「Vストで行く岡山~兵庫ツーリング 」の続きです。
岡山県津山市。
26~7年程前、トライアル競技をはじめて間もないNB時代に 何度か津山市北部にある黒木トライアル場で行われた試合に泊りがけで来たことがあります。
この頃は、大会が終わると四国までとんぼ返りで、観光らしいことをしたことがありませんでした。(^^;
今回は、津山城も見学してきましたよ。(・∀・)
無料駐車場にVストちゃんをとめ・・
てくてく・・
入場前にお勉強しましょうね (^_-)-☆
(松平家) 森家にかわり一〇万石の大名として新たな津山藩主となった松平宣富は、徳川家康の第二子結城 (松平) 秀康の曽孫で越前家と呼ばれ、徳川一門中に重きをなしていました。 そして明治四年(一八七一)に廃藩となるまで、九代一七四年にわたって続きました。
昔あったお城が、今ほとんど現存していない事はわかっていましたが、何故そうなったのか?
深く考えたことがないおバカなあたい。(^^;
↑の説明を読んで、よ~~くわかりました。(・∀・) ヒトツオリコウニナッタナ・・(* ̄∇ ̄*)エヘヘ
津山城跡の説明書きのお隣には・・
初代津山藩主森忠政の銅像と説明書き。
【森 忠政】 (1570~1634)
それでは入場しまひょ
てくてく・・
城内の櫓の数は六〇棟を数えます。 これは全国にある他の近世城郭と比べても多い方で、城内には建造物がひしめき合うように建ちならぶ堅固な城郭構成をなしていました。
さらに石段をトボトボ・・・
復元されたのは天守閣ではなく、備中櫓でした。
廃城前の写真も載っていました。大きな立派なお城であったことがわかりますよね。(^_-)-☆
せっかくここまで来たので、備中櫓の中も入ってみました。
この部屋で殿様は、「おおお、くるしゅうない。近うよれ (*´థ.థ`*) 」って言ってたんでしょうか??
知らんけど。
天守閣跡とその周りも、てくてく・・・
敵が攻めてきたら、この櫓に開けた穴から迎え撃つんでしょうかねえ??
天守台跡です。
ん!? ?q|゚Д゚|p
このパターン。よく見るなあ~~(^^;
ここからは津山市街が一望できましたよ。
歩き回ってヘロヘロになりながら、来た道を下っていきました。
おっ!! カッパさんも発見!! w(゚o゚)w オオー!
津山城、美作滝尾駅を見終え、せっかく津山に来たのであの有名な「津山ホルモンうどん」を食べていかんとあかんよね。(^_-)-☆
事前に調べておいたお店にとうちゃこ~~。
11時開店の30分前に着いたので、店前の椅子に腰かけて開店を待ちました。
「くいしん坊」さん・・ 岡山県津山市川崎138−2
メニューも置いていたので、キョロキョロ。
おおお、どれも美味しそう~~(☆゚∀゚)
開店、一番のり~~!
店内には私だけですが、じゃんじゃんお好み焼きを焼きだしていました。
予約の数も相当なんでしょうね。
しばらくすると、お昼前にもかかわらず、お客さんも続々入ってきていました。
myホルモンうどん! キタ━(゚∀゚)━! キタ━(゚∀゚)━!
おおお! ホルモン たっぷりヾ(=^▽^=)ノ
いっただきま~~す。
うまい!!
このお店オリジナルでしょうか。柚の酸味がホルモンの”脂っこさ”をやわらげ、どんどん口に入っていきます。
満足、満足!!
お腹もいっぱいになりました。
さてと・・。
岡山から、兵庫に向かいましょ
―旅は続きまんねやわ-
岡山県津山市。
26~7年程前、トライアル競技をはじめて間もないNB時代に 何度か津山市北部にある黒木トライアル場で行われた試合に泊りがけで来たことがあります。
この頃は、大会が終わると四国までとんぼ返りで、観光らしいことをしたことがありませんでした。(^^;
今回は、津山城も見学してきましたよ。(・∀・)
無料駐車場にVストちゃんをとめ・・
てくてく・・
入場料 310万両なり~~~(゚∀゚)アヒャ
入場前にお勉強しましょうね (^_-)-☆
【津山城跡】 国指定史跡(昭和三八年九月二八日指定)
津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長九年(一六〇四)に起工し、元和二年(一六一六)の完成まで一三年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
往時には五層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、 唐破風・千鳥破風等の装飾のない実戦的なものでした。
また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、 粟積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には七○余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。
明治六年(一八七三) 廃城令*によって城郭は公売され、翌年から八年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。
その後、明治三三年(一九〇〇) 城跡は鶴山公園として津山町の管理となり、昭和三八年に国の史跡に指定されました。
<歴代城主>
(森一家) 森家は清和源氏で、初代津山藩主森忠政は、美濃金山城主森可成の六男に生まれました。 慶長八年(一六〇三) 徳川家への数々の武功が認められて、信濃川中島一三万七五〇〇石の大名から美作一国 一八万六五〇〇石の大名に抜擢されました。この忠政は、本能寺の変で主君の織田信長とともに壮絶な最期を遂げた森蘭丸の末弟にあたります。 森氏は四代九五年にわたって美作国を治めましたが、四代藩主長成に嗣子がなく津山森藩は改易となりました。 その後、森家は二代藩主長継の子長直が備中西江原藩主として森宗家を再興し、さらに宝永三年(一七〇六) 播磨赤穂に移りました。
(松平家) 森家にかわり一〇万石の大名として新たな津山藩主となった松平宣富は、徳川家康の第二子結城 (松平) 秀康の曽孫で越前家と呼ばれ、徳川一門中に重きをなしていました。 そして明治四年(一八七一)に廃藩となるまで、九代一七四年にわたって続きました。
この文中に出てくる"明治六年(一八七三) 廃城令" が気になって調べてみました。
こちらにわかりやすく説明されていました。
↓
https://shirobito.jp/article/1344
こちらにわかりやすく説明されていました。
↓
https://shirobito.jp/article/1344
昔あったお城が、今ほとんど現存していない事はわかっていましたが、何故そうなったのか?
深く考えたことがないおバカなあたい。(^^;
↑の説明を読んで、よ~~くわかりました。(・∀・) ヒトツオリコウニナッタナ・・(* ̄∇ ̄*)エヘヘ
津山城跡の説明書きのお隣には・・
初代津山藩主森忠政の銅像と説明書き。
【森 忠政】 (1570~1634)
幼名を千丸。 元亀元年、美濃(岐阜県) 金山城に生まれる。京都本能寺の変で、織田信長を守護し、非運の最期を遂げた森蘭丸の弟。
天正一二年(一五八四)兄長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山七万石を与えられる。のち徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇) 信濃(長野県) 川中島一三万七〇〇〇石を領す。同八年美作国一円一八万六五〇〇石を与えられ津山に入封。 翌九年より津山城の築城に着手、また城下の町づくりを始め、現在の津山の基をなした。
寛永一一年(一六三四) 三代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。享年六五才。 なお、この像は、津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。
天正一二年(一五八四)兄長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山七万石を与えられる。のち徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇) 信濃(長野県) 川中島一三万七〇〇〇石を領す。同八年美作国一円一八万六五〇〇石を与えられ津山に入封。 翌九年より津山城の築城に着手、また城下の町づくりを始め、現在の津山の基をなした。
寛永一一年(一六三四) 三代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。享年六五才。 なお、この像は、津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。
てくてく・・
【津山城つるまる広場】
津山城が築かれた頃は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期であり、 津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。当時、この場所は広さを活かし「火薬庫」として使用されていました。
廃城後、昭和三十年には岡山県北唯一 の「鶴山動物園」として開園し、観光地として賑わいましたが、平成二十三年に津山城の石垣の修繕にともない惜しまれながらも閉園しました。
閉園以降は「動物園跡地」としてイベントなどに使用されていましたが、 平成二十九年に公園を管理する(公社) 津山市観光協会の創立六十周年記念事業の企画として跡地の愛称が公募され 「津山城つるまる広場」と命名されました。
命名者 赤坂健太郎氏
(¯∧¯)(_ _)フムフム・・ さらにてくてく・・
【城郭構成】
津山城は、吉井川と宮川の合流点を見下ろす小高い山 (鶴山)を利用して築かれた「平山城」といわれる形式の城郭です。 山頂を平坦に削って本丸と本丸を囲むように二の丸、三の丸が高い石垣によって階段状に配置され、南を大手、北を搦手としています。
三の丸下段の南、西、北側は総曲輪を形成し、その周囲を土塁と堀で固めています。一方の東側は急な断崖であ り、その直下に南北に流れる宮川を自然の防御線としています。
本丸への通路は、大手、搦手とも鍵の手状に曲がる「枡形虎口」が繰り返し形成されており、きわめて防御を意識した構成となっています。
城内の櫓の数は六〇棟を数えます。 これは全国にある他の近世城郭と比べても多い方で、城内には建造物がひしめき合うように建ちならぶ堅固な城郭構成をなしていました。
【城内最大の表中門】
表中門は、三の丸から二の丸にいたる通路の正門にあたります。門の形式は、一階部分が城門、二階部分が櫓となる、いわゆる櫓門で、城内に存在する門の中で最大です。櫓の東側は 袖石垣上に載り、西側は鉄砲櫓の高石垣に取り付いていました。門の櫓部分の長さは十六間(約三十二メートル) もありました。これは大阪城や江戸城の城門に匹敵するほどの規模です。
発掘調査により、東西方向に三列、 南北方向に五列(東端五石、西端四石) の礎石が確認できました。
さらに石段をトボトボ・・・
【備中櫓】 平成17年3月竣工
―概要―
備中櫓は本丸御殿の南西端に位置し、その名は鳥取城主池田備中守長幸に由来すると伝えられる。 森藩時代の基本的な史料である 『森家先代実録』には 「備中矢倉 池田備中守長幸入来之節出来」とある。 森忠政は長女於松を池田備中守長幸に嫁がせており、 長幸は忠政の娘婿にあたる。その長幸が津山城を訪れるのを機に完成したのが備中櫓であったと考えられている。 備中櫓跡の発掘調査で池田家の揚羽蝶紋の瓦が出土したことも、この建物が池田家と深い関係にあったことを物語っている。
備中櫓の外観は漆喰仕上げで通常の櫓と同様だが、本丸御殿指図には備中櫓がその東に接続する長局・到来櫓とともに描かれており、これらの建物が御殿の一部として認識されていたことを示している。 さらに指図よると内部には御座之間や茶室を備え、建具には「唐紙」を用いるなど、内部は完全に御殿建築であり、なおかつ繊細で女性的な仕上げであったことがわかる。 そのためこの櫓は、本丸御殿の最奥部という位置からしても、城主にごく近い間柄の女性もしくは城主自身の生活空間の一部として用いられたと考えられている
このような特異な構造をもつ櫓は類例が少なく、津山城の建物の中でも特徴的なものであるため、 復元整備の対象となったものである。
(上左) 明治初年に撮影された古写真。 中央が備中櫓。
(上右) 17世紀末頃の絵図に描かれた備中櫓。
(右) 備中櫓跡発掘調査の状況。
備中櫓の復元整備にあたっては、①発掘調査 ②文献及び絵図 ③古写真のデータを集積し、様々な角度から検討することにより、できる限り正確な形の復元を目指している。
備中櫓は慶長年間に建てられ、江戸時代を通して存在していたことが判明している。 ただ、途中で何度か改変が行われてお り、今回復元された備中櫓は、慶長年間に森忠政が築いた「備中櫓」を目標としている。 外観・内装・構造作事の技術に至 るまで、できる限り当時のものに忠実に再現している。
復元されたのは天守閣ではなく、備中櫓でした。
廃城前の写真も載っていました。大きな立派なお城であったことがわかりますよね。(^_-)-☆
せっかくここまで来たので、備中櫓の中も入ってみました。
この部屋で殿様は、「おおお、くるしゅうない。近うよれ (*´థ.థ`*) 」って言ってたんでしょうか??
知らんけど。
天守閣跡とその周りも、てくてく・・・
敵が攻めてきたら、この櫓に開けた穴から迎え撃つんでしょうかねえ??
天守台跡です。
ん!? ?q|゚Д゚|p
このパターン。よく見るなあ~~(^^;
ここからは津山市街が一望できましたよ。
歩き回ってヘロヘロになりながら、来た道を下っていきました。
おっ!! カッパさんも発見!! w(゚o゚)w オオー!
津山城、美作滝尾駅を見終え、せっかく津山に来たのであの有名な「津山ホルモンうどん」を食べていかんとあかんよね。(^_-)-☆
事前に調べておいたお店にとうちゃこ~~。
11時開店の30分前に着いたので、店前の椅子に腰かけて開店を待ちました。
「くいしん坊」さん・・ 岡山県津山市川崎138−2
メニューも置いていたので、キョロキョロ。
おおお、どれも美味しそう~~(☆゚∀゚)
開店、一番のり~~!
店内には私だけですが、じゃんじゃんお好み焼きを焼きだしていました。
予約の数も相当なんでしょうね。
しばらくすると、お昼前にもかかわらず、お客さんも続々入ってきていました。
myホルモンうどん! キタ━(゚∀゚)━! キタ━(゚∀゚)━!
おおお! ホルモン たっぷりヾ(=^▽^=)ノ
いっただきま~~す。
うまい!!
このお店オリジナルでしょうか。柚の酸味がホルモンの”脂っこさ”をやわらげ、どんどん口に入っていきます。
満足、満足!!
お腹もいっぱいになりました。
さてと・・。
岡山から、兵庫に向かいましょ
―旅は続きまんねやわ-