今に誇り、とくに1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めています。

①南大門 (室町時代) 法隆寺の玄関にあたるこの門は、永享10年 (1438) に再建されたものです。

②中門及び廻廊 (飛鳥時代)  
深く覆いかぶさった軒、その下の組物や勾欄(こうらん)、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の粋を集めたものです。重厚な扉と左右に立つ塑像の金剛力士像(奈良時代)は、東西にのびた廻廊の連子窓と対照的な組み合わせで、並列して建つ塔と金堂を壮麗に包み込んでいます。

③金堂(飛鳥時代) 
法隆寺のご本尊を安置する聖なる殿堂が金堂です。 威風堂々としたこの建物の中には、聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像 (飛鳥時代)、 太子の父君用明天皇のために造られた金銅薬師如来座像(飛鳥時代)、 母君穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために造られた金銅阿弥陀如来座像 (鎌倉時代)、それを守護するように、樟(くす)で造られたわが国最古の四天王像(白鳳時代)が、 邪鬼の背に静かに立っています。 そのほか木造吉祥天立像・毘沙門天立像(平安時代)が安置されています。

また天井には、天人と鳳凰が飛び交う西域色豊かな天蓋(てんかい)が吊され、周囲の壁面には、世界的に有名な壁画 (昭和24年焼損、現在はパネルに画かれた再現壁画がはめ込まれています)が描かれ、創建当初の美しさが偲ばれます。

④五重塔 (飛鳥時代) 
塔はストゥーパともいわれ、釈尊の遺骨を奉安するためのものであり、仏教寺院において最も重要な建物とされています。 高さは約32.5メートル(基壇上より)で、わが国最古の五重塔として知られています。

この最下層の内陣には、奈良時代のはじめに造られた塑像群があり、東面は維摩居士(ゆいまこじ)と文殊菩薩が問答、北面は釈尊が入滅、西面は釈尊遺骨 (舎利)の分割、 南面は弥勒菩薩の説法などの場面が表現されています。

⑤大講堂(平安時代) 
このお堂は仏教の学問を研鑽(けんさん)したり、法要を行う施設として建立されましたが、鐘楼とともに延長3年(925) に落雷によって焼失しました。 幸い正暦元年(990)には再建され、ご本尊の薬師三尊像及び四天王像もその時に作られています。

⑥経蔵(きょうぞう)(奈良時代) 
この建物は経典を納める施設として建立されましたが、現在は、天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、観勒僧正と伝える座像(平安時代) を安置しています。

⑦鐘楼 (平安時代) 
この鐘楼の中に吊されている白鳳時代の梵鐘は、今なお当時の音色を響かせています。

⑧上御堂(かみのみどう) (鎌倉時代) 
このお堂は奈良時代、天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)の発願によって建立したと伝えていますが、現在の建物は鎌倉時代に再建されたものです。その堂内には平安時代の釈迦三尊像と室町時代の四天王像が安置されています。

⑨西円堂(鎌倉時代) 
拝観コースからはずれた西院伽藍北西の小高い丘に八角造りの円堂があります。
その創建は奈良時代に橘夫人の発願によって行基菩薩が建立したと伝えていますが、現在の建物は鎌倉時代に再建されたものです。 そのお堂の中央には、わが国最大級の乾漆像として知られるご本尊薬師如来座像 (奈良時代)が安置されています。

⑩聖霊院(しょうりょういん) (鎌倉時代) 
東西の廻廊の外側には、それぞれ東室・西室という南北に細長い建物があります。 それらは僧侶の住居でありましたから僧房と呼んでいます。 とくに鎌倉時代に聖徳太子信仰の高揚にともなって、聖徳太子の尊像 (平安末期) を安置するために、東室の南端部を改造したのがこの聖霊院です。

⑪大宝蔵院 
聖霊院から東に進むと宝物庫である綱封蔵(こうふうぞう) (平安時代)があります。 その手前を北に進むと、食堂(奈良時代)や細殿(鎌倉時代)などの建物の奥に新しい伽藍が見えてきます。 ここが平成10年に落成した百済観音堂を中心とする大宝蔵院です。 建物の内部には、 有名な夢直観音像 (白黒時代)・ 推古天皇御所持の仏殿と伝える玉虫厨子 (飛鳥時代) ・蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子 (白鳳時代) をはじめ百万塔・中国から伝えられた白檀造りの九面観音像天人の描かれた金堂小壁画など、わが国を代表する宝物類を多数安置しています。 飛鳥時代から近世に至るこれらの宝物は、1400年に及ぶ法隆寺の信仰の遺産であり、法隆寺の歩んだ道のりをうかがわせる貴重な宝物と言えましょう。

⑫百済観音堂 
法隆寺に伝わる百済観音像 (飛鳥時代)は、わが国の仏教美術を代表する仏像として世界的に有名であります。
また日本の仏像には珍しい八頭身のすらりとした姿と、優美で慈悲深いその表情は多くの人びとを魅了しています。 法隆寺では、この百済観音の安住の殿堂をお造りすることが永年の悲願でありました。その夢がついに平成10年秋に実現いたしました。 それがこの百済観音堂であります。

⑬東大門 (奈良時代)
大宝蔵院を出て夢殿へ向かう途中に建っているこの門は、珍しい三棟造りという奈良時代を代表する建物の一つです。

⑭夢殿(奈良時代) 
西暦601年に造営された斑鳩宮跡に、行信僧都(ぎょうしんそうず)という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739) に建てた伽藍を上宮王院といいます。 その中心となる建物がこの夢殿です。 八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身の秘仏救世観音像 (飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像 (平安時代)、 聖徳太子の孝養像(鎌倉時代)、乾漆の行信僧都像 (奈良時代)、 平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像 (平安時代) なども安置しています。 この夢殿は中門を改造した礼堂 (鎌倉時代) と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を、供養するための殿堂としてふさわしい神秘的な雰囲気を漂わせています。

⑮舎利殿・絵殿 (鎌倉時代) 
舎利殿は聖徳太子が2才の春に、合掌された掌中から出現したという舎利を安置する建物で、絵殿には聖徳太子一代の事蹟を描いた障子絵が納められています。

⑯伝法堂 (奈良時代) 
このお堂は聖武天皇の夫人でありました橘古那可智の住宅を仏堂に改造したものです。堂内には三組の乾漆阿弥陀三尊像 (奈良時代)をはじめ多数の仏像が安置されています。

⑰東院鐘楼 (鎌倉時代) 
この鐘楼は袴腰と呼ばれる形式の建物で、内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊されています。



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【南大門】 (室町時代 国宝)
法隆寺の玄関にあたる総門。 三間一戸の八脚門で、当初は中門前の石段上に建っていたが、寺域の拡張により現在の場所に移され た。法隆寺の伽藍への主たる入口であり、門前の松並木からこの門
を潜り抜けると幅広い参道に出る。永享7年 (1435)に焼失し、現在の建物は、永享10年 (1438) の再建である。 組入天井を張り、 木鼻や花肘木が用いられ、軒は中央から大きく反り上がっている。


それでは、南大門をくぐり境内に入っていきますね。(・∀・)
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広い境内にいろいろな建物があるので、事前に効率のいい拝観順を調べていました。
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最初に境内西側の三経院・西室から。
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【三経院・西室】(鎌倉時代 国宝)
西室は西院伽藍回廊の西に位置する僧房で、かつては僧侶が居住していた。 しかし承暦年間(1077~1081)に焼失、現在の建物は寛喜3年 (1231) に再建されたもので、北側十二間を西室、南側七間を三経院とする。 西室は扉口と連子窓を設け二間で1房をなす僧房で、内部は小部室に区分されていたが、
現在は間仕切のない広間とする。 一方、三経院は蔀戸や側面に板扉がある住宅風仏堂で、聖霊院とよく似た外観である。 三経院の名称は聖徳太子が著された 『三経義疏』 (勝鬘経・維摩経・法華経の3つの経典の注釈書)にちなむものである。 毎年5月16日から8月15日までの夏安居の3カ月間、後方の西室では太子の遺言によって、寺僧が三経の講義を行っている。


三経院・西室の奥にある西円堂。
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【西円堂】(鎌倉時代 国宝)
光明皇后の母、橘夫人が建立を発願し、行基菩薩が養老2年 (718) に建立したと伝える。 八角円堂で、現在の建物は建長2年(1250)の再建であるが、凝灰岩の礎石や二重の須弥壇に天平の創建当初の名残がみられる。堂内中央には薬師如来像を安置し、 その周りを十二神将が囲む。 また東面に千手観音像、北面に不動明王像が祀られる。 西円堂では毎年2月1日から3日まで、弘長元年(1261) から続く修二会 (薬師悔過) が厳修される。 また3日目の結願法要に続いて追儺会(鬼追式)が行われ、3匹の鬼が基壇の上から松明を投げ、毘沙門天がその悪鬼を追い払う。

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s2024-04-13DSC_4377法隆寺HP01
(↑ 法隆寺HPより)
【薬師如来像】(奈良時代 国宝)
本尊の薬師如来像は、奈良時代に造られた丈六の大きな脱活乾漆造で「峯の薬師」と呼ばれて親しまれている。 光背は鎌倉時代の後補で、七仏薬師と千体仏が取り付けられている。 八角形の裳懸座に結跏趺坐する大らかな像容で、左手には薬壺を持ち、病を治してくださる仏として、今も篤い信仰を集めている。また本尊には、自分が大事にする刀や弓、鏡や櫛など、数多くの品々が各地から奉納されており、今も1万点を超える品々が保管されている。


この時、ちょうどお昼の12時。 西円堂横の鐘楼で時の鐘を鳴らしだしました。

ゴォ~~ン、ゴォ~~~ン・・・

余韻のある鐘の音色に感激でした。('▽'*)ニパッ♪
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朝の間は、ひんやりした気温でしたが、お昼からはライディングジャケットを着たままでは汗ばむほど気温が上昇・・('A`|||)

さて、法隆寺のメインの西院伽藍に。
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五重塔
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金堂
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(↑ *1「一個人 仏像入門」より)

大講堂
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s2024-04-13DSC_4393大講堂HPより
(↑ 法隆寺HPより)

建物もさるものの、様々な仏像も圧巻でした。拝観料1500円も納得です。(゚∀゚)アヒャ

構内の仏像関連は撮影禁止。 仕方ないですね。(ノд・。) グスン


西院伽藍の東側の聖霊院。
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【聖霊院】 (鎌倉時代 国宝) Shoryoin
法隆寺を創建した聖徳太子の尊像を安置する殿堂で、聖徳太子が薨去されて五百年に当たる保安2年(1121) に、僧房東室の南端三房分が御堂とされ、弘安7年(1284) に建て替えられて現在の姿となった。

聖霊院内陣の奥にある唐破風を付けた厨子は三部屋に区切られ、その中央には、保安2年に開眼された等身大の聖徳太子像、向かって右側の厨子には、太子の仏教の師である高句麗僧の恵慈法師と太子の弟君にあたる卒末呂王 、背後に地蔵菩薩像、向かって左側の厨子には、太子の長子である山背大兄王と太子の弟君にあたる殖栗王、背後に如意輪観音像が祀られている。

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(↑ 法隆寺HPより)


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(↑ *1「一個人 仏像入門」より)

【聖徳太子像】 (平安時代 国宝)
聖徳太子 (574~622) は、6世紀半ばに中国大陸から日本に伝来した仏教の普及において、中心的な役割を果たした人物で、本像は推古天皇の御前で勝鬘経を講説された35歳または46歳の時、あるいは摂政の姿とされる。毎年3月22日には厨子の扉を開いて、太子の御命日法要であるお会式が営まれる。このとき大山立と言われる供物などで堂内が荘厳される。


聖霊院に隣接する東室と妻室
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【東室】(飛鳥時代 国宝) Higashi Muro
西院伽藍回廊の東に位置する僧房で、天平19年(747) の『法隆寺資財帳』 に記された4棟の僧房のうち、創建以来の遺構を伝える唯一の建物である。 扉口と連子窓の南北二間分で1房を示し、本来9房であったが、南側の3房が聖霊院に改められ6房分が残る。保安年間(1120~1124) に旧材を用いた再建に近い大修理がなされ、以来、度重なる大修理や改造によって僧房としての機能は失われていった。 しかし現在の建物は北側の第2、第3房が白鳳創建当初に近い形式に復されている。 また、大梁が全体に円弧形で回廊の虹梁によく似ていることから、回廊とともに造営されたと考えられる。 なお東側の軒には丸垂木が使われており、創建当初の面影が遺っている。

【妻室】(平安時代 重要文化財) Tsumamuro
東室に付属する建物で、東側に並行して建つ。 平安時代の建立と考えられ、正式には「東室小子房」と称し、小子房としては現在唯一残る建物である。 慶長6年(1601)の改造の際に、南北の長さが約3分の2に縮小され、南半分が聖霊院の御供所、北半分が東室の台所にされた。 現在は当初の9房の姿に復元されている。各房は三間を1房とし、南寄りの一間は扉口のある前室、北寄りの二間は窓のない居室となっている。 そして東室の各房と中庭を挟んで1組として使われ、中庭も房ごとに仕切られていた。


東室と妻室の東に隣接する食堂
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【食堂】(奈良時代 国宝)  Jikido Refectory
奈良時代に創建され、もとは政屋と呼ばれる建物であったが、平安時代になって食堂として使われるようになった。 内部は土間で、全体が吹き放しの広い一室となっており、中央の厨子に奈良時代の塑像、薬師如来座像が安置されている。 建物は食堂の南側にある細殿と軒を接して建つ双堂で、奈良時代の建築様式をよく残している。なお現在は4月8日にお釈迦さまの生誕を祝う仏生会の法要が営まれる。


食堂の奥には大宝蔵院
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s2024-04-13DSC_4406大宝蔵院01HP

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(↑ 法隆寺HPより)


参道に戻り東に進みます。
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【東大門】(奈良時代 国宝)
西院伽藍から東院伽藍へ通じる参道途中に建つ。 門の来歴は不明だが、昭和9年(1934) の解体修理の際に発見された部材の番付墨書から、食堂の南方あたりに南向きに建っていた門を平安時代に移築し、東西に通り抜ける門としたと推測されている。 南北に通る棟木が、両脇と中央の合計3本ある三棟造という建築様式で、奈良時代の姿を伝える貴重な門である。


東大門をくぐり東院伽藍へ。

桜が綺麗ですね~~.。゚+.(・∀・)゚+.゚
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【夢殿】(奈良時代 国宝)
西院の東大門をくぐると、広い参道の正面に東院伽藍が現われて、夢の上には見事な夢殿の宝珠が輝いています。 ここは聖徳太子の斑鳩の宮の跡で、朝廷の信任厚かった高僧行信 (ぎょうしん) が宮跡の荒廃ぶりを嘆いて太子供養の伽藍の建立を発願し、天平20年(748) に聖霊会 (しょうりょうえ) を始行したとされる太子信仰の聖地であります。

高い基壇の上に立つ八角円堂の夢殿は東院の本堂で、 天平創建の建築でありますが、 鎌倉期の寛喜 2年 (1230) に大改造を受け、 高さや軒の出、 組み物などが大きく改変されているものの、古材から天 平の姿に復元することもできるほど古様を残しています。


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s2024-04-13DSC_4416zz救世観音像法隆寺HP01
(↑ 法隆寺HPより)


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(↑ *1「一個人 仏像入門」より)

【救世観音像】(飛鳥時代 国宝)
クスノキの一材から彫出された像で、像高が約179cmあり、聖徳太子の等身像と伝えられる。 慈悲に満ちた面長な顔立ちで、大きな宝冠をいただき、火焔付の宝珠を両手で胸前に捧げ、 二重反花の台座に立つ。 そのお姿は太子を意識したとも考えられる。 久しく秘仏として厨子の扉が閉ざされていたが、明治17年 (1884) に法隆寺を訪れたフェノロサらは反対する僧侶たちを説き伏せて厨子を開扉した。 現在では毎年2回、春と秋に特別開扉が行われる。


夢殿の奥の絵殿・舎利殿
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【絵殿・舎利殿】(鎌倉時代 重要文化財)
創建時は『東院縁起』に「七間御経蔵」と記された建物で、聖徳太子ゆかりの品々を保管する蔵であったが、承久元年(1219) の建て替えで改造され、東側三間分を舎利殿、西側三間分を絵殿、中央一間を馬道とした。 舎利殿中央の仏壇上には貞治3年 (1364) 造立の春日厨子が置かれ、「南無仏舎利」が納められた。 この南無仏舎利は、太子が2歳の春に東に向かって合掌し、南無仏と唱えられた時に、その掌中から出現したと伝えられる。 毎年1月1日から3日間厳修される舎利講で奉出 (ご開帳) される。 また絵殿には、平安時代の延久元年(1069) に、秦致貞によって聖徳太子の生涯の事蹟が描かれた障子絵が納められていた。 後方には聖霊会の本尊である太子像をお祀りする相殿が設けられ、承久元年の建て替えで現在の姿になった。 なお、障子絵は「聖徳太子絵伝」 と言われ、明治11年(1878) に皇室に献納され、現在は天明7年 (1787) の模写となっている。


この東側には中宮寺。

中宮寺の半跏思惟像を拝見したかったのですが・・
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大工事中・・

やってきた参道を戻ります。
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法隆寺。  いや~~~、想像以上に良かったです。

このあとのスケジュールがあったので、駆け足で見て回りましたが、もっと時間をかけてのんびり拝観したかったなあ。

*注1:文中の参照文献はこちら↓
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-続く-


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