「Vストで行く岡山~兵庫ツーリング 」の続きです。

瑠璃山薬師院泰立寺 から2km程北にすすみました。

ここは石火矢町 武家屋敷館駐車場。
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【石火矢町(いしびやちょう) ふるさと村】
昭和48年1月岡山県指定

備中の小京都ともいわれる高梁は四季折々に色なす山々と清流高梁川に育まれた現存する山城では日本一高いところにある備中松山城をシンボルにもつ城下町である。
石火矢町ふるさと村は現在も武家屋敷通りとしての面影を深くとどめる石火矢町と、紺屋川(伊賀谷川)に沿って桜と柳の美しい並木が続き高梁キリスト教会堂や藩校有終館跡などの
ある紺屋町美観地区の2つの地域で構成されている。


武家屋敷通りを南に歩きます。

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この通りには、「男はつらいよ 第8作 寅次郎恋歌」と  「第32作 口笛を吹く寅次郎」で登場した前田 吟さん演じる博さんの生家があります。

<第8作 寅次郎恋歌 >
「第8作  寅次郎恋歌」では、博さんのお母様が亡くなったご葬儀のシーン。

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<第32作 口笛を吹く寅次郎>
「第32作 口笛を吹く寅次郎」では、志村喬さん演じる博さんのお父様が亡くなり、親戚が集まるシーンで。
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武家屋敷館駐車場から100mちょっと南に行ったところにありました。

個人のお宅なので、外から拝見するだけです。
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ロケ撮影時とさほどかわらぬ佇まい。 立派なお屋敷ですね~~。(・∀・)


岡村邸(博さんの実家)からほんの少し南に進んだところも、映画に登場していましたよ。

<第8作寅次郎恋歌>  
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映画ではSLが走っていましたが、あたいが訪れた時は ちょうどJRの方が 路線の保守作業をされていました。
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ここから紺屋町(こやまち)美観地区の方へ。
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昔懐かしい床屋さん。すでに廃業されているようですが、こういう床屋さん、ありましたよね~~(´∀`)
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紺屋町(こやまち)美観地区(紺屋川通り)にとうちゃこ。

博さんの生家とともに、この「白神食品店-白神食料品店」さんも 何度か映画シーンに登場しています。

<第8作寅次郎恋歌>
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<第32作 口笛を吹く寅次郎>
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橋のたもとの「白神食料品店」さん! そのお隣の「田中紙店」さんも!!

第32作 口笛を吹く寅次郎では、杉田かおるさんが酒屋の娘 ひろみ役を演じていますが、その酒屋さんとして登場するのが この「白神食料品店」さんです。

残念ながら、今は廃業されてるみたいでした。
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お隣の田中紙店さんには「紺屋町」の説明書きが掲げられていました。
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ひろみ(杉田かおる)さんのお酒の配達シーン。

ヤマハ メイトですね。(☆゚∀゚)

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↓は、泰立寺で拝見したロケ撮影風景の写真。

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映画で使われたヤマハメイトは、実際に当時「白神食料品店」さんで使用していたものかも・・。


紺屋川通りです。 この日は5月初旬らしからぬ暑い日でしたが、川のせせらぎが暑さを和らいでくれました。

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紺屋川通りの東側に位置する高梁基督教会堂。
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【岡山県指定史跡 高梁基督教会堂】

高梁市でのキリスト教活動は、明治12年(1879) 10月の宣教にはじまります。翌13年の新島襄の来高によって、活動が急速に発展し、 明治15年4月に高梁基督教会が創立されました。 これに対して、一部の町民の感情的な激しい反対運動もありましたが、信者の団結が高まるとともに教会堂建設の要望も強まり、信者の浄財によって明治22年(1889)9月に教会堂は建設されました。

この教会堂は、現存する県内最古の教会堂であり、プロテスタントとしては全国でも同志社のチャペルに次いで古い教会堂です。 また市内で最初に建てられた擬洋風建物で、 愛媛県今治市の吉田伊平氏によって設計されました。

構造は、木造平屋建、切妻造で、 正面車寄の二階は、菱組天井、 漆喰塗の軒蛇腹であり、 トスカナ式風の二本柱が寄棟の屋根を支えています。 鐘楼は昭和28年に付け加えられたものです。
当教会からは、岡山県最初の女学校創設者の福西志計子や木村静をはじめ、 日本福祉事業の先駆者である留岡幸助など多くの偉人が育ちました。

昭和34年3月27日指定 岡山県教育委員会 高梁市教育委員会


>翌13年の新島襄の来高によって

新島襄!?  聞いたことがあるようなないような・・?(^^;

ググりました。

新島 襄(にいじま じょう 英字表記:Joseph Hardy Neesima、1843年2月12日(天保14年1月14日) - 1890年(明治23年)1月23日)は、キリスト教の教育者である。

江戸時代の1864年(元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けて神学を学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用。

同志社大学の創設者だった方でした。

この対面側には、こんな建物も。
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【有終館跡】
有終館は備中松山藩が藩士の子弟に文武を教えるためにつくった藩校です。
板倉勝澄が藩主になって延享三 (1746)年に本丁(御殿坂)に学問所をつくったのがはじまりです。
寛政十 (1791) 年ごろ有終館と命名され、藩校として確立されました。 天保二 (1831) 年の火災により現在地 (中之町) に移り、山田方谷が学頭(校長)になってから充実しました。
嘉永二(1849)年、藩主となった板倉勝静は藩士全員に有終館での学習を義務づけ、最盛期を迎えました。
山田方谷が植えたとされるクロマツが当時のおもかげを残しています。


藩校跡には、今は幼稚園が! 立派な大人に成長してね。(゚∀゚)アヒャ


紺屋川が高梁川に流れ込みます。(紺屋川通り西側)

<第32作 口笛を吹く寅次郎>

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方谷橋が映っています。
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紺屋川通りを西に進むと、高梁川に出てきます。
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上流(北)側に方谷橋。
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下流(南)側。
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あたいの住んでるうどん県には 大きな川がないので、こういった景色に感激!(´∀`*)

高梁川沿いには国道313号線が走っていて、その国道沿いにある「油屋旅館」さんも、映画に登場していました。

<第32作 口笛を吹く寅次郎>
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現在の油屋旅館さん。 健在でしたよ。(*゚∀゚)っ
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岡山県高梁市は、「男はつらいよ 第8作寅次郎恋歌」と「第32作口笛を吹く寅次郎」で2回 ロケ地として登場しています。

シリーズで2回ロケ地として選ばれたのは、この岡山県高梁市だけです。

山田洋次監督が感じるものが、ここ高梁市にあったのかもしれません。

実際に足を運んでみて、その理由がわかるような気がします。

また訪れたくなるような場所でした。v( ̄∇ ̄)v